(note過去記事)生活すること、掃除をすること、ゼロにすること

(note過去記事:2021年10月3日公開)

 

生活する

先月は仕事が忙しかった。

 

その証拠に、部屋は過去最高レベルに物が散乱していて、風呂の床にも水垢とカビが見えそう。食器も流し場に置きっぱなしで、あと三日洗濯を回さなかったら、着るパンツに難儀するくらいである。コンビニで慌てて下着を買うのは、旅先だけがいい。

最近最後に窓際を拭いたのはいつだっけ。最近最後に風呂の排水溝を蓋を開けたのはいつだっけ。思い出せないし、思い出してもあんまり嬉しくないと思うから、考えるのをやめる。

 

(実質)一人暮らしをしていると、生活するだけで手間がかかることに気づく。親元を離れた大学1年生の時、何もしなければトイレも風呂も部屋も窓際も服も、よごれがたまっていくことに驚いた。生きることは汚れることであり、生活することは汚すことなのだと思う。

親と一緒に暮らしていた時は、幸いなことに親がその汚れをなかったことにしてくれていただけで、我々は生きているかぎり周りにも、そして自分にも埃が溜まっていく。メンテナンスをしなければ生きていけないのに、この社会では、日々マイナスをゼロにしてくれている人は往往にして不可視化されるきらいがある。そうやって、「当たり前にきれい」な社会が保たれている。ビューティフルジャパン。

 

話を家に戻すと、一人暮らしをしている人の多くは、その本人が自分の身の回りをメンテナンスしないと、いずれ生きてゆけなくなる。着る服がなければ外に出られないし、踏む場所がなければ足を怪我してしまうし、皿がなければご飯を食べることも億劫になる。

それはわかっているけれど、やはりメンテナンスは面倒なのだ。僕の場合、仕事が忙しくなってバランスが崩れ始め結果、こうなった。

 

ここでの「忙しい」というのは、単に時間がないというよりもむしろ、家事に注ぐ時間があれば少しでも休みたいとか、少しでも動きたくないとか、そういう風な状態になることを指している。

1日を振り返ると確かに家事をするだけの時間は捻出できるのだが、その時間を身の回りの整理に使う気持ちがない以上、それは「暇」とは言えない。心を亡くすと書いて「忙」とは言い得て妙で、忙しさの問題点は時間よりもむしろ心にあるような気がする。
ひとまず今日着る服があって、今日食べられるご飯がありさえすれば、明日より先のことはどうでもいいのだ。忙しい時、人の時間は、長くゆるやかに続いていく連続体というよりも、細かく、そして窮屈に分断されている。今日と明日以降は、違う時間なのである。

 

そうして僕の家は、最初に書いた通りの状況を招いてしまった。
ああ、忙しかったから、心に余裕がなかったから、家が散らかっているんだ、と思いながらベッドに寝転がっていたら、もう一つの因果関係にふと気づく。すなわち、家が散らかっているから、心に余裕がないと感じる、という方向の因果関係。

ギクッ。絶対そうだ。部屋の踏める面積が広ければ、僕たちは下を向いて歩く必要はない。着る服が少しでも多くあれば、今日はどれを着ようか考えて少し心も健やかになれるだろうし、皿がきちんと洗われていたら少し料理をする気にもなれるかもしれない。
生活のインフラが整っていないのは、それ自体が問題であるよりもむしろ、それによって豊かな活動をする気が失せてしまうこと、選択肢の自由度(それはすなわち心の自由度であると思う)が極度に狭まってしまうことの方が恐ろしい、と思う。

 

起き上がって、大掃除をはじめようと決意する。

心の余裕をむしばむ悪循環は、ここで多少強行だとしても断ち切らねばなるまい。一度この家をリセットしよう。ゼロに戻そう。生活する場所を、呼吸する場所をまっさらに戻せたら、多分心の土台も平らに均せる気がする。

そしてもしも、「忙しさ」の本質が時間ではなく心にあるのだとするならば、心の土台を一度なめらかにすることで、「時間のない」という状態を表す修飾語も、「忙しい」から「充実した」へとドラマチックに変わってゆくに違いない。違いなくはないのだが、そう信じたくもなってくる。

 

僕にはまだ、今日やらなければならない仕事があるし、明日からの一週間も多分どうせ時間がない。今もしも掃除を始めれば、今週末の感情は、きっと「今週は仕事が充実していた」になるはずである。いや、多分ならないけど、とにかく日曜日の僕できることは、大掃除だ。立ち上がる。

 

***

掃除をする

洗濯機を回す。柔軟剤が切れていることに気づいて、詰め替え用をきちんと買っていた過去の自分に感謝しながら、トクトクと注いでいく。

こんな風に僕の体にもエネルギーが注入されないかな、と思う。柔軟剤の場合は重さや外見からなんとなく残量もわかるけど、人の気力の残量は全然見えない。気づいた頃には底をついていて動けなくなっていることもあるし、もしも注入が必要だと気づけた時も注入方法がわからない時もある。

好きだった音楽を聴く、なんだかもう好きじゃない。好きだった食べ物を食べる、うーん、ひとりだとなんだか寂しいぞ。とりあえず寝てみる、睡眠は正義かもしれない。
気力がないことはわかるのに、どこで気力を補給すればいいかわからない、そんな中で、なけなしの気力を振り絞ってみたりして、僕たちは毎日ふんばって生き延びている。

 

なんて悲観的な思いを巡らせていたら、柔軟剤の中身が満タンになる。持ち上げると、重たい。その重さにちょっとだけ感動する。ここまで柔軟剤を使い切った生活の蓄積があって、その生活の中でなんとか稼いだお金で詰め替え用を買い、そうして今ひとり、無心でフローラルな液体を注いでいる。側から見たら、ちょっとフェルメールの絵画みたいに見えるかもしれない。

詰め替え用みたいに自分の気力も満たしたいとか言ってた割に、ほんの少しだけれども、自分の心の奥底が、みずみずしくなってゆくのを感じる。

 

洗濯機の機械音を轟かせながら、マスクをして風呂場に入り、カビ取りスプレーをカビ部分に吹きかける。黒ずんだカビ部分が、白い泡で覆い隠れる。なんともわかりやすい洗浄体験である。
いつから白=清潔みたいな考え方になったんだろうかと思いながら、やはりカビは無くしたいので、あらゆるカビの箇所にスプレーの銃口を向けて、引き金を引く。わずかな達成感と、鼻につく化学物質の臭いを感じながら風呂場を出て台所に向かっていたら、白いカビもあるよなあ、とふと思った。

 

皿を洗う。力を入れてスポンジでこすれば汚れが取れるという至極わかりやすい仕組みなので、腕まくりをして謎に意気込んでみる。なんとなく、親と最近話していないなと思って、食器片手に母親に電話をかけてみる。久しぶりに声を聞いたら元気そうで、「実家では排水溝の臭いが嫌だと思ったことなんてなかったなあ」と思いながら、目の前の排水溝に目を写して、嫌な気分になった。

大学1〜2年生の時、東京に憧れて上京した勢いのまま、自分の方言を矯正しようとしていたことを思い出した。その頃の自分はまあ遅れてきた思春期ということで、親と話す時も方言を使わないように頑張っていて、タメ語だとどうしても方言が出るので最終的に敬語を使って話していた、ような気がする。あの時きっと親はショックだっただろうなあ。もしかしたら、敬語でさえ方言特有のイントネーションが混じっていたのかもしれないけど。

今はもう、意識しなくとも標準語を話せるようになっているけれど、親と話す時は変に意識せずにそのまま方言を使うようになった。よくわからない一貫性を保とうとすることは青春の特権で、大人になるっていうのは一貫していない自分をそのままにしておけるということなのかもしれない、と思う。皿と排水溝を洗い終えて、電話が終わった。

 

放置していたカビスプレーを流すために風呂場に行く。シャワーで泡を落とすと、びっくりするほど床が白い。白っ。

こういうのをみると、本当に原因が解決されているのか不安になる。単に表面を漂白しただけで、実はカビの原因自体は駆除できていないのではないか?とか。大人になるっていう話の続きだけど、大人は「大人のフリ」が上手なだけなんだよ、みたいな言説をよく耳にする。

僕の知ってる大人もきっと、僕の知らないところで子供になっているのだろうし、僕も大人のフリをしながら心の中の子供をあやすことがたくさんあるから、その言説は多分8割くらい合っていると思う。思うけど、できることなら内側から大人になりたいし、体の内奥から滲み出るような余裕と品格がある人でありたいと思う。もしかすると、そう思ってしまうことが何より僕が子供である証なのかもしれないけど。

大人になることが物事を諦めるって意味なら、そんな大人になることを諦めようとする僕は、大人なのかな。いやでもそれは子供なのか。よくわからなくなってきた。風呂場は白く、光沢を放っている。

 

洗濯が終わって、干しに外に出る。窓を開けると、秋の午後4時の空気が入ってくる。金木犀の香りと、準備を始めた近くの家の料理の匂いが交じり合いながら、日光のあたたかさを纏って、鼻腔をさらりと通り抜ける。思わず口角が5度くらい上がって、外の世界には敵わないなと思うし、外の世界に感動できるうちは僕はまだまだ大丈夫なんだろうと思えてくる。

世界に対する感受性もメンテナンスが必要で、使わないままにしていると錆びて修理が大変になる。だから毎日窓を開けて、外の世界にいちいち感動することが、心に油を差すために必要だ。なまった体を動かして、大きく背伸びをする。その時ふたたび金木犀が薫ってもう一度、世界の手触りにおどろきなおす。僕はまだおどろける。

 

秋が好きだ。夏とも冬とも言い切れない秋が好きだと思う。多分、最初の季節は夏と冬の二つだけで、そのあとそのはざまの期間に名前をつけようと思って、春と秋が生まれたんじゃないかと妄想する。春よりも秋が好きだ。昔は、静かなものが賑やかになっていく過程が好きだったけれど、今はもう、賑やかなものが何を捨てて何かを忘れながら、そして何か思い出しながら静けさへと向かっていく有り様こそが生きるということだと思う。多分これも大人の考え方だな、と思う自分の幼稚さに気づく。

午後4時が好きだ。昼とも夕方とも言えない午後4時が好きだと思う。外に出かける人と、外から帰ってくる人が、それぞれの目的地に向かって歩いている。

どちらでもないもの、どちらでもあるものが、そのままで雄弁に佇んでいるのを見るのが好きだ。生きていると「〇〇と△△どっち?」なんて二択の質問に強制参加させられることが多い。でもこの世のほとんどのことが〇〇でも△△でもなくて、〇〇でも△△でもあって、あるときは〇〇であるときは△△だったりする。生きていることの醍醐味は、要約できない部分に宿っていると思う。

 

部屋の掃除をする。ひとまず床にあるものを捨てる。いらない紙、いらないレシート、いらない袋、全部捨てる。どんどん身軽になる。楽しい。僕は掃除をするために部屋を汚したのかもしれないとわけのわからないことまで考え始める。

ゴミ袋の中はいらないものでいっぱいになって、この中にあるものは全て、過去の僕にとっては必要だったんだよな、と当たり前のことを思う。この世に存在する全ての「ゴミ」が、過去の一点においては紛れもなく誰かから必要とされていて、そして今このタイミングで必要とされなくなって捨てられようとしている。あるいは、捨てられてきた。

一度必要になったものを、ずっと必要とし続けるべきだとは思わない。何かを大事だと思う気持ちは、ずっとは続かない。だから、何かを大事に思えているその瞬間に、とびきりそれを大事にすればいいと思う。そういうものだと思う。ずっとものを抱えていては、何も持てなくなってしまう。

だけど、捨てられるまでそれが確かに誰かの(場合によってはかつて大事にしていた)所有物であったということ、捨てられるまでそれが紛れもなく誰かの生活を成り立たせていたことを思う。思うだけだけど。

きれいになった部屋の真ん中で、ゴミ袋をしばる。

 

 

ああ、ゼロになった。家の中がゼロになったよ。ゼロというと、何だか「自分が生きていた痕跡」を抹消したような気がしてうっすら不安になってくるけれど、これでまた今から、自分が生きていく痕跡を残していける気がしてくる。

窓を開ける。空気がするりと循環して気持ちがいい。何も生み出してないけれど、自分が生きている手応えがある。自分が生み出した汚れを、自分の手で(もちろん自分だけではないけれど)掃除すること。暮らしの新陳代謝をよくすること。自分の生活に責任を持つこと。

 

明日からまた汚れることはわかっている。生きたぶんだけ汚して、汚したぶんだけまた掃除する。一ヶ月以上も放置するのは、もうやめたい。

 

***

ゼロにする

僕たちは日ごろ、「成長せよ」というイデオロギーに取り囲まれながら、生きている気がする。

自己成長、自己刷新、自己啓発・・・本屋に並んだ本も、街の掲示物も、上司の言葉も、それぞれ言葉は違えども、結局のところ言っているのは「今のあなたに甘んじず、プラスの方向に成長しなさい」ということで、それを綺麗にコーティングしたら「新しいあなたになる」みたいな言い方になるのかもしれない。あるいは、もっと意地悪に言うとしたら「これを知らないあなたはヤバいかも?」みたいな言い回しになるんだろうか。

言い方はどうあれ、どちらも言わんとしていることは同じである気がする。私たちはどうやら、社会で生き延びていくためには、現状のままでいてはならず、1日前より「進んだ」人間になろうと志向すべきであるらしい。

確かに、現状のままで放置すべきでない問題や、進めていくべき課題は山ほどあって、それを実際に改善していくことは何より必要だと思う。けれど、この世にはきっと本来必要ではない「改善」や欲望もあって、この社会の中で生きている我々には、その2つの区別をすることはむずかしい。

 

前に進まねばならない、プラスを生み出し続けなければならない、そういう風に言われてすり減り始めた心を持て余したまま生きていると、ついついマイナスをゼロにすることを長いこと忘れてしまう。

そんな風に、身の回りや自分の心を散らかしながら生み出す「プラス」って何の意味があるんだろう。もっと僕に体力があれば、仕事をしながらメンテナンスも欠かさないでいられるかもしれないと思うし、結局民間企業に勤めながらお金を稼ぐためにはプラスを生み出さなければならないとも思う、けれど、そんな風に納得しようとする自分を見ると、どうしようもなくさびしくなる。

 

何というかこの社会には、マイナスをゼロにすることの大切さや尊さを教えてくれる人が少ないし、マイナスをゼロにする人の存在を見えなくさせるような雰囲気があるような気がしてくる。

フェミニズムにおいても、企業に働きに出て日本経済を成長させる「夫」の生活を維持し、エネルギーを再生産するための「家」の中に囚われて不可視化される「妻」、という不平等な構図が批判されてきた。男女で役割分担が決まっていることもおかしいし、どちらかの役割が社会において不可視化されることもおかしいと思う。

ゼロをプラスにする人と、マイナスをゼロにする人のどちらが偉いと言いたいわけではない。それでもやはり「マイナスをゼロにする人」を舐めるなと言いたいし、「マイナスをゼロにすること」の尊さと難しさをみんなどうか忘れないで欲しい、忘れたくないと願う。

 

プラスを生み出すことと、マイナスをゼロにすること、その二つのバランスが取れるようになる日はいつ来るんだろうかと不安になる。自分の部屋が再び荒れてしまわないかと心配になる。そもそも自分はこんな生き方で大丈夫なのかと見えない将来が怖くなる。けれど、こんな風に家を整えることができる自分ならばきっと大丈夫だと、根拠なく言えるような気もしてくる。

 

広くなった自分の部屋で、僕は今から、少し背筋を伸ばして仕事を始める。

 

 

 

 

(note過去記事)LGBTQ+の人ってどう恋愛すればいいの

(note過去記事:2021年8月24日公開)

 

おい苔よ、あんた最近ずっと恋バナばっかしすぎじゃない?って思ったっしょ?そうなの、ガチでそうなんよね。
でもさー、恋バナはできる時にしといたほうがいいと思うわけ。いつのまにか恋バナをする体力も気力も無くなるし、死ぬ時に、ああ、あの時もう少しだけ恋バナしといてもよかったかもな〜って思う時がくるかもしれんやん?来なくてもやります 楽しいので

 

でもね聞いて、話す恋バナがないわけ。好きな人おらんし。好きな人できんし。だから今回は、恋バナがないよっていう恋バナをしようと思います!話す恋バナがある人のことガチで羨ましいんやけど、絶対今度アンタの恋バナ聞かしてね

 

クィアの人って現実世界で恋できんくない?

僕まあクィア?っていうか?男のことを好きになる男?って感じ?なんやけど、男のことを好きになる男ガチで現実世界におらんすぎて困ってます。

 

なんかさ、よくある恋愛ドラマでは一目会った瞬間とか、街角でぶつかってとかあるやん。それがあまりにドラマチックだとしてもさ、周りの友達とかクラスの人と自然な感じで距離縮めてカップルなるとかあると思うけど、こっちからするとなんかビビるほどスムーズに見えるわけ。

なんで「この人って異性のこと好きになる人なのかな?」って確認するフェーズないん?!??!?!?!なんで?!?!?!??!ガチでなんで??!!??!?!え待って書いてて辛くなってきた

 

クィアのみんなって現実世界で人を好きになる時絶対「この人って同性のこと好きになれるんかな」の段階挟むっしょ?今読んでるそこの君!そうっしょ??そうじゃなかったらどうしよ

さもなければ、自分が恋愛対象じゃない人に恋して、精神ズタボロにされながらもたくましく大失恋するルート一本道なわけじゃんね。好きになった瞬間に自動的に失恋。恋する土俵にすら立てないし何なら嫌悪されるとかとかもあるよね。やば、ふさがったと思ってた古傷開いてきたんやけど・・・

 

 

 

 

 

 

ビール買って来たよーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

実際問題、同性のこと好きになる人ガチで周りにおらんくない?統計的に数%らしいし、自分がカミングアウトしてなければ気づかれないし、カミングアウトしてない相手も多いし、しかもいたとしてもすでに恋人持ちやったりするよね。てかすでに相手がおるクィア本当に何者なん?どんな技使ったか教えて欲しい

こういう話すると、まあ確かに異性を好きになる人でも相手が恋人持ちで失恋するとか、好きになるのが望ましくない人を好きになるとかあるよな〜って思う。思うんやけどさ!!!!思うんやけど一旦今だけはちょっとクィアのターンってことでいい?あとで合流しよ

 

何が言いたいかというと、現実世界では恋人候補ができる気配はマジで少ないし、もっというと人を好きになるリスクすら高いんですね。いや、言い訳してないでもっと努力しろよ!とか、そもそも自分磨きしろよ!とか、あるのもわかるよ?わかるんやけど、今はボヤキの時間ってことでちょっと優しくしてほしい てか結構ウチ自分磨きまくってて最近発光してます

 

パターンA:マッチングアプリ使う

はい、おなじみマッチングアプリ〜〜〜!!!!!マッチングアプリ作ってくれた人マジでありがとう。全員gayとかマジでありがとう。

って思って始めるやん。でね、登録進めていたらこんなん出てくるわけ

「ポジション:タチorウケorリバ」
※意味はググってください

 

初めて会う人に自分のセックスのポジション教えるのふつうに嫌じゃない?何でわざわざ自分が性器を入れるかどうかを開示しないといけないのかわからんし、そもそも何でセックスする前提なのかが謎。最近は未設定にできるし、アプリによっては性器の挿入を伴わないセックスが好き、みたいな設定もできたりして、マジありがたいよね。

 

でもさ、仮に自分がそうだとしても、もし相手がそうじゃなかったら、相手のポジションをわかった上でチャットが始まるのってなんかやっぱおかしくない?僕はおかしいって思うんです。なんかちょっとイメージよぎるやん。え、これって僕が変態ってだけ?そうやったらガチでどうしよう

あと実際ヤリモクのメッセージとかくるし、最悪激ヤバ写真とか突然送られてくるし、マジで何?怖いんやけど本当に

まあ僕はそんなにガチガチのセックスしたくない派なのでただ僕が向いてないってだけかもしれないけどォ!!でもさァ!!でもさァ!!サァ!!!!!やっぱ僕にとってはちょっと自然じゃないワケ・・・。ていうか激ヤバ写真送るのはセックスしたかったとしてもダメだろ

 

万が一いいなって思う人いてもさ、マッチングアプリってなんか違くない???ここからクィアじゃないけどアプリじゃときめかない人もマジみんな集合ね、ほら円陣組むよ
白状するんやけど、やっぱウチらって現実世界で恋したくない?僕多分めちゃくちゃデミロマ/デミセク寄りの人間で、友達としての濃密な時間を経由しないと付き合いたいとか一緒のベッドで寝たいとか思わないワケよ。でさ!!!そんな人間がさ!!一体どうやって!!!アプリで人のこと好きになれるってワケ!?!?!?!って思うよね、気づいちゃった?

 

なんかほら・・・少しずつ名前の呼び方変わったりとか、クラスの中にいるその人のことが好きだったりとか、正面の顔じゃなくて横顔が好きだったりとか、自分じゃない誰かと一緒にいる時のその人に惹かれたりとか、付き合って「いや出会った時はまさかこうなるとはね」って言うとか、まずは人間同士の魂の相性を確かめ合ってとか、恋人じゃない時代の思い出を二人で懐かしむとか、そういうのをな、そういうのをやってな、大きな愛を作ろうと思うたんじゃ

 

今「え、じゃあアプリでゲイの人と友達になってからその人と仲良くなればよくない?」って思った人いる?アンタさては頭脳派だね
ここからはふつうに僕のただの文句なんですが、僕、生きてるついでに人のこと好きになりたい・・・・・・。ゲイかどうかで友達になるか決めるとかじゃなくて、ふつうにクラスの友達として一緒に色々遊んだり、同僚として一緒に仕事する中で、そのついでに好きになりたい・・・・・・。しかもゲイだから友達になりたいってわけでもないし・・・・・・。あと一応会社員だしそんなに新しくどんどん友達を作れるほどの時間もない・・・・・・。

言い訳ばっかり!!!!!でも言い訳くらいさせてよ!!!だってこういう恋愛ふつうにできてる人この世に結構いるじゃん!!!!!生きてるついでに恋愛して結婚してる人、みんなではないけど、いっぱいいるじゃん!!!! 取り乱しちゃってホントすみません。踏ん張りなさい苔

 

まあでも結局、さっきも言ったみたいに現実世界じゃ難しいから、アプリで出会うしかないんやけど、でもちょっと自分の人生振り返ってみて欲しい。

自分が見てきた恋愛ドラマとか恋愛漫画、めちゃくちゃ幼馴染とか、同僚とかクラスメイトとか部活の人と付き合ってない?そういう「自然な恋愛」を見て育ったら、そりゃあそういうことしたい人にもなるくない?欲望って社会が作る側面も強いし。それで大人になって「はいあなたはクィアだから現実世界の恋は諦めてどうぞアプリお使いください!!!」って、ちょっとそれはズルいってか、いやズルくはないんやけど、ズルいよね。

花より男子」も「君に届け」も「プロポーズ大作戦」も、全部マッチングアプリスタートエディションを作ってもらってからもう一回そのセリフ言ってもらっていいですか?!?!?!?!?

 

パターンB:二丁目に行く

まあこれも、友情から始まる恋愛大好き人間にはきついものがあるよね。

何回か行ったことあるんやけど、あそこって出会うだけでもすごいお金かかるし、独特のムードやノリがあるし、そもそも二丁目に来てるって時点である程度人の偏りがあるしで、ちょっとこれも「自然な恋愛」を求める僕には今のところ合わなかったのでありました・・・。

 

学校とか会社って、無料で恋愛対象の性に出会えるチャンスあるのすごすぎる

 

パターンC:親友からの紹介

これ、一番いい気がする。でも僕の親友の友達たちの中にオープンリーゲイの人いませんでした!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!なんで?!?!!?!!!!!?!?!??!?!?!!?!?

 

パターンD:クィアの国を作る

これガチで将来の夢すぎる。やっぱクィアに生まれたからにはクィアの国作りたいよね。親はクィアで、周りの人(ほぼ)全員クィアだと疑わなくて、カミングアウトもいらなくて、ふつうに友達からスタートして、自然と恋愛に発展したりしなかったりするやつ・・・。え待って、これって異性愛者に生まれてたら今ごろ享受できてた世界ってこと??!?!?!?!??!?!!?!?!??!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!ヤダーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!いい加減にして

 

終わりに

ビール美味すぎる

 

いや〜〜ここまで読んでくれた人たちガチ付き合ってくれてありがとう、ここまで悩みさらけ出したら、もう僕らってマブよね

 

ちょっと今回はクィアの人たちのために魂を捧げ過ぎて話し込んじゃったけど、今度は異性を好きになる人の、いろんな事情で付き合えなかったりした話も聞かせて欲しいよ できる連帯はたくさんした方がいいからね
ちょっと今回攻撃的に聞こえちゃったところとかあったらごめんなさい!!!!

 

ちなみに僕の好きなタイプは、奥二重で涙袋が大きくて短髪で笑った時に目が線になって香水つけてないけどいい匂いして本(学術書・小説・エッセイ)を読むのが好きな男ですので、僕の周りでそういう人いたら絶対教えてね 友達から始めましょう よろしくお願いします

 

(note過去記事)フワちゃんが好き

(note過去記事:2021年7月14日公開)

 

持ち前の明るさと奇抜さ、親しみやすさで、最近ずっとテレビに出ているフワちゃん。

 

わたくしフワちゃんのことが大好きなのですが、みんなはフワちゃんのこと好き?

 

フワちゃんって明るくて元気出るからすき〜、で終わらせてもいいんだけど、フワちゃんのどこが好きかを自分なりに考えてみたときに、
単に「フワちゃんは明るくて元気が出るから好き」にはとどまらないような感情が少しずつ芽生えてきたので、今回は僕がフワちゃんのことを好きな理由をちょっと堅苦しい日本語で言葉にしてみたいと思います。よろしくね

 

フワちゃんは、ギャルである。

フワちゃんはギャルである。

フワちゃん自身がそう自称しているだけでなく、フワちゃんのファンのことは通称「フワギャル」と呼ばれているくらいだから、好きになっただけで人間をギャルにさせてしまうフワちゃんは相当なギャルであることがうかがえる。

 

ところでギャルってなんだろう。

専修大学ネットワーク情報学部の上野、鈴木、星野は「多角的な「問い」を生成するためのロールプレイイング型発想ツールの提案」という文書において、「委員長」と「ギャル」という二つのロール(役割)をそれぞれ次のように定義する。

委員長:詳細なインプットを行うが、自身の経験や知識から連想される先入観に固執してしまい自由な発想を苦手とする人物像
ギャル:前提知識が不足しているが故の「感情的,直感的,理不尽,自己中心的,楽観的」な発言を意識せず可能にしている人物像

ここにおけるギャルの定義を少しアレンジして、ここではギャルを以下のような人物と定義する。
:社会規範遵守意識が不足しているが故に社会規範から逸脱した発言や振る舞いを意識せず可能にしている人物

何となく、皆さんの中のギャル像・フワちゃん像と近いような気がする。

 

けれど僕は、単にフワちゃんの社会の決まりに反抗するギャルな姿がかっこいいから見ていてスッキリするとか、底抜けのポジティブさに憧れるとか、そういうことだけを言いたい訳ではない。
僕が思うフワちゃんの魅力はむしろ、「社会規範から逸脱した振る舞い」を通して、社会規範とは異なった道を指し示すだけでなく、その過程で社会規範よりも大事なことを我々に思い出させ、社会規範自体の効力を弱体化させてくれるようなところである。

 

これについて、簡単に2点、実際のフワちゃんの「社会規範から逸脱した振る舞い」をもとに考えてみる。

 

①フワちゃんのタメ口

フワちゃんは、タメ口を使う。初めて出会った小学生から、ダウンタウン黒柳徹子にまで、タメ口を使う。

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一般的な社会規範は、「目下の人は、目上の人に敬意を示すために敬語を用いるべきである」というものである。

しかしどうだろうか、フワちゃんは現に目上の人からも愛され、可愛がられ、ここまで来ている。それは単にフワちゃんが「そういうキャラだから許されている」わけではない。

オードリー若林は以前ラジオで次のように語っている。

(フワちゃんにとっては)あの感じがもう敬語なわけじゃん。タメ口だけど、人間が好きだから。

「あの感じ」とは、フワちゃんの振る舞いや人間性全体を指す訳だが、そのフワちゃんの人間性自体がそもそも「敬語」である、と若林は述べる。

このフワちゃんのあり方は、「敬語=敬意」という社会規範をいとも簡単に塗り替える。
確かに、敬語は敬意を示す上での簡単でよくある方法ではあるが、敬語を使っていないからと言って敬意がない訳ではないし、もっというと敬語を使っているからと言って、敬意がある訳でもないだろう。
敬語を使わないフワちゃんと、敬語を使う別の人が同じ画面にいると、果たしてどちらの方が相手に愛を持っているんだろうかと考えこむ。

裏を返すと、さらにこういうことも言えるかもしれない。
「目下の人は、目上の人に敬意を示すために敬語を用いるべきである」という社会規範は、徐々にその効力に影が見え始めうる。なぜかというと、敬語を使っていれば必ず敬意がある、という命題がもしも偽であるのならば、ある人が本当は敬意なんてないにもかかわらず敬語を使用することで「見せかけの敬意」を作り出している可能性が示唆されるからである。
フワちゃんの前では、敬語は空虚な記号へと転じる可能性を持っていて、これは同時に、我々の社会規範に対する抵抗のバリエーションを生み出しうる。

 

我々は日々、苦手な相手にも、敬語を使う。けれど別に、敬意なんてなくても敬語は使えるのである。我々は、敬語があるおかげで、苦手な相手に心から敬意を持たなくても、むしろ裏では反抗していたとしても、何とか社会生活をやり過ごすことができる。
ここで「敬語」はもはや、我々に課された義務であるよりもむしろ、抵抗をする上での武器として、価値が転換されている。

こうして、本来は社会規範を維持する装置であったはずの「敬語」が、逆説的に社会規範を撹乱しうる装置として意味が書き換えられる、と言えるかもしれない。そして同様に、フワちゃんのような、「敬語」を用いない形での親密なコミュニケーションの可能性も開かれる。結局大切なのは敬意なのだということを、フワちゃんは大胆に我々に提示する。


フワちゃんは自身のファンブック『フワちゃん完全攻略本』にて、タメ口についてこう語っている。

生粋の女芸人達が避けて通る「かわいい」「オシャレ」「先輩にタメ口」。女芸人にとって必要ないって思われてたその要素を逆にあたしの最強の武器にすることによって、正攻法じゃ立ち向かえなかった芸人と一緒にTVに出ることができたと思ってる!

 

このように、あくまでフワちゃんは、タメ口を芸能界で戦うための武器としてしか認識していないように見える。しかしながら紛れもなくフワちゃんのタメ口によって我々は(勝手に)、我々を取り囲む社会規範への抵抗の術や、新たなコミュニケーションのあり方の可能性を見いだすことができる。

 

全然話ずれるんですけど僕はオードリー若林の顔が超好きです。

 

②フワちゃんのスポブラ

フワちゃんは、スポブラを着ている。どんな場面でも露出度の高い服装をしている。

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これまで「女性」が肌を出した服装をすることは、「(主に男性によって)見られる客体」としての女性像を促進しやすい傾向にあったように思う。(特に絵画論などでは、眼差しの主体/客体のジェンダー格差などがよく論じられている。)

男性の一定数は女性の水着グラビア写真を主体として眼差し、女性が胸元の開いた服やミニスカートを履けば「誘ってる」と男性に解釈され、さらには、露出度の高い服装は痴漢の原因となるという論理で、男性の性的加害性を正当化する道具として使われることもある。

ここでの社会規範はこうである。「肌の露出の多い女性は、(主に)主体的な男性の視線の客体となる。」

 

スポブラについてフワちゃんは、ファンブックでこう語っている。

(スポブラって)派手でかわいくってスポーティーで大好き!

フワちゃんは、スポブラという露出度の高い服装をしているが、それは見られる客体というよりもむしろ、見せる主体として、そしてそのようなかわいい服を着る自分を楽しむ主体として表象されている。

このフワちゃんのあり方は、これまで男性主導のメディアが用いてきた「露出度が高い=見られる客体」というありふれたコードの例外として機能する。

一度このコードに例外が生まれてしまえば、それは我々が既存の社会規範の正当性を切り崩し、それに対して抵抗を示す契機となりうる。

 

女性が肌を見せる服を着ていようとも、それは眼差されるだけの客体としての地位に甘んじる意思表明でもなければ、(言語道断だが)触っても良いという許可を示すものではありえない。

それは自分の好きな服を着る、そして時にそれを見せつける、という主体性を意味する可能性を含んでいるのであり、そうなると、従来露出度の高い服が持っていた、男性に屈するという意味合いは次第に薄れていく。

痴漢されたくなければ、肌を見せない服装をしろという主張は本来、何から何までおかしいのである。


我々が目指すべき社会は、女性が襲われないように服装の指導をしてあげる社会ではなく、服装に関係なく女性が安心して街を歩ける社会のはずである。

女性は(主に)男性のために露出度の高い服を着ている訳ではなく、むしろ結果として、そのような規範に対してある種の抵抗の意味合いを持ちうる。

これも、「スポブラってかわいい!」と話すフワちゃんからしてみれば意図したものではないだろうが、確かに我々はフワちゃんの生き様から、ギャルとしての楽しさと強さを(これまた勝手に)受け取ることができる。

我々は本当は、何を着て人生を楽しんだって良いはずなのだ。

 

フワちゃんのクィアネス

その他にも例えば、フワちゃんはよく物を忘れてしまいがちな自分の脳みそを「かわいい」と言ってみたり、自分が可愛いと思ったものをとにかく着るなど、「かわいい」という言葉を、ありがちな「他者ウケ」の意味合いから「自分ウケ」の意味合いに強烈に転換させたりする。

また、フワちゃんの喜怒哀楽を全開にして愛されるスタイルは、上述のフワちゃんファンブックでトンツカタン森本が語るように、日本人のどんな時でも我慢すべきというという美徳に、疑いを生じさせる。

友情関係に目を向けても、性別を問わず友達と仲良くするフワちゃんの姿は、「男女で友情が成り立つか否か」という古典的な社会的論争の頭上を、軽々とスキップひとつで飛び越える。(もっというと、「男女」というジェンダー二分法および性別至上主義自体に異を唱えているようにも見える。)

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いずれにせよ、フワちゃんの「社会規範から逸脱した振る舞い」は、現在の社会規範を相対化させ、疑いを投げかけたり、そうでないオルタナティブな生き方を見せてくれたり、あるいはそれに抵抗する術を我々に提示してくれたりする。

社会規範は、自明に存在するのではなくむしろ、日々の人々の行為や言説の反復を通じて生成・維持されていき、しかしそれゆえに行為や言説を通して書き換えることができるのだ、というのはクィアスタディーズにおいておなじみの考え方であるが、その意味でフワちゃんは、クィアなクィーンにすら見えてくる。


とはいえ、実際に社会規範の内側で日々生きてもがいている我々から見ると、依然として強固に見える社会的なしきたりも多い。

そんな中でギャル・フワちゃんは、社会規範遵守意識が比較的低い(=それより大事なことがある)ゆえに、我々が当たり前だと思って特に息苦しく感じているようなルールを超えて、フワちゃんなりの道をただただ行く。

その軽やかさに、我々はたまに、救われる。

 

だからみんな、フワちゃんに、心のどこかで憧れる

フワちゃんの親友であるトンツカタン森本は、フワちゃんTV『親友からフワちゃんへ「100の質問」』の中でこう語っている。

(フワちゃんは)良いヤツですね。なんかこう、人情味溢れるというか、義理堅いというか。だからみんな好きなんじゃないかなって思いますね。
……フワちゃんみたいに、なりたかったのかも。ある意味で。

トンツカタン森本は、いわゆる優等生キャラ・真面目キャラで、ギャルとは程遠い「委員長」タイプの人物であるように見える。

そしてきっと我々もそうで、日々色々なルールの中で閉塞感を感じながら、ついくじけそうになる瞬間がたくさんある。そんな時、ふとフワちゃんの動画を見たくなる。

 

フワちゃんがドラムを叩く動画のコメント欄に、こんなコメントがある。

このチャンネル見てると度々思うんだけど、世界に光が満ち溢れすぎていて泣いてしまう
フワちゃんとかその周りの人を見てると自分の目にくっついちゃった汚い色のフィルターがどんどん剥がされていくような気持ちになるよ
いつもありがとね

 

フワちゃんがただ街を散歩する動画の中で、フワちゃんは持ち前の愛に溢れたタメ口コミュニケーションで、老若男女問わず次々に友達を作っていく。そうして仲良くなりながら美味しいものを食べて、とことん楽しんだら、派手な帽子をかぶって家に帰ってゆく。

この動画を見たとき、「人生ってこんなに単純だったのか」と思って少し泣いた。生きていると本当はそんな単純じゃないんだけど、フワちゃんの動画を見ている間は、少し単純な気もしてくる。だから、救われる。

僕たちは多分、世界が単純に見える瞬間を必要としている。

 

そして同時に、だから僕たちはフワちゃんに憧れる。

生きているなかで我々は、知らず知らずのうちに世界を狭めて、なくてもいいルールに縛られて、疲弊する。

繰り返される毎日の中で、そんな規範を軽々と超えていくフワちゃんの生きる世界を見ると、ああこういう風に生きてみたいと思わされる。

フワちゃんが生きる世界は、遠く離れた別世界ではない。むしろ我々が生きている過程で知らず知らずのうちに入り込んでしまった壁のすぐ外側にある世界であって、いらない社会規範や「汚い色のフィルター」を一個ずつ取り除いていければ、自分も手が届くかもしれないと思わせられる、そんな世界である。

 

小学校低学年の頃の夏休みに見た綺麗な海みたいな、そんな頃の記憶を、フワちゃんを見ると思い出す。「かつてそうだったかもしれないけど、もうそうではなくなってしまった自分」が多分、フワちゃんなんだろうと思う。

フワちゃんはよく、愛おしいものを見つけると「赤ちゃん!」と呼んで愛でているけれど、実は人類の中で誰よりもフワちゃんが「赤ちゃん」に近いのではないかと思えてくる。

そう考えると、トンツカタン森本が「フワちゃんみたいになりたい」ではなく「フワちゃんみたいになりたかった」と語った心情が、より深いところまで伝わってくる、気がする。

 

とはいえ、我々の多くが、今から完全なるフワちゃんになることはできないし、それに耐えうるだけの人間性もあいにく持ち合わせていない。だし、もしも全員がフワちゃんになってしまうのも、それはそれであぶない。だから少しの間、我々はフワちゃんの中に夢を見る。

部分的にだけでもなりたい自分を取り戻していくために、あるいは束の間だけでも大丈夫になるために、フワちゃんが生きている血の通った世界と清々しいギャルマインドをスクリーン越しに体験する。

そのとき我々は、ほんの少しだけギャルになる。あるいは、ギャルであったことを思い出す。

 

フワちゃんを好きというだけで、名前だけでも「フワギャル」になれるのは多分、そういう理由だからだろうな。

 

(note過去記事)母の日に母親にカミングアウトした

(note過去記事:2021年5月11日公開)

 

母の日の夜、母親に自分のセクシュアリティについてカミングアウトをしました。

そこに至るまでの経緯や、なぜ母の日にカミングアウトをしたのか、そもそもカミングアウトとは何か、カミングアウトはすべきなのか、といったことについて、せっかくなので記しておきたいと思います。

 

てか、カミングアウトって言葉なんか長いし仰々しくね?目とか疲れん?大丈夫そ?

 

すでにカミングアウトをした/された人。
いつかカミングアウトをする/されるかもしれない人。
今誰にもカミングアウトをしていない人。
そして、今誰からもカミングアウトをされていない人。

上記のどれにも当てはまらない人がいないように、カミングアウトに無関係な人はいません。カミングアウトをされていない、ということが大きな意味を持つことだってあります。カミングアウトは、(もっというとあらゆる社会の問題は)全員が当事者だ、とあえて言います。

 

そんな感じで、個人的なお話をつらつらと書くね〜
超長いので、飽きるまで読んでいってくださいませ


(※以下、最後にも書きますが、決してカミングアウトをすべきだと言うつもりはありませんし、僕の言っていることが全て正しいわけでもありません。この人はこんな感じの人生なんだな〜と思っていただければ、それだけで十分です。)

 

自分のセクシュアリティについて

はじめに簡単に自分の情報について簡単に記しておくよ。

生まれの性別は男性で、性自認も男性です。性的指向については、ざっくりいうと「女性を好きにならないことは確信しており、好きになるとしたら男性な気がするが、恋愛的に付き合いたいとかの感情がややわからず現状は確信が持てない」という状況です。それゆえ、自分のことを、非異性愛者だと自認しております。

 

・・・複雑すぎん?ただ、その複雑だなあという気持ちだけを噛み締めて、次に進んでくれると嬉しいよ。逆に、あなた(異性愛者含む)のセクシュアリティって、そんなに明確って自信を持って言えますか?言えるならすいません

 

カミングアウト以前

自分のセクシュアリティが「周りと違う」ということを感じ始めたのは大学生の頃です。一人暮らしをし始めて自分と向き合う時間が増え、少なくとも異性愛者ではないかもしれないと思うようになり、その確信が日に日に増していきました。

ただ、その事実は、すんなり飲み込むにはあまりに棘のあるものでした。もしも自分が異性愛者でないと認めてしまったら、それは幸せになれないということとイコールなのだと、その当時は本気で思っていました。

 

なぜなら、この世の幸福像があまりにも規範的な異性愛者を前提にしているものだったからです。

多くのメディアによって構成された幸せな人生像といえば、異性間の恋愛にうつつを抜かす青春時代を経て、社会人になってからは、マイホームに夫婦と子供と犬。死ぬ時は配偶者や子供や孫に見守られて大往生。そうじゃない幸福像があまりにも少なかった。加えてテレビの中の非異性愛者は笑い者にされている。
今はそうでないものも少しずつ増えているし、自分から情報を探しにいけるけど、メディアに取り囲まれて生きていた20歳そこそこの僕の中にある幸福像は、そう簡単に取りはらえるものではありませんでした。

かわいそすぎ、テレビ捨ててあげたい。

 

自分が異性愛者でないことを認めてしまったら、世の中のレールから外れてしまうんじゃないか、幸せになれないんじゃないか。
ましてや、人に言ったら、笑い者にされるんじゃないか、いじめられるんじゃないか、社会から排斥されるんじゃないかと、泣きながら眠る夜も決して一度や二度ではありませんでした。

かわいそすぎ、涙拭いてあげたい。

 

だからこそ、この「秘密」は誰にも言えずに、1人で死んでいくのだと信じていました。人と接する時も、どこか深いところで自分じゃないふりをしながらこれから生きていくしかないのだと、自分のままでいることを諦めていました。

自分の、周りと違う性的指向を言えないのは、ただ単に人と恋愛話ができないということではありません。常に、今の話が恋愛話に発展していかないか不安を抱えながら人と話すということです。常に、相手に対して何かを隠しているという感覚があるということです。常に、社会からいないことにされる感覚を繰り返し経験し続けるということです。

 

そんな中、アメリカのミュージカルドラマ「glee」を観るようになりました。ここで初めて、僕は「幸せな非異性愛者」の人生に触れることになります。一話見るごとに、少しずつ、少しずつ、僕の中に根深く存在していた幸福像が崩れ落ちていくことがわかりました。

なんだ、僕ってふつうに幸せになれるじゃん、と思えた。僕が思っていた幸福像は社会が勝手に作ったものに過ぎないんだなと思えた。

こうして、少しずつ、本当に少しずつ、異性愛者ではない自分、そんな自分がこの世に生まれてきたことを受け入れることができるようになりました。

 

とはいえ、周りの誰にも言えないという状況があることは事実でした。自分でなんとなく認められるようにはなってきたけれど、他人に認められずして自分を認めるということは、むずかしかった。
自分さえ納得していたらいいなんて、そんな簡単ではなくて、そもそも人に言うことで自分に納得できることもあるということもわかってきました。

 

初めてのカミングアウト

そんな中、すごく仲のいい友達に、決して恋愛の話を僕に振ってこない人がいました。そしてその人は他人の聖域に土足で入ってこないような人であり、それが誰に対してもであるということも見ていてわかりました。


この人になら言ってみてもいいかもしれない。この人に話すことで、もっと自分を認めることができるようになるかもしれない。何より、自分だけで背負わなければならない重荷を下ろせるかもしれないと思いました。
もしかしたら、言うことによって、不本意だけれどもその重荷の1000分の1くらいをその人に託すことになってしまうかもしれない。けれどきっとその人であれば、それをヒョイとかついでくれるかもしれないと信じたかったし、何かあったら僕もその人の重荷を背負ってあげたいと思いました。


とはいえ、もしも言ったらどう思われるだろうか。嫌な思いはしないだろうか。悩みに悩んで恐る恐る、「話したいことがあるから会えない?」とだけLINEを送りました。

 

数日後の夜、テーブルを隔ててその人に向き合い、さて言うぞ、と口を開け、何度も脳内でシミュレーションしてきた言葉を頭に思い浮かべながら、息を吸って「実は僕は、」と言ったところで言葉が喉につっかえたのを今でも覚えています。
あれ?言えない。なんでだろう。これを言ってしまったらもう引き返せないから?口に出してしまったら「本当のこと」になってしまうから?
かれこれ20分くらい「僕は・・・僕は・・・」と言い続けました。

その人は「うん」と「無理しないでね」以外何も言わず、ただ待っていてくれました。そして、ふっと息を吐いて、「僕は、同性愛者かもしれないんだ」と言いました。(当時は非異性愛者というより、同性愛者かも、くらいの認識だったと思います。)

 

「そうなんだね、言ってくれてありがとう」と言ってくれたその声を聞いて、安心しきって赤ちゃんのように号泣してしまったわけですが、その自分の姿が、お腹から取り上げられた新生児のようにも思えました。

僕はこの時、自分の心の霧を人生で初めて取り払って、もう一度この世に生まれ直している真っ只中にいるのかもしれないと思いました。
そうして僕は、よろめきながらも引き返せないところまでたどり着き、自分の性的指向を「本当のこと」にすることができたのでした。

 

僕は「非異性愛者である自分」を単にカミングアウトしたというよりもむしろ、カミングアウトを通じて「非異性愛者である自分」になっていったのではないかと思います。
(カミングアウトを通じて「非異性愛者」になっていった、ではないところがポイントです。あくまで僕は、「非異性愛者である自分」をそこではじめて獲得したのだ、と言えます。この違いがわかってくれる人おったら全員今度サイゼでドリンクバーパーティしよね。)

 

それからは、全く異なる世界が、僕を待ってくれていました。僕以外の誰かが、僕の本当のことを知ってくれている。心に壁を作らず話せる人がいる。ただそれだけでよかった。それだけで、僕はこの世にいていいんだと思えた気がした。僕ひとりの中だけにとどまっていた何かが、ちゃんと世界と繋がった。繋がっていいと思えた。僕はもう、社会からいないことにされる人生から抜け出したんだと思いました。

 

そしてもう一つ、重大な気づきがありました。

カミングアウトは何より、誰かのためにするのではなく、自分を大切にするためにするものであるけれども、一方でそれは、相手に対する信頼や、これから新しい関係を築いていきたいという思いを表明することでもあります。カミングアウトしないならば絆が深まらないと言いたいわけではないけれど、それでもあえてカミングアウトをするということは、自分の人生を祝福すると同時に、自分とあなたの間の関係性をもう一度、違うかたちで、祝福しなおすということでもあるのだと、友達と並んで夜道を歩きながらそう思いました。

カミングアウトをする目的は、相手と恋話をしたいから(だけ)ではありません。自分と相手の間にある透明だけれど分厚い心の壁を取り除き、風通しのいい関係性をこれから一緒に作っていきたいからという、ただそれだけなのだと、個人的に思っています。

 

それから

そんなこんなで一度言えると、案外言えるようになるということもわかりました。少しずつ言っても良さそうな人を見極めながらカミングアウトをして、自分の呼吸しやすいスペースを広げていきました。
そうして少しずつ、言葉が喉につっかえる感覚も減っていきました。

 

社会人になってからも、言えそうな人を見極めながらカミングアウトしていたのですが、そこでは思わぬ誤算がありました。

というのも、学生時代は自分で交流する相手を選べたので、うまく相手との関係性を見極めて、言う/言わないという選択ができたのですが、社会人になってからは職場での働きやすさを求めて、やむを得ずそれを開示する方が自分の心理的安全のためにいいと思われる、という場面にしばしば遭遇したためです。

そこでは、本当にその相手にカミングアウトしたいと思って言うというよりもむしろ、上司らに対して配慮を求めて口にするということが多くありました。(決してカミングアウトを強制されたわけではないけれども。)

 

そうすると、聞きたくない反応にもたびたび出くわすわけです。「俺にはゲイの友達がいるから、そういうの大丈夫だよ」「誰かに話してしまったら、知らないところで広まるかもしれないから、そこは心の準備をしたほうがいいよ」なんて面と向かって言われることもありました。マジでなに?

もちろん、信頼できる上司もたくさんいました。「あなたの大切な尊厳の問題だから、絶対軽んじられるべきではないし、もしも周りの上司に話す時も、絶対に自分を大切にね。」と言ってくれる人も、「言ってくれてありがとう。なるべく傷つけないように努めるけれども、あなたのことを完全にわかったなんて言えないから、もしも何か傷つくようなことを自分が言ってしまったらすぐに教えてね。そこに関しては絶対に安心して大丈夫だよ。」と言ってくれる人もいました。

 

「社会人」の経験を経て、カミングアウトすることは、自分の心地よいスペースを確保したり、相手との絆を深めるだけでなく、面と向かって尊厳を傷つけられるリスクを伴うということもなんとなくわかるようになりました。

 

母の日

長くなりましたが、ここでやっと母の日の話に移ります。

 

母親のプロフィールは以下です。
・高校同期(男)が公の場で歌を披露することになったため、そこでその人の名前が入ったうちわを作って応援に行きたいと言ったら、「いいね〜!お母さんも作っちゃおうかな」と言って秒で材料を買いに連れて行ってくれた
・その人と遊んだという連絡をするたびにいちいちラインで「今日の〇〇くんはどうだった?相変わらず輝いてた?よかったら〇〇くんの写真送ってね。」と送ってくる(僕の写真は別に要らないらしいです)

 

本当に幸運なことにイケてるギャルママだったので、社会人になってからは別にいつ言っても大丈夫かもなと思っていました。ただ言うきっかけが欲しかっただけでした。そこで訪れた母の日。

 

昼、ふとインターネット上である文章を見つけました。
そこには、カミングアウトは当事者のマイノリティが勝手にやっていいと決めるものじゃない。それによって聞き手のマジョリティにかけてしまう気苦労や精神の負担を考えないといけない。ということが書かれていました。
文字打っててムカついて力入れすぎちゃってMacbookのキーボード全部壊れちゃったから、今からiPhoneで文字打つね。

それは、見たところ異性愛者の方が書いたと見られる「ダイバーシティについての指南書」でした。

以下、すごい勢いでキレ散らかしていきます。

①そもそも非異性愛者はマジョリティの内輪ノリに巻き込まれて、勝手に全員が異性愛者という前提で話を進められるせいで存在を不可視化され、知らない間に語りにくい状況に追いやられているだけなのに、なんで自分たちのこと棚に上げて僕たちのせいだけにするんですか?

②そんなこと言うならこっちも言わせてもらうけど、あなたは結婚やら異性愛前提の恋話をすることによって毎日「異性愛者であるというカミングアウト」をしては、それになじめない人に精神の負担をかけてるんじゃないんですか?

③確かに、性的マイノリティであるとカミングアウトをすることで特に異性愛者の聞き手が嫌な思いをしたり、落胆することはあるかもしれないけど、そんなこと言われなくてもこちとら24時間365日相手に嫌な思いをされないか、拒絶されないか、どう思われるかを不安に過ごしながら、カミングアウトできる相手を慎重に見定めているんですが・・・。

④しかも、カミングアウトするということは別に相手を怖がらせたいわけではなく、前述のように、相手に信頼しているということを示し、より良い関係性を築いていきたいという願いを託すからではないのか?

⑤てかまずそんなこと言ってくる人にはカミングアウトしてあげないから、気にしないで大丈夫です。(でもカミングアウトしないとますますこんな考えが加速してしまうのか?え〜〜〜どっちも嫌すぎ〜〜〜)

 

ここでやめます。
文字打ってて怒り込めすぎちゃってiPhoneの画面バキバキになっちゃったから、今から新しいMacbook買って来るね。

そこからはもう怒りに任せてカミングアウトに関する論文や新書を読み漁り、そこで一つの言葉に出会いました。

カミングアウトは、単に自分の指向性別を伝えるだけにはとどまらない意味がある……(カミングアウトをしようとする子供が)親から結婚について言われるのが嫌ということは、単にそれを言われたくないということだけではなく、そのことで関係がギスギスしたり、家に近寄るのが億劫になるのを変えたいからではないだろうか。……果たしてそう思うことは、わがままだったり、自分勝手だったり、親不孝だったりすることなのだろうか。もしそれを伝えたことで、相手が苦悩するとしたなら、それは、伝えた側のせいなのだろうか。

砂川秀樹『カミングアウト』朝日新書

子供から親にカミングアウトすることは、決してわがままではなく、親との関係性をより大切にするための行為でもあり得るのであって、その思いは決して軽んじられるべきではないと思います。

 

そこでふと、母の日だからこそカミングアウトしたいという考えが浮かびました。
自分が異性愛者ではないこと。この身体を持つことによる辛さもあるけれど、毎日ご飯を食べて、ちゃんと幸せであること。僕が僕として生まれて、今のような自分に育てられたことをありがたく、そして誇りに思っていること。お母さんの子供でいられてよかったこと。そしてこれから、より良い新しい関係性を作っていきたいと考えていること。
今の僕にとって、母に感謝の気持ちを伝えるためには、カミングアウトするのが一番よい選択肢に思えたのです。

 

そこからはもう突然LINEで通話かけたらいつものごとく秒で出たので、「僕は異性愛者ではないんだよね、だけどちゃんと幸せで、お母さんの子供でよかったと思っているよ」と、やはり少しためらいはあったけれど、それでもよどみなく伝えることができました。てか、お母さんっていつ電話しても毎回秒で出るよね。

母親は予想以上に「え、別に何にも問題ないんじゃない?あなたはあなたなんだし」というスタンスでした。
もちろん認識の齟齬があった部分に関しては、「それはそうではなくてこう思ってるんだよ」ときちんと言葉を重ねて説明をしながら、最終的には以下のツイートのようなかたちで激盛れギャル親子がこの美しい地球に爆誕しました。

 

本当に僕はこの人の子供でよかったなあと心から思えて、その気持ちを直接伝えられたことが何より嬉しくて、今日は、いや、紛れもなく今日こそが母の日だなと思いました。

カミングアウトとは何か

結局のところ、カミングアウトというのは、社会の異性愛規範の中で暗黙のうちに「異性愛者」だと仮定されてしまう状況に対して、自分と社会の間の関係性を修正・調整する営みであるといえます。

 

カミングアウトというと、その当事者個人が突然世間を騒がすというようなイメージがありますが、どちらかというとむしろその「世間」なるものがそもそもカミングアウトという行為の必要性を作り出していると言ってもよいのではないかと思います。(カミングアウトをしていない性的マイノリティを、クローゼットの中にいる人という意味で「クローゼット」と呼びますが、社会規範が本当にフラットならばそもそもクローゼットの中に隠れる必要はありません。)

それゆえ、ここまで散々カミングアウトという言葉を使ってきていますが、実はそもそも「カミングアウト」という言葉を使うこと自体、すごく抵抗があります。僕(たち)は勝手にどこかからcoming outしてきたように見えるけれども、本当はずっと変わらずそこにいて、呼吸をしていたのだから。

ただの自己紹介が、もっというと異性愛者が自己紹介するときでさえ口にしないで済んでいるような情報の開示が、「カミングアウト」と呼ばれること自体が、いつの日かなくなればいいなと思います。

 

加えて、これに関連したこととして、カミングアウトをわざわざするということによって、自分の非異性愛者という側面だけが前面に出てしまうことも懸念としてありえます。

異性愛者の人は異性愛者であることが当たり前すぎて性質の一つとして認識すらされない一方で、非異性愛者はその側面が特別な一側面として強調されてしまう。

個人的には、ITZYとNiziUが好きで、露天風呂が好きで、平日は仕事をしていて、今この瞬間焼肉が食べたくて、性的指向は非異性愛者で、視力は1.0、くらいのノリなのだが、「そういうキャラ」ということが前面になって認識されやすい傾向にあるなあと個人的に感じることもたまにあり、結構さびしめ。

 

しかしながら、そのように社会的に不均衡な状況があるからこそ、カミングアウトは特別な意味を持ちうるのではないかとも一方で思います。異性愛規範の浸透した社会だからこそ、カミングアウトという行為は性的マイノリティの生存戦略の一つでありながら、相手との関係性を調整しなおし、そこに希望を見出す営みでもあるだろうと思うのです。
(決して社会が不均衡なままでいて欲しいなんて思いません。でもまあ、せめて僕たちが楽しんでることで社会に抵抗できるなら死ぬほど楽しませてもらいます。)

 

ただ、ここまでの話は、カミングアウト前の関係性が一概にダメであると言いたいわけでは決してありません。その前の関係性の全部が嘘である、ということではなく、互いに誠実な付き合いをしていたのならば、カミングアウトするかしないかは、ただ相手を大切にする方法が違うだけ、ということなんだろうと思っています。そう思いたいよ。

そしてまた、カミングアウトをすべきということでも決してありません。
カミングアウトは、何より自分の心理的安全性が保たれて、なおかつ自分のことを大切にするために行うべき行為であると思います。
僕も、まだまだ自分の性的指向を言えないなと思う人が山ほどいます。そして逆に、この人にはあえてカミングアウトをしないほうが、僕たち二人の関係性を大切にできると思える人もいます。

 

カミングアウトをすることも、しないことも、あなたが決めていいことだし、どちらを選んでも決してわがままな事ではないと思います。

 

おわりに

最後に、いま一度以下の意見に応答します。

性的マイノリティがカミングアウトをするときは、聞き手のマジョリティにかけてしまう気苦労や精神の負担を考えないといけない。そうでないと、自分勝手だと思われても仕方ない。

 

確かに、工夫は必要です。言うのに適切ではないタイミングやシチュエーションもあるだろうと思います。そしてまた、これを言ったら相手がどう思うか、と考える必要は常にあると思います。

しかしそれは、カミングアウトをすること自体が不適切ということではなく、それ以前の人と人とのコミュニケーション作法における話、ということだと思っています。

 

いざ言った時、不本意な反応をされてしまうこともあるかもしれません。けれど、それはあなたが悪いわけでは決してない。相手だけが悪いというわけでもない。言ってしまえば、社会の問題です。

だから今、そんな事態を少しでも減らしていくために、多くの人が社会で戦ってくれています。もしも僕のこの文章が、何らかの形でその一環になってくれたら、これほど誇らしいことはありません。

 

そしてもしも、カミングアウトをした人を前にして戸惑うことがあれば、せめてその人が、このカミングアウトの先に何を見ていたのか、何を願っていたのかを考えてみて欲しいのです。そして、このカミングアウトの前にどんな人生を経験していたのかを想像してみて欲しいのです。


すでにカミングアウトをした人/された人。
いつかカミングアウトをする/されるかもしれない人。
今誰にもカミングアウトをしていない人。
そして、今誰からもカミングアウトをされていない人。
この中のどこかに必ず、あなたがいます。

目の前の相手を大切にしたい、ただそれだけの願いが、ちゃんとその相手に届き、そして報われること。
自分が呼吸しやすい場所をつくりたい、ただそれだけの祈りが、当たり前に聞き届けられること。
そんな社会で生きられる日を夢見ながら、僕はまた日々、誰かに「カミングアウト」をします。

 

(note過去記事)社会人2年目初日だから、出社前に鎌倉の海に行くしかなかった。

(note過去記事:2021年4月1日公開)

 

四月一日。エイプリルフール。社会人生活2年目の始まりの日。

心身の調子を崩して与えられた先週一週間の休み期間を経ているあいだも、社会は何食わぬ顔で息をしていて、僕も週明け、何食わぬ顔で「社会復帰」を果たす運びとなりました。おめでたい。

 

年度末が近づくにつれて、上司の口癖は「もう新人じゃなくなるんだし。」となり、2年目としての成長と自立を求められる季節が到来した今日このよき日、僕は、出社前に始発で海に行きました。

なんで海かというと、海は、目的がなくても行くことが許されている場所な気がしたからです。


社会復帰をして、2年目になる、めでたいのかも、めでたくないのかもわからず、言葉にされることを待っている感情だけが、ただ、胸の裏側でひっそりと、ゆらめいている、僕は、海に、行くしかない、明日、どうしても、行くしかない、とただそれだけの、絶望のようで希望のような気持ちを抱えて、3/31の夜、眠りにつきました。

前回の休みの時のような回復という明確な目的があるわけではないけれど、ただ明確な目的がなくったって海に行っていいと、そう思いました。
毎度、くだらない日常を開示してしまって恐縮ですが、以下、僕の一日におつきあいくださいませ。

 

4時、起床。

いつも通り身支度を整えて、黒のスーツに身を包み、ネクタイを結んだあと、仕事用の香水を首元に吹き付ける。家を出て、通りの街灯の明かりを独り占めし、「すこやかな人」全員がベッドの上で気絶しているこの時間に、駅までの道を歩く。

 

電車に乗ります。

 

電車には、すでに乗客が何人も座っていました。
大きな旅行用カバンを床に置いている人も、スーツを着ている人も、顔を真っ赤にしてうなだれている人も、全員この車両に乗っていて、ひっそりと目を瞑っている。全員の人生をのぞいて回りたい気持ちを抑えて、じっと車両を眺めてみる。一つの密室の中に、一日のはじまりとおわりが混在していて、期待と失望が隣り合わせに座っていて、ただただ静かで凶暴で、全員が、少し触れると壊れてしまいそうな危うさを持っている、思春期みたいな空間。

 

乗り換えます。

 

朝5時台の山手線は、そこそこサラリーマンもいて、全員正気を保ってそうな顔つきだけど、おそらく正気でない人もいた気がします。世界は誰かの仕事でできているし、我々は交代ばんこで気を失いながら、なんとか24時間をつないでいるのだなあ、とかなんとか思っていたら、女子大生グループが解散してバイバ〜イって言い合っているインスタのストーリーに映り込み、めでたく僕は「朝5時に電車に乗っている限界サラリーマンA」となりました。

 

乗り換えます。

 

5時も半ばの品川駅。録音された女性の声で駅のアナウンスが上下左右から同時に流れているけれど、この女性もきっと今この瞬間は、一つのからだを重力に委ねて、スヤスヤ寝ているだろうと思いました。

 

鎌倉行きの電車に乗り込みます。

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明け方の空気はよく青色だと言われることが多い気がするけれど、窓越しに目を凝らしてみると、どちらかというと紫色かなと思いました。
きっと今日電車に乗らなければ、明け方の空気は青色だろうと信じたまま死んでいたかもしれない。とはいえ本当に青か紫かどうかなんてどっちでもよくて、周りの声を取っ払って自分の目を凝らし、その結果僕が紫色だと思って感動すれば、それはもう紫色でいいんだと思いました。

急に何の話?

 

鎌倉駅に到着しました。

 

この駅、実は大学時代にサークルのみんなで海上花火大会を見に降り立った駅ですが、当時全くの無風で煙が晴れず、せっかくの花火がほとんど何も見えずに終了したという、僕が花火師だったら即海に身を投げ入れていたであろう悪夢の回でした。
けれど、僕たちはなんだかんだでそのさまを笑い飛ばし、いい思い出になったね〜なんて楽しい物語に仕立て上げられちゃってるわけだから、人間の物語る力というものはすごいものがあります。
多分、物語る力が弱まることを「老い」というのだろうね。

 

乗り換えます。

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ああ江ノ電江ノ電沿いに生まれていたら、僕はどんな人生だったんだろうか。きっともっと、柔軟剤を使わなくても何となく服からいい匂いがして、制汗剤を使わなくても不思議と汗から爽やかな匂いがして、少しくらいは猫と会話もできたりしたんだろうか。

 

午前6時半。目的地の「由比ヶ浜駅」に到着です。

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路地を5分くらい歩くと、途端に視界が開けて海が見えました。ああ、海だ。僕は出社前に、ひとりで鎌倉の海に来たんだ。

 

とはいえ、あと30分で帰りの電車に乗らないと会社の始業時刻に間に合わないので、早速少し小走りで砂浜をかけてみたり、マスクを外して潮風を吸い込んだり、ぼーっと波が生まれる瞬間をこの目に焼きつけたりしていたら、いつのまにか僕の体から香水の香りがしなくなっていたことに気づく。砂浜を踏みしめて、革靴のつま先に細かな砂をこびりつかせる。途中で雨が降って来たけれど、傘をさすほどではないので、整えた髪のことも忘れて雨に打たれてみる。

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散歩をする。

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始発で鎌倉に来るような人間からすれば、健康寿命を短くするとかはもうどうでもいいなと思いました。

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絶対にポイ捨てなんだけど、男梅サワーは「ずっと昔からここにいます」みたいな顔してるね

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誰だか知らんけど、エイミさん、お誕生日おめでとうございます。

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初心者マークってこういう感じで埋葬すればいいんだ。

 

ふう。

 

今から仕事に行くことが何だか滑稽で、何で働いているんだろうと押し寄せる波にきいてみるけど、当然無視をされる。

目的なく来たと言いながら実は、海に来たら救われるんじゃないか、この言葉にならない感情の卵を孵化させてくれるんじゃないか、何か劇的な答えをくれるんじゃないかと、どこかで期待していたけれど、全然何の解決にもなっていないし、押し寄せる波を見ていたら今日やるべき仕事を一つ思い出してため息をついたし、今日から2年目だと思い出した。

 

海はただ、どうしようもないくらいにそこにあるだけで、向こうから寄り添いにきてくれるわけではない。だけど、海の前だったら、どうしようもない悩みを抱えてもよかった、海は何も言わないから。前進したあと後退してもよかった、波は僕のことを悪くいえないから。ため息をついてもよかった、そのぶんだけ海の空気を吸えるから。
救われなかったけど、救われなかったことをちゃんと覚えていたいと思いました。いろんなことが嫌なまま来て、いろんなことが嫌なまま帰ってもいいのが、海です。

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帰りの電車に乗り込む。

 

帰りは通勤ラッシュに巻き込まれ、僕は「鎌倉在住で都心で働くサラリーマンA」として群衆に溶け込みました。行きと帰りの違いと言えば、電車の乗客が増えたことと、僕のスーツから香水に混じってほんの少しだけ潮の匂いがして、革靴のつま先に砂が付いているということくらいだったけど、それだけでいいと思いました。僕は、明確な理由もなく始発に乗って海に行ける人間だし、そこで救われることがなかったとしても胸を張って帰りの電車に乗れる人間です。

 

会社に着く。

 

通勤ラッシュに巻き込まれたせいで、潮の匂いはどこかへ消えて香水の香りが再び頭角をあらわし、革靴のつま先の砂も全て落ちてしまって、寂しいけれど、多分誰がどう見えても、僕がここに来る前に鎌倉の海に行ったなんて思うまい。絶対に言ってやらないもんね。ふん。この会社の誰も、僕が今日朝どこにいたのかを知らないのだと思っただけで、ほんの少しだけ無敵になったような気がしました。

とはいえ当然仕事は朝から夜までいつも通りあるので、何食わぬ顔で業務をこなし、何食わぬ顔で昼ごはんを食べて、何食わぬ顔で同期や上司と会話をして、何食わぬ顔で家路につきました。
不思議なもので、あんなに濃く焼きついたはずの思い出も、長く忙しい一日の中で擦り切れ、上書きされる過程でおぼろげになり、帰り道「本当に朝、僕は海に行ったのかな、あれはやけにリアルな夢だったんじゃないかな」とおぼつかない足取りで歩く始末。

 

そんな気持ちのまま家の玄関を開け、いつものように足だけを使って豪快に革靴を脱ぐ。そうしてひっくり返った革靴の土踏まずの部分には、わずかに残った細かい砂の粒が、玄関の蛍光灯に反射してキラキラと光っていました。

 

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(note過去記事)人生取り戻し日記

(note過去記事:2021年3月28日公開)

 

 

0. 仕事を(少しだけ)休むことになりました

今、3/19(金)です。理由は色々あるのですが、仕事で心身が不調を訴え出したのを察知したので、なんとか上司に交渉し、余りまくっていた有給を繋げて3/28(日)まで一週間休暇をとりました。

ちなみに、そんな僕の今月の精神状態はこんな感じ:
食欲がわかない、寝つきが浅い、判断力が鈍る、社用携帯の通知がなるたびに動悸が起きる、言葉と思考が噛み合わない、物欲がない、前好きだったものが好きじゃない、趣味にかける気持ちの余裕がない、おしゃれする気も起きない など

 

・・・エッ、これって誰?僕?本当に僕の人生?僕の人生はもっと楽しいはずだよ。いつから僕は僕の人生を手放してしまったんだろうか。

こんな状況が一週間でどうにかなる問題なのか?という本質的な疑念があるわけですが、その疑念は一旦脇に置いて、とにかく自分の人生を取り戻せるだけ取り戻してみようウィーク開催しようと思いました。「いけないいけない、こんな人生を送るのだった」と思えることが今回のゴールってわけです。

 

誰に取られたのかも、いつ取られたのかもわからないままに、自分の魂を見えない誰かに受け渡してしまった僕が、自分の錆びついた魂を見つけ出して、磨けるだけ磨いて、付いてしまった傷は一旦そのままに、きちんと僕の体の中にもう一度迎え入れることができるのか、という、他人にとってはどうでもいいチャレンジです。だけど、どうでもいい日々の中に生きる力が隠れていることを知ってしまったので、書きます。おつきあいくださいませ。

 

 

3/20(土)曇り

午前中ゆっくりやすんで昼、後輩と伊勢丹にネイルを買いに行きました。と同時に、自分がネイルをする気力をいつのまにか失ってしまっていたことを思い出しました。

好きなものを見つける、とか、好きなものを仕事にする、とか、そういう言葉は世の中にくるしいほど溢れているけれど、好きなものを好きなままでいることの難しさを語ってくれる人が少ない気がするのはどうしてだろうね。

決して、好きなものを好きなままでいつづけるべきだとは思わないけど、僕が思う以上に、僕の「好き」という気持ちは脆いのだということだけは、覚えていようと思いました。

 

夜、先輩と散歩しました。「明日朝早い?早くないなら今から夜の新宿散歩しようよ」と言われたんだが、人って言葉に対して恋に落ちることがあるんだなということを思い出しました。

ちなみにこれより前で覚えているフォーリンラブセンテンスは、数年前友達に言われた「何度でも同じ話をすればいいよ」です。僕も誰かを恋に落とすような言葉をいつか言いたいよ。

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その日は珍しくバスで帰りました。仕事場と家をつなぐ地下鉄の景色に見慣れていたので、地上ってこんなに明るかったんだと思いました。

家に着いて、翌日の映画を予約し、ベッドに入りました。今日はいい日だったな、明日もいい日になるな、と思いながら目をつむったのはいつぶりかな〜と考えながら、1日を終えられる。切れ目なく続く時間の中で24時間が経った、ではなく、きちんと1日が終わったんだなと思える日は、いい日だと思いました。

 

 

3/21(日)雨

朝早くなかったので、前の晩のことを思い出しながら二度寝しました。

 

昼、映画館に「あのこは貴族」を見にいきました。学生時代はちょくちょく映画館に行っていたけど、ここのところめっきり行っていなくて、雨の中行きました。ズボンが濡れる感覚は久しぶりで、だけどそんなに嫌じゃなくて、雨の中でも見に行きたいものがあるうちはまだまだ大丈夫ということだろうと思いました。
結局のところ大事なのは、雨が降っているか降っていないか、ではなく、撥水性のある心を持っているか持っていないか、ということなんだろうか。

 

家に帰ってからパソコンを開いて、大学時代に書いたレポートを読み漁ってみました。僕って意外と、ちゃんと物事考えられるし、ちゃんと努力できるし、ちゃんと輝ける人なんだということを思い出しました。今自分が胸張って生きれていないことをふがいなく思いつつ、それでもなお、自分が輝けることを知っている限り、人は腐らず生きていけるんだろうと強がってみてもいいかなと思いました。

 

夜には大学時代の学科同期みんなでオンライン会合を開いて、ああみんな変わらないな〜と思うとともに、みんな戦っているんだなあと感心しました。今この瞬間も、誰かがどこかで戦っていて、誰かがどこかで傷を負っていて、誰かがどこかで立ち上がれなくなっているというそんな当たり前の事実があって、だからどうというわけでもないけれど、戦ってるんだからそりゃ傷もつく、ただそれだけのことだと思いました。

 

 

3/22(月)曇り時々雨

友だちと遊びました。

ね〜〜てかもうこの際、友だちっていうのやめていいですか?これまでいろんな場所でこの人のこと友だちって言ってきて、別に間違いではないけど、ここではあえて同居予定人って言わせてね。
社会に受け止められやすいように「友だち」って言葉を使うの便利だけど、人生はいつも言葉の主導権を握るところから始まるし、人生を取り戻すことと言葉を取り戻すことはほとんど同じことだと思います。

 

適当に歩いていたらいい感じの服屋を見つけたので入りました。お客さんが僕たちだけで、店主がすごいこだわりの強い方だったので、1時間くらい服について教えてもらいました。そしたら、お兄さんたちのために丸々コーディネートしますよと言われて、全身着せ替えられたのですが、その時の自分がかっこよすぎてびっくりしました。

 

自分が今より素敵になれるっていう感覚を久しぶりに思い出して、これからの人生が猛烈に楽しみになっちゃって、浮かれてしまって、25000円のズボンを即決で買ってしまいました。良い物を着る、買うことって、自分をちゃんと大切にするという意思を表明するってことだし、未来の自分を祝福するってことなんだなと思いました。欲しいものがあるって、生きたい未来があるってことなんですね。

そして、デパ地下でケーキを買って、傾けないように用心しながら二人で家路につきました。

 

家に帰って、夜ご飯を作りました。

自分たちのお金で材料を買って、自分たちで作った物が並んだ食卓をみて、うわ〜僕たちって自分たちで幸せな暮らしを作れているね〜と思いました。両手に収まるくらいの幸せをちゃんと自分たちで堪能できていることがたまらなく嬉しくて、味は結構微妙なやつもあったけど、次はもっと美味しく作るぞ〜と思えるだけの精神を取り戻していたことにここで気がつきました。

 

そのあと、ふたりでドライブに行きました。「今日お気に入りのラジオが最終回だからドライブしながら聞こうと思ってるけど、一緒に乗る?行き先はまだ決まってないから走りながら決めよう。」と言われたときまた五臓六腑がクラッと来たわけですが、この言葉には、ドライブの本質を到着地ではなくて、そこまでの道のりそのものに置くような精神を感じませんか。

この精神を拝借すると、今僕が落ち着ける職場やこれだと思える仕事といういわば到着地にたどり着けずに、足踏みをしたり、同じところをグルグル回っていたりしていることは、どうしようもないほどに生きているってことなんだなあと思いました。

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去りし学生時代、学科の同期が鮮やかな青空の下で、「自分が停滞している感じがする、前に進みたい、いや、前に進まなくてもいいから、動いていたい。」と言っていたことを今突然思い出しました。

しゃがんでまた起き上がったり、グルグル回ってみたり、時には来た道を戻ってみたり、真上から見ると無意味に見えるけど、真横から見るときちんと体を動かしている、そんな営みに、生きることのよろこびを見つけてみてもいいかなと思いました。

 

 

3/23(火)晴れ

前日に買った4つ切り食パンにたくさんバターを塗ったり、マッシュポテトをこしらえて食パンの上に乗せてトースターで焼いて食べました。

お金を払うことで、作ることと消費することを切り分けながら効率よく生きている毎日の中で、わざわざジャガイモを加熱し、火傷しかけながら皮をむき、力を込めてつぶし、しかも市販のものよりクオリティは劣る、なんて非効率の権化みたいだけど、別に非効率なことをやっていけないということではないし、多分、必死にジャガイモをつぶしている僕はいつもよりいい表情をしていた。非効率って、なんて贅沢な時間だろうと思いました。次の休暇はジャガイモの収穫に行こうと思います。

 

そのあと、家に帰って、京都大学が開講しているジェンダーのオンライン授業を2本視聴しました。昨日の僕が知らないことを、今日の僕が知っていて、今日の僕が知らないことも、きっと明日の僕が知っている、そうやってちょっとずつ世界の解像度が上がって、見えなかった何かが見えていく、その尊さは、僕たちが忘れない限りいつだって人生の中にあるんだと思いました。

そういえば帰り道、駅の花屋に入りました。花を綺麗だと思えている自分に気づきました。

 

 

3/24(水)晴れ

仕事で疲弊した体をほぐすために、鍼を打ちに行きました。よく言われることだけど、体と精神って全然別物じゃないよね。

そういえばkindleで稲葉俊郎『からだとこころの健康学』を積読してたなと思い出し、読みました。彼の思想には納得できない部分も多々あるけど、腑に落ちた部分もありました。

過剰にスピードが重視される現代で、私たちの生活に最も影響を及ぼしているのは、(「からだ」や「こころ」ではなく)「あたま」です。
例えば、どんなに疲れていても、どんなに気分が乗らなくても、「明日、この仕事をやらなければならない」「絶対に休むわけにはいかない」という考えを優先し、無視をしてもっと頑張るように指示を出すのは、いつも「あたま」です。
「からだ」と「こころ」の働きだけであれば、きっと迷うことなく、「今日はもう疲れているから、明日は無理せずにゆっくり休もう」とからだを休める方向に向かうでしょう。

稲葉俊郎『からだとこころの健康学』

確かに。もちろん、社会で生きていく上ではあたまの働きは欠かせないわけだけど、僕はからだやこころのことをあまりにも大事にしていなかったのだなあと、そんな当たり前のことを思い出しました。

まあ、だからと言って、この二つを完全に優先して働いていくことは難しいけれど、僕は所詮、傷付けば血が出るし、燃えれば骨だけが残るし、からだとこころなしには生きていけないただの生命体であることだけはせめて、きちんと肝に銘じます。

 

そのあと、ふと読みたかった本を思い出して、7割くらい読みました。

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異性愛に関する限り、結婚の契約は、かつては基本的な権利規定であり、その規定は、きずなが基本的に「分離され、しかも不平等な」性質のものであることを公に示すものであった。婚姻を、限定辞でなく記号表現の自己投入(コミットメント)という用語によって言い換えることは、こうした状況を根底から変えていく。純粋形態にほぼ近い関係性はすべて、不公平であったり耐え難いと感ずるような状況が生じた場合には、いずれの側も再協議を求めることができるような、潜在的に「更改可能な契約」である。

アンソニー・ギデンズ『親密性の変容』

近代社会における親密性の変容について、セクシュアリティの解放や民主制の台頭などの視点から論じる本で、本って1ページ読むのにこんなに時間がかかるものだったなと思い出しました。日頃のネットサーフィンで、少し理解できなかったりするだけでページを離脱してしまっていた今の自分の言葉にどれほどの重みがあるのだろうと、ちょっと泣きたくなりました。

1ページ読み進めるのにも苦労するような、消化に向かない重みのある情報が、現代を生きる我々の胃にどれほど適しているかはわからないけれど、もれなく消化不良を起こすことがわかっている本を、腰を据えて読める時間の贅沢さ、わからないテクストに全力で悩める心の豊かさ、読みたい本があるという青春の尊さを忘れた人間にだけはなりたくないと思いました。

 

そんなこんなで本を読んでいたら、いつのまにか日付が変わっていました。

 

 

3/25(木)曇り

転職を控えて休職している友達と一緒に上野公園に行きました。

「プチニートの特権だね〜」って言いながら人の少ない美術館に行きました。美術館なんていつぶりだろう。目の前の美術品の美しさに目を見開いて、当時の空気を意味もなく想像してみたりして。ああ、生きていてよかった。

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よく、休職していた人が会社に戻って「(働いているという)健全な状態」になることを「社会復帰」というけれど、今回、会社をすこし離れることで「(人として)健全な状態」になっているな〜と思い、この様を友だちと「逆社会復帰」とひとまず命名して、解散しました。

 

帰ってから歯医者に行って知覚過敏を指摘され、一度削られたエナメル質はもう元には戻らないんですよ、なんて警告をもらい、ああ人の体ってよく食べてよく寝るってだけでは元には戻らなくなるようになるんだなと思いつつ、また消えない傷が増えてしまったなあという事実を持て余したまま昼寝をしました。

というかまた電気をつけっぱなしで寝てしまった。電気をつけっぱなしで寝ると、「寝る」と「眠る」の違いがわかる気がするな。「む」が途中に挟まるだけでどうしてこんなに静かで穏やかで、聖域のような響きがするのだろうか。

 

そのあと、部屋の掃除をしました。心の状態と部屋の汚さって比例するって聞くけど、その意味がちょっとわかった気がします。
掃除をして、足の踏み場が増えれば、僕たちはちょっとだけ自由になれるし、掃除をして、埃を払えば、僕たちはちょっとだけ深く深呼吸ができるようになるということだと思いました。

 

 

3/26(金)晴れ

高尾山に登りました。最近汗をかいていないなと思ったし、高いところの空気を吸っていないなと思ったからです。

いつもの僕ならノイズキャンセリングイヤホンをして黙々と進むところを、あえてイヤホンをつけずに山登ったら、鳥の囀りと木々の囁きと進撃の巨人のネタバレが耳に入ってきました。山登りながら進撃の巨人の話をするんじゃないよ。

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どうということもなく山頂に着いたら小学生とかがいたのですが、昔僕も小学生だったな〜と思いました。
あんな小さかったのに、ご飯を食べて、よく学び、愛し、愛され、転んで、立ち上がってふりをしてまた途中で転んだりして、働いて、消耗し、立ち止まっている今の自分の人生、もはやだいぶ引き返せないところまで来たなと思いつつ、何度でもまたこの山に登ろうと思いました。山頂で食べた蕎麦は全く幅が揃ってなくてかなり愛おしかったのでみて。

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下山して、露天風呂に入り、ビールを流し込んだらいい感じに足元がおぼつかなくなって来たので、足元がおぼつかないなりに一歩ずつ歩いて電車に乗りました。

 

帰り、目覚めたら駅を寝過ごしていたんですが、目的地のことを忘れて眠るということを長い間していなかったことを思い出しました。僕はこの時、正真正銘ねむっていたと思います。

 

 

3/27(土)晴れ

朝から何もしてないことに気づき、急遽家にいた姉を召喚して一緒にロールキャベツを作りました。

みじんぎりの効率的なやり方、小さい鍋でキャベツを上手に茹でる方法、生パン粉とパン粉の違いについて、これが3年長く生きた姉の英知と言わんばかりの力説を受けました。

 

料理を作る時、姉が「姉弟でご飯を作るのが一番楽だよね。小さい頃から同じご飯を食べてるから、自分が一番美味しいと思う味付けをすれば、弟も一番美味しいと思ってくれるから。」と言っていたのが印象的でした。

ドラマ「カルテット」で「私たち同じシャンプー使ってるじゃないですか、家族じゃないけど、あそこはすずめちゃん(登場人物)の居場所だと思う」というかの有名なセリフがあるわけですが、「家族になる」って、身体の感覚や五感の快不快のセンサーが似ていく過程を指しているのかな、と思いました。今、僕と姉は、別々のシャンプーを使っています。

 

 

3/28(日)曇り時々雨

前にあげた『親密性の変容』で依存や執着に関する記述があった時に、「好きって気持ちと執着ってどう違うんだろうな」という消化されきれなかった問いが生まれたので、友だちと電話しました。

友だち曰く、「人が、一見似ている二つのものを区別したいときというのは往々にしてどちらかを悪と見なしていることが多いと思うけど、なんであなたが“執着”を悪いと思っているかを考えてみれば?」とのことで、この人が僕の人生の登場人物にいてくれてよかったなと思いました。友だち〜!見てる〜!?

 

そのあと、文筆家の塩谷舞さんの本を読みました。

社会出れば否応なしに、強い男性たちが中心になってつくってきたルールの中で生きることになる。ベンチャービジネスはスポーツだ、と言われるように、体力がなければやっていけない。もういっそのこと、募集要項に「パワーポイント、フォトショップなどのスキル」に並べて「健康な肉体、生理のない身体、徹夜続きでも折れない屈強な精神」と書いておいてくれよと、悔し涙を流していた。
(中略)
私はもう、背伸びをし、強者のふりをして働くのはやめた。自分の弱さを、ちゃんと許容した上で働くことに決めたのだ。弱くても強く生きられる。社会で生きるための「必勝法」にも、もっと多様性があればいい。

塩谷舞『ここじゃない世界に行きたかった』
価値のものさしは他者に委ねず、自分の五感に置いていくのはどうだろう。そうしていけば、舌が、肌が、耳が、心が、たくさんの感覚を取り戻していく。
自分で「ここからここまで」と決めこんでいた五感がひょいと拡張したならば、「あぁ、自分が生きていて、ちゃんと生き物だったんだ!」と至極あたりまえのことを、猛烈に思い出すに違いない。窮屈に耐え、すっかり閉じてしまった五感をふたたび拡張させてあげることが、これからのラグジュアリーなのだろう。

同上

先日、1ページ読むのにも時間がかかるような重い本を読むことの贅沢さに気づいたばかりで、それは一つの答えであるけれど、彼女の書く文章は、せせらぎのようにストレスがなく入ってくる一方で、さわやかな信念があって、軽くない。軽やかだけど、軽くない。読み手の心を流れていく過程で、気持ちを土台をなめらかにしてくれる。そんな文章がこの世に溢れるといいなと思いました。

 

もう23時か。

***

人生の主導権取り戻すチャレンジに完全に成功してしまいました。仕事との向き合い方という根本的な部分は依然として解決されていないけれども、少なくとも正気は取り戻した気がします。僕は、幸せになれる人間です。

 

そして、最後まで読んでくれた方、こんな長い記事を最後まで読んでくれているということは、きっとあなたも明日が怖かったり、戦いで疲れていたり、何かが欠けているのにそれが何かもわからないような日々を送っているのだろうと思います。これからどうしていこうかね。

 

せめて、あなたが今夜、自分だけのお守りの存在を思い出して、眠りにつけることを祈ります。僕もこの日々を思い出しながら、ねむります。おやすみなさい。

(note過去記事)中華蕎麦屋の店員に泣かされかけた

(note過去記事:2020年12月28日公開)


みんな〜!!!!!!!!
年末年始だよ〜!!!!!!!!
大掃除とか、2020年の振り返りとか、来年に向けての抱負決めとか、充実した日々送ってる〜!?!?!?!?!?!?
僕は送っていません

 

というのも、勤務最終日、上司から今年の仕事の振り返りの際にかなり厳しい指摘を受け、仕事を頑張れなかった自分に対する後悔とか呆れが前面に出てしまったせいで、休まず出勤するという超快挙を成し遂げたにもかかわらず「全然仕事頑張れなかったなあ、同期からも差をつけられちゃって、来年からどんどん忙しくなっていくのに、僕は全然何もできなくて、仕事したくないなー、2020年全部ダメダメだ〜」という考えしかできなくなってしまって、その思考がプライベートのことにまで侵食してきてマジで無理になりました〜〜〜〜!!!!!!

 

あと僕の仕事は対企業の業務が多いので、自分の成果物が実際の役に立っているのを見たり、相手から面と向かって直接感謝される機会が少ないから、なんか僕の仕事って誰の役に立ってるのか、誰を幸せにできているのかわからなくなってきて、もうなんか無理〜ってなりました〜〜〜!!!!

そのほかにも、今年会社入って自分のセクシュアリティ関連(一個前のnote読んでみてね)で日々会社で微ダメージを喰らい続け、ふと休みに入って気が緩んで見たらその微ダメージが蓄積して超デカい塊になってて、押しつぶされました〜〜〜〜〜!!!!単体であればちょっとした静電気くらいの痛みの小さい地雷を毎日踏みぬいていたら、ちょっと気が緩んで免疫が下がったタイミングで全身が痺れて終わりました〜〜!!!!!

そんなこんなでな〜んにもやる気が起きなくて、有給とって土曜から冬休みなのに、やるべきこともせずに寝て起きて寝て起きたら48時間経ってました。そしてまた「頑張れない自分...」という悪循環コンボ、強すぎ〜!!!!!降参〜〜〜!!!もうやめて〜〜〜!!!お前マジでやめろ

 

みんなはさーー、生きててそんな日ってない???そんな日なんてないよ〜って人はタブ閉じて引き続き己の人生を邁進していただきたいのですが、邁進できない系のどうしようもなくて愛おしい人間たちいたらちょっとここきてウチと話そうや

でね、さすがに今日マジで自分の気持ちを立て直したいなと思ったのよ。元気出さなきゃ〜って気持ちというよりは、2020年ほんとは楽しいこともいっぱいあったのに、このままじゃそんないとしい思い出たちが最後の最後に泥沼の感情に塗りつぶされてかわいそすぎるから、アンタたちのこと救ってあげるね、てかウチのキラキラしたかわいい思い出たちのこと泥まみれにするとかほんと許せないんだけど、ウチと河原でタイマンはろうよ、という気持ちです。

 

 

そして僕は、60%充電済みのiPhoneとイヤホンと財布と定期券だけ持ってお家を出て、謎の駅に降り立ちました。

地図とか見ずにテキト〜に歩いてたら、公園のブランコ見つけたので漕ぎました。

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ガチで漕いでたら楽しくなっちゃってアハハッって声出たけど、この街の人々は全員僕が誰だかわかっていないので、全然大丈夫でした。てかブランコ気持ちよすぎーーー!!!!乗った人全員子供に戻れるとかいうタイムマシン泣かせの装置だから、大人やるの疲れたメイツたち全員で今度ブランコ乗りにいこ〜わら

ブランコ飽きたので公園でて歩いてたら、車道で向こうから死ぬほどゆっくり自転車こいでくるおじいちゃん見つけました。雰囲気マジで優しくて、この年の瀬に死ぬほどゆっくり自転車こぐおじいちゃんに悪い人はいないから、仲良くなれそ〜って思って車道横切るとき目があったついでに会釈したら普通に無視されました。

 

ちょっと歩いていたら、また公園見つけました。

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カエル1匹だけで回してるワンオペ公園。
カエルと友達になってあげよ〜って思ったけど、意外と孤独愛してる系のカエルだったので放置して帰りました。寂しくなったらいつでも言いな〜

 

お腹空いたので近くにあった中華そば屋に入ることにしました。

(写真はありません。想像せよ。)

 

少し店内が狭い感じのお店で、行列ができていました。僕の前には男性二人組、僕の後には男女二人組、その後ろには男女二人組、って感じで、僕が一番この後何しても大丈夫な人だなと思いました。

順番来たので店に入って、3席並んだカウンターの真ん中の席に座りました。そしたら僕を挟んでいた二人がそれぞれ食べ終えて店を出たので、3席の真ん中に僕だけポツンという状況になりました。
僕の後ろに男女二人組が待っていたことは知っていたから、店員さんに声かけて「席ずれましょうか?」って聞いたら、「えっ!いいんですか...?ありがとうございます!!」って言われて、なんかすごく胸があったかくなっちゃった〜

 

食べ終わってお店出ようとしたら、店員さんが「さっきはありがとうございました」って言って飴を二粒くれました。嬉しくて写真撮っちゃった〜みて〜

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仕事中、僕は誰のこと幸せにできているのかなって悩んだり、色々上司から厳しいこと言われたり、自分の怠惰さに情けなくなったりしたけど、この飴見てたら、僕って人に優しくできるんだな、僕って人を幸せにできるんだな、って気づいて、ふと「なんだ、これでいいじゃん」って思いました。

半径2メートルくらいの人を嬉しい気持ちにできる自分って、仕事なんかできなくても、ちゃんと輝けてるじゃんって思えて、飴を一粒口に入れたら、甘くて、鼻の奥の方が熱くなって、涙が出そうになりました。僕のことなんて誰も知らない街だったから全然泣いても良かったけどね。

そして、残った方の一粒を左のポケットに入れて、僕はポケットの中でずっとその飴を握りしめながら、お家に帰りましたとさ。めでたしめでたし。

 

なんかさ、毎日毎日不安になったり、情けなくなったり、怒ったり泣いたり焦ったりしてる日々だけど、ウチらは休みの日に知らない駅に降りることができるし、何歳になってもブランコを漕げるし、ネットを開かなくても美味しいお店にありつけるし、隣に座ってる人にちょっとだけ優しくできるし、ときにはお返しももらえたりするってことを忘れない限りは、いつまでもきっと大丈夫だよね、絶対に。

僕は、心が貧相になるたびに、この日記を見返して「いけないいけない、こういう人生を過ごしたいんだった」と思い出せるようにしたくて、今この文章を書いております。

 

わ、この文章書いてたら、2020年がとっても素敵な一年だったように思えてきたぞ。わ〜!泥にまみれてた思い出たち、水で洗ったら超綺麗に輝いてんじゃん〜!! お、仕事も、完璧ではなかったけど、ちょっとは頑張れたかもな。来年はもう少し上手くやれる気がするな。最悪別に辞めたっていいし。

うん。いい調子、いい調子。

 

とりあえず来年は、仕事用のカバンに飴玉を忍ばせることから始めてみようかな。