(note過去記事)生活すること、掃除をすること、ゼロにすること

(note過去記事:2021年10月3日公開)

 

生活する

先月は仕事が忙しかった。

 

その証拠に、部屋は過去最高レベルに物が散乱していて、風呂の床にも水垢とカビが見えそう。食器も流し場に置きっぱなしで、あと三日洗濯を回さなかったら、着るパンツに難儀するくらいである。コンビニで慌てて下着を買うのは、旅先だけがいい。

最近最後に窓際を拭いたのはいつだっけ。最近最後に風呂の排水溝を蓋を開けたのはいつだっけ。思い出せないし、思い出してもあんまり嬉しくないと思うから、考えるのをやめる。

 

(実質)一人暮らしをしていると、生活するだけで手間がかかることに気づく。親元を離れた大学1年生の時、何もしなければトイレも風呂も部屋も窓際も服も、よごれがたまっていくことに驚いた。生きることは汚れることであり、生活することは汚すことなのだと思う。

親と一緒に暮らしていた時は、幸いなことに親がその汚れをなかったことにしてくれていただけで、我々は生きているかぎり周りにも、そして自分にも埃が溜まっていく。メンテナンスをしなければ生きていけないのに、この社会では、日々マイナスをゼロにしてくれている人は往往にして不可視化されるきらいがある。そうやって、「当たり前にきれい」な社会が保たれている。ビューティフルジャパン。

 

話を家に戻すと、一人暮らしをしている人の多くは、その本人が自分の身の回りをメンテナンスしないと、いずれ生きてゆけなくなる。着る服がなければ外に出られないし、踏む場所がなければ足を怪我してしまうし、皿がなければご飯を食べることも億劫になる。

それはわかっているけれど、やはりメンテナンスは面倒なのだ。僕の場合、仕事が忙しくなってバランスが崩れ始め結果、こうなった。

 

ここでの「忙しい」というのは、単に時間がないというよりもむしろ、家事に注ぐ時間があれば少しでも休みたいとか、少しでも動きたくないとか、そういう風な状態になることを指している。

1日を振り返ると確かに家事をするだけの時間は捻出できるのだが、その時間を身の回りの整理に使う気持ちがない以上、それは「暇」とは言えない。心を亡くすと書いて「忙」とは言い得て妙で、忙しさの問題点は時間よりもむしろ心にあるような気がする。
ひとまず今日着る服があって、今日食べられるご飯がありさえすれば、明日より先のことはどうでもいいのだ。忙しい時、人の時間は、長くゆるやかに続いていく連続体というよりも、細かく、そして窮屈に分断されている。今日と明日以降は、違う時間なのである。

 

そうして僕の家は、最初に書いた通りの状況を招いてしまった。
ああ、忙しかったから、心に余裕がなかったから、家が散らかっているんだ、と思いながらベッドに寝転がっていたら、もう一つの因果関係にふと気づく。すなわち、家が散らかっているから、心に余裕がないと感じる、という方向の因果関係。

ギクッ。絶対そうだ。部屋の踏める面積が広ければ、僕たちは下を向いて歩く必要はない。着る服が少しでも多くあれば、今日はどれを着ようか考えて少し心も健やかになれるだろうし、皿がきちんと洗われていたら少し料理をする気にもなれるかもしれない。
生活のインフラが整っていないのは、それ自体が問題であるよりもむしろ、それによって豊かな活動をする気が失せてしまうこと、選択肢の自由度(それはすなわち心の自由度であると思う)が極度に狭まってしまうことの方が恐ろしい、と思う。

 

起き上がって、大掃除をはじめようと決意する。

心の余裕をむしばむ悪循環は、ここで多少強行だとしても断ち切らねばなるまい。一度この家をリセットしよう。ゼロに戻そう。生活する場所を、呼吸する場所をまっさらに戻せたら、多分心の土台も平らに均せる気がする。

そしてもしも、「忙しさ」の本質が時間ではなく心にあるのだとするならば、心の土台を一度なめらかにすることで、「時間のない」という状態を表す修飾語も、「忙しい」から「充実した」へとドラマチックに変わってゆくに違いない。違いなくはないのだが、そう信じたくもなってくる。

 

僕にはまだ、今日やらなければならない仕事があるし、明日からの一週間も多分どうせ時間がない。今もしも掃除を始めれば、今週末の感情は、きっと「今週は仕事が充実していた」になるはずである。いや、多分ならないけど、とにかく日曜日の僕できることは、大掃除だ。立ち上がる。

 

***

掃除をする

洗濯機を回す。柔軟剤が切れていることに気づいて、詰め替え用をきちんと買っていた過去の自分に感謝しながら、トクトクと注いでいく。

こんな風に僕の体にもエネルギーが注入されないかな、と思う。柔軟剤の場合は重さや外見からなんとなく残量もわかるけど、人の気力の残量は全然見えない。気づいた頃には底をついていて動けなくなっていることもあるし、もしも注入が必要だと気づけた時も注入方法がわからない時もある。

好きだった音楽を聴く、なんだかもう好きじゃない。好きだった食べ物を食べる、うーん、ひとりだとなんだか寂しいぞ。とりあえず寝てみる、睡眠は正義かもしれない。
気力がないことはわかるのに、どこで気力を補給すればいいかわからない、そんな中で、なけなしの気力を振り絞ってみたりして、僕たちは毎日ふんばって生き延びている。

 

なんて悲観的な思いを巡らせていたら、柔軟剤の中身が満タンになる。持ち上げると、重たい。その重さにちょっとだけ感動する。ここまで柔軟剤を使い切った生活の蓄積があって、その生活の中でなんとか稼いだお金で詰め替え用を買い、そうして今ひとり、無心でフローラルな液体を注いでいる。側から見たら、ちょっとフェルメールの絵画みたいに見えるかもしれない。

詰め替え用みたいに自分の気力も満たしたいとか言ってた割に、ほんの少しだけれども、自分の心の奥底が、みずみずしくなってゆくのを感じる。

 

洗濯機の機械音を轟かせながら、マスクをして風呂場に入り、カビ取りスプレーをカビ部分に吹きかける。黒ずんだカビ部分が、白い泡で覆い隠れる。なんともわかりやすい洗浄体験である。
いつから白=清潔みたいな考え方になったんだろうかと思いながら、やはりカビは無くしたいので、あらゆるカビの箇所にスプレーの銃口を向けて、引き金を引く。わずかな達成感と、鼻につく化学物質の臭いを感じながら風呂場を出て台所に向かっていたら、白いカビもあるよなあ、とふと思った。

 

皿を洗う。力を入れてスポンジでこすれば汚れが取れるという至極わかりやすい仕組みなので、腕まくりをして謎に意気込んでみる。なんとなく、親と最近話していないなと思って、食器片手に母親に電話をかけてみる。久しぶりに声を聞いたら元気そうで、「実家では排水溝の臭いが嫌だと思ったことなんてなかったなあ」と思いながら、目の前の排水溝に目を写して、嫌な気分になった。

大学1〜2年生の時、東京に憧れて上京した勢いのまま、自分の方言を矯正しようとしていたことを思い出した。その頃の自分はまあ遅れてきた思春期ということで、親と話す時も方言を使わないように頑張っていて、タメ語だとどうしても方言が出るので最終的に敬語を使って話していた、ような気がする。あの時きっと親はショックだっただろうなあ。もしかしたら、敬語でさえ方言特有のイントネーションが混じっていたのかもしれないけど。

今はもう、意識しなくとも標準語を話せるようになっているけれど、親と話す時は変に意識せずにそのまま方言を使うようになった。よくわからない一貫性を保とうとすることは青春の特権で、大人になるっていうのは一貫していない自分をそのままにしておけるということなのかもしれない、と思う。皿と排水溝を洗い終えて、電話が終わった。

 

放置していたカビスプレーを流すために風呂場に行く。シャワーで泡を落とすと、びっくりするほど床が白い。白っ。

こういうのをみると、本当に原因が解決されているのか不安になる。単に表面を漂白しただけで、実はカビの原因自体は駆除できていないのではないか?とか。大人になるっていう話の続きだけど、大人は「大人のフリ」が上手なだけなんだよ、みたいな言説をよく耳にする。

僕の知ってる大人もきっと、僕の知らないところで子供になっているのだろうし、僕も大人のフリをしながら心の中の子供をあやすことがたくさんあるから、その言説は多分8割くらい合っていると思う。思うけど、できることなら内側から大人になりたいし、体の内奥から滲み出るような余裕と品格がある人でありたいと思う。もしかすると、そう思ってしまうことが何より僕が子供である証なのかもしれないけど。

大人になることが物事を諦めるって意味なら、そんな大人になることを諦めようとする僕は、大人なのかな。いやでもそれは子供なのか。よくわからなくなってきた。風呂場は白く、光沢を放っている。

 

洗濯が終わって、干しに外に出る。窓を開けると、秋の午後4時の空気が入ってくる。金木犀の香りと、準備を始めた近くの家の料理の匂いが交じり合いながら、日光のあたたかさを纏って、鼻腔をさらりと通り抜ける。思わず口角が5度くらい上がって、外の世界には敵わないなと思うし、外の世界に感動できるうちは僕はまだまだ大丈夫なんだろうと思えてくる。

世界に対する感受性もメンテナンスが必要で、使わないままにしていると錆びて修理が大変になる。だから毎日窓を開けて、外の世界にいちいち感動することが、心に油を差すために必要だ。なまった体を動かして、大きく背伸びをする。その時ふたたび金木犀が薫ってもう一度、世界の手触りにおどろきなおす。僕はまだおどろける。

 

秋が好きだ。夏とも冬とも言い切れない秋が好きだと思う。多分、最初の季節は夏と冬の二つだけで、そのあとそのはざまの期間に名前をつけようと思って、春と秋が生まれたんじゃないかと妄想する。春よりも秋が好きだ。昔は、静かなものが賑やかになっていく過程が好きだったけれど、今はもう、賑やかなものが何を捨てて何かを忘れながら、そして何か思い出しながら静けさへと向かっていく有り様こそが生きるということだと思う。多分これも大人の考え方だな、と思う自分の幼稚さに気づく。

午後4時が好きだ。昼とも夕方とも言えない午後4時が好きだと思う。外に出かける人と、外から帰ってくる人が、それぞれの目的地に向かって歩いている。

どちらでもないもの、どちらでもあるものが、そのままで雄弁に佇んでいるのを見るのが好きだ。生きていると「〇〇と△△どっち?」なんて二択の質問に強制参加させられることが多い。でもこの世のほとんどのことが〇〇でも△△でもなくて、〇〇でも△△でもあって、あるときは〇〇であるときは△△だったりする。生きていることの醍醐味は、要約できない部分に宿っていると思う。

 

部屋の掃除をする。ひとまず床にあるものを捨てる。いらない紙、いらないレシート、いらない袋、全部捨てる。どんどん身軽になる。楽しい。僕は掃除をするために部屋を汚したのかもしれないとわけのわからないことまで考え始める。

ゴミ袋の中はいらないものでいっぱいになって、この中にあるものは全て、過去の僕にとっては必要だったんだよな、と当たり前のことを思う。この世に存在する全ての「ゴミ」が、過去の一点においては紛れもなく誰かから必要とされていて、そして今このタイミングで必要とされなくなって捨てられようとしている。あるいは、捨てられてきた。

一度必要になったものを、ずっと必要とし続けるべきだとは思わない。何かを大事だと思う気持ちは、ずっとは続かない。だから、何かを大事に思えているその瞬間に、とびきりそれを大事にすればいいと思う。そういうものだと思う。ずっとものを抱えていては、何も持てなくなってしまう。

だけど、捨てられるまでそれが確かに誰かの(場合によってはかつて大事にしていた)所有物であったということ、捨てられるまでそれが紛れもなく誰かの生活を成り立たせていたことを思う。思うだけだけど。

きれいになった部屋の真ん中で、ゴミ袋をしばる。

 

 

ああ、ゼロになった。家の中がゼロになったよ。ゼロというと、何だか「自分が生きていた痕跡」を抹消したような気がしてうっすら不安になってくるけれど、これでまた今から、自分が生きていく痕跡を残していける気がしてくる。

窓を開ける。空気がするりと循環して気持ちがいい。何も生み出してないけれど、自分が生きている手応えがある。自分が生み出した汚れを、自分の手で(もちろん自分だけではないけれど)掃除すること。暮らしの新陳代謝をよくすること。自分の生活に責任を持つこと。

 

明日からまた汚れることはわかっている。生きたぶんだけ汚して、汚したぶんだけまた掃除する。一ヶ月以上も放置するのは、もうやめたい。

 

***

ゼロにする

僕たちは日ごろ、「成長せよ」というイデオロギーに取り囲まれながら、生きている気がする。

自己成長、自己刷新、自己啓発・・・本屋に並んだ本も、街の掲示物も、上司の言葉も、それぞれ言葉は違えども、結局のところ言っているのは「今のあなたに甘んじず、プラスの方向に成長しなさい」ということで、それを綺麗にコーティングしたら「新しいあなたになる」みたいな言い方になるのかもしれない。あるいは、もっと意地悪に言うとしたら「これを知らないあなたはヤバいかも?」みたいな言い回しになるんだろうか。

言い方はどうあれ、どちらも言わんとしていることは同じである気がする。私たちはどうやら、社会で生き延びていくためには、現状のままでいてはならず、1日前より「進んだ」人間になろうと志向すべきであるらしい。

確かに、現状のままで放置すべきでない問題や、進めていくべき課題は山ほどあって、それを実際に改善していくことは何より必要だと思う。けれど、この世にはきっと本来必要ではない「改善」や欲望もあって、この社会の中で生きている我々には、その2つの区別をすることはむずかしい。

 

前に進まねばならない、プラスを生み出し続けなければならない、そういう風に言われてすり減り始めた心を持て余したまま生きていると、ついついマイナスをゼロにすることを長いこと忘れてしまう。

そんな風に、身の回りや自分の心を散らかしながら生み出す「プラス」って何の意味があるんだろう。もっと僕に体力があれば、仕事をしながらメンテナンスも欠かさないでいられるかもしれないと思うし、結局民間企業に勤めながらお金を稼ぐためにはプラスを生み出さなければならないとも思う、けれど、そんな風に納得しようとする自分を見ると、どうしようもなくさびしくなる。

 

何というかこの社会には、マイナスをゼロにすることの大切さや尊さを教えてくれる人が少ないし、マイナスをゼロにする人の存在を見えなくさせるような雰囲気があるような気がしてくる。

フェミニズムにおいても、企業に働きに出て日本経済を成長させる「夫」の生活を維持し、エネルギーを再生産するための「家」の中に囚われて不可視化される「妻」、という不平等な構図が批判されてきた。男女で役割分担が決まっていることもおかしいし、どちらかの役割が社会において不可視化されることもおかしいと思う。

ゼロをプラスにする人と、マイナスをゼロにする人のどちらが偉いと言いたいわけではない。それでもやはり「マイナスをゼロにする人」を舐めるなと言いたいし、「マイナスをゼロにすること」の尊さと難しさをみんなどうか忘れないで欲しい、忘れたくないと願う。

 

プラスを生み出すことと、マイナスをゼロにすること、その二つのバランスが取れるようになる日はいつ来るんだろうかと不安になる。自分の部屋が再び荒れてしまわないかと心配になる。そもそも自分はこんな生き方で大丈夫なのかと見えない将来が怖くなる。けれど、こんな風に家を整えることができる自分ならばきっと大丈夫だと、根拠なく言えるような気もしてくる。

 

広くなった自分の部屋で、僕は今から、少し背筋を伸ばして仕事を始める。