(note過去記事)母の日に母親にカミングアウトした

(note過去記事:2021年5月11日公開)

 

母の日の夜、母親に自分のセクシュアリティについてカミングアウトをしました。

そこに至るまでの経緯や、なぜ母の日にカミングアウトをしたのか、そもそもカミングアウトとは何か、カミングアウトはすべきなのか、といったことについて、せっかくなので記しておきたいと思います。

 

てか、カミングアウトって言葉なんか長いし仰々しくね?目とか疲れん?大丈夫そ?

 

すでにカミングアウトをした/された人。
いつかカミングアウトをする/されるかもしれない人。
今誰にもカミングアウトをしていない人。
そして、今誰からもカミングアウトをされていない人。

上記のどれにも当てはまらない人がいないように、カミングアウトに無関係な人はいません。カミングアウトをされていない、ということが大きな意味を持つことだってあります。カミングアウトは、(もっというとあらゆる社会の問題は)全員が当事者だ、とあえて言います。

 

そんな感じで、個人的なお話をつらつらと書くね〜
超長いので、飽きるまで読んでいってくださいませ


(※以下、最後にも書きますが、決してカミングアウトをすべきだと言うつもりはありませんし、僕の言っていることが全て正しいわけでもありません。この人はこんな感じの人生なんだな〜と思っていただければ、それだけで十分です。)

 

自分のセクシュアリティについて

はじめに簡単に自分の情報について簡単に記しておくよ。

生まれの性別は男性で、性自認も男性です。性的指向については、ざっくりいうと「女性を好きにならないことは確信しており、好きになるとしたら男性な気がするが、恋愛的に付き合いたいとかの感情がややわからず現状は確信が持てない」という状況です。それゆえ、自分のことを、非異性愛者だと自認しております。

 

・・・複雑すぎん?ただ、その複雑だなあという気持ちだけを噛み締めて、次に進んでくれると嬉しいよ。逆に、あなた(異性愛者含む)のセクシュアリティって、そんなに明確って自信を持って言えますか?言えるならすいません

 

カミングアウト以前

自分のセクシュアリティが「周りと違う」ということを感じ始めたのは大学生の頃です。一人暮らしをし始めて自分と向き合う時間が増え、少なくとも異性愛者ではないかもしれないと思うようになり、その確信が日に日に増していきました。

ただ、その事実は、すんなり飲み込むにはあまりに棘のあるものでした。もしも自分が異性愛者でないと認めてしまったら、それは幸せになれないということとイコールなのだと、その当時は本気で思っていました。

 

なぜなら、この世の幸福像があまりにも規範的な異性愛者を前提にしているものだったからです。

多くのメディアによって構成された幸せな人生像といえば、異性間の恋愛にうつつを抜かす青春時代を経て、社会人になってからは、マイホームに夫婦と子供と犬。死ぬ時は配偶者や子供や孫に見守られて大往生。そうじゃない幸福像があまりにも少なかった。加えてテレビの中の非異性愛者は笑い者にされている。
今はそうでないものも少しずつ増えているし、自分から情報を探しにいけるけど、メディアに取り囲まれて生きていた20歳そこそこの僕の中にある幸福像は、そう簡単に取りはらえるものではありませんでした。

かわいそすぎ、テレビ捨ててあげたい。

 

自分が異性愛者でないことを認めてしまったら、世の中のレールから外れてしまうんじゃないか、幸せになれないんじゃないか。
ましてや、人に言ったら、笑い者にされるんじゃないか、いじめられるんじゃないか、社会から排斥されるんじゃないかと、泣きながら眠る夜も決して一度や二度ではありませんでした。

かわいそすぎ、涙拭いてあげたい。

 

だからこそ、この「秘密」は誰にも言えずに、1人で死んでいくのだと信じていました。人と接する時も、どこか深いところで自分じゃないふりをしながらこれから生きていくしかないのだと、自分のままでいることを諦めていました。

自分の、周りと違う性的指向を言えないのは、ただ単に人と恋愛話ができないということではありません。常に、今の話が恋愛話に発展していかないか不安を抱えながら人と話すということです。常に、相手に対して何かを隠しているという感覚があるということです。常に、社会からいないことにされる感覚を繰り返し経験し続けるということです。

 

そんな中、アメリカのミュージカルドラマ「glee」を観るようになりました。ここで初めて、僕は「幸せな非異性愛者」の人生に触れることになります。一話見るごとに、少しずつ、少しずつ、僕の中に根深く存在していた幸福像が崩れ落ちていくことがわかりました。

なんだ、僕ってふつうに幸せになれるじゃん、と思えた。僕が思っていた幸福像は社会が勝手に作ったものに過ぎないんだなと思えた。

こうして、少しずつ、本当に少しずつ、異性愛者ではない自分、そんな自分がこの世に生まれてきたことを受け入れることができるようになりました。

 

とはいえ、周りの誰にも言えないという状況があることは事実でした。自分でなんとなく認められるようにはなってきたけれど、他人に認められずして自分を認めるということは、むずかしかった。
自分さえ納得していたらいいなんて、そんな簡単ではなくて、そもそも人に言うことで自分に納得できることもあるということもわかってきました。

 

初めてのカミングアウト

そんな中、すごく仲のいい友達に、決して恋愛の話を僕に振ってこない人がいました。そしてその人は他人の聖域に土足で入ってこないような人であり、それが誰に対してもであるということも見ていてわかりました。


この人になら言ってみてもいいかもしれない。この人に話すことで、もっと自分を認めることができるようになるかもしれない。何より、自分だけで背負わなければならない重荷を下ろせるかもしれないと思いました。
もしかしたら、言うことによって、不本意だけれどもその重荷の1000分の1くらいをその人に託すことになってしまうかもしれない。けれどきっとその人であれば、それをヒョイとかついでくれるかもしれないと信じたかったし、何かあったら僕もその人の重荷を背負ってあげたいと思いました。


とはいえ、もしも言ったらどう思われるだろうか。嫌な思いはしないだろうか。悩みに悩んで恐る恐る、「話したいことがあるから会えない?」とだけLINEを送りました。

 

数日後の夜、テーブルを隔ててその人に向き合い、さて言うぞ、と口を開け、何度も脳内でシミュレーションしてきた言葉を頭に思い浮かべながら、息を吸って「実は僕は、」と言ったところで言葉が喉につっかえたのを今でも覚えています。
あれ?言えない。なんでだろう。これを言ってしまったらもう引き返せないから?口に出してしまったら「本当のこと」になってしまうから?
かれこれ20分くらい「僕は・・・僕は・・・」と言い続けました。

その人は「うん」と「無理しないでね」以外何も言わず、ただ待っていてくれました。そして、ふっと息を吐いて、「僕は、同性愛者かもしれないんだ」と言いました。(当時は非異性愛者というより、同性愛者かも、くらいの認識だったと思います。)

 

「そうなんだね、言ってくれてありがとう」と言ってくれたその声を聞いて、安心しきって赤ちゃんのように号泣してしまったわけですが、その自分の姿が、お腹から取り上げられた新生児のようにも思えました。

僕はこの時、自分の心の霧を人生で初めて取り払って、もう一度この世に生まれ直している真っ只中にいるのかもしれないと思いました。
そうして僕は、よろめきながらも引き返せないところまでたどり着き、自分の性的指向を「本当のこと」にすることができたのでした。

 

僕は「非異性愛者である自分」を単にカミングアウトしたというよりもむしろ、カミングアウトを通じて「非異性愛者である自分」になっていったのではないかと思います。
(カミングアウトを通じて「非異性愛者」になっていった、ではないところがポイントです。あくまで僕は、「非異性愛者である自分」をそこではじめて獲得したのだ、と言えます。この違いがわかってくれる人おったら全員今度サイゼでドリンクバーパーティしよね。)

 

それからは、全く異なる世界が、僕を待ってくれていました。僕以外の誰かが、僕の本当のことを知ってくれている。心に壁を作らず話せる人がいる。ただそれだけでよかった。それだけで、僕はこの世にいていいんだと思えた気がした。僕ひとりの中だけにとどまっていた何かが、ちゃんと世界と繋がった。繋がっていいと思えた。僕はもう、社会からいないことにされる人生から抜け出したんだと思いました。

 

そしてもう一つ、重大な気づきがありました。

カミングアウトは何より、誰かのためにするのではなく、自分を大切にするためにするものであるけれども、一方でそれは、相手に対する信頼や、これから新しい関係を築いていきたいという思いを表明することでもあります。カミングアウトしないならば絆が深まらないと言いたいわけではないけれど、それでもあえてカミングアウトをするということは、自分の人生を祝福すると同時に、自分とあなたの間の関係性をもう一度、違うかたちで、祝福しなおすということでもあるのだと、友達と並んで夜道を歩きながらそう思いました。

カミングアウトをする目的は、相手と恋話をしたいから(だけ)ではありません。自分と相手の間にある透明だけれど分厚い心の壁を取り除き、風通しのいい関係性をこれから一緒に作っていきたいからという、ただそれだけなのだと、個人的に思っています。

 

それから

そんなこんなで一度言えると、案外言えるようになるということもわかりました。少しずつ言っても良さそうな人を見極めながらカミングアウトをして、自分の呼吸しやすいスペースを広げていきました。
そうして少しずつ、言葉が喉につっかえる感覚も減っていきました。

 

社会人になってからも、言えそうな人を見極めながらカミングアウトしていたのですが、そこでは思わぬ誤算がありました。

というのも、学生時代は自分で交流する相手を選べたので、うまく相手との関係性を見極めて、言う/言わないという選択ができたのですが、社会人になってからは職場での働きやすさを求めて、やむを得ずそれを開示する方が自分の心理的安全のためにいいと思われる、という場面にしばしば遭遇したためです。

そこでは、本当にその相手にカミングアウトしたいと思って言うというよりもむしろ、上司らに対して配慮を求めて口にするということが多くありました。(決してカミングアウトを強制されたわけではないけれども。)

 

そうすると、聞きたくない反応にもたびたび出くわすわけです。「俺にはゲイの友達がいるから、そういうの大丈夫だよ」「誰かに話してしまったら、知らないところで広まるかもしれないから、そこは心の準備をしたほうがいいよ」なんて面と向かって言われることもありました。マジでなに?

もちろん、信頼できる上司もたくさんいました。「あなたの大切な尊厳の問題だから、絶対軽んじられるべきではないし、もしも周りの上司に話す時も、絶対に自分を大切にね。」と言ってくれる人も、「言ってくれてありがとう。なるべく傷つけないように努めるけれども、あなたのことを完全にわかったなんて言えないから、もしも何か傷つくようなことを自分が言ってしまったらすぐに教えてね。そこに関しては絶対に安心して大丈夫だよ。」と言ってくれる人もいました。

 

「社会人」の経験を経て、カミングアウトすることは、自分の心地よいスペースを確保したり、相手との絆を深めるだけでなく、面と向かって尊厳を傷つけられるリスクを伴うということもなんとなくわかるようになりました。

 

母の日

長くなりましたが、ここでやっと母の日の話に移ります。

 

母親のプロフィールは以下です。
・高校同期(男)が公の場で歌を披露することになったため、そこでその人の名前が入ったうちわを作って応援に行きたいと言ったら、「いいね〜!お母さんも作っちゃおうかな」と言って秒で材料を買いに連れて行ってくれた
・その人と遊んだという連絡をするたびにいちいちラインで「今日の〇〇くんはどうだった?相変わらず輝いてた?よかったら〇〇くんの写真送ってね。」と送ってくる(僕の写真は別に要らないらしいです)

 

本当に幸運なことにイケてるギャルママだったので、社会人になってからは別にいつ言っても大丈夫かもなと思っていました。ただ言うきっかけが欲しかっただけでした。そこで訪れた母の日。

 

昼、ふとインターネット上である文章を見つけました。
そこには、カミングアウトは当事者のマイノリティが勝手にやっていいと決めるものじゃない。それによって聞き手のマジョリティにかけてしまう気苦労や精神の負担を考えないといけない。ということが書かれていました。
文字打っててムカついて力入れすぎちゃってMacbookのキーボード全部壊れちゃったから、今からiPhoneで文字打つね。

それは、見たところ異性愛者の方が書いたと見られる「ダイバーシティについての指南書」でした。

以下、すごい勢いでキレ散らかしていきます。

①そもそも非異性愛者はマジョリティの内輪ノリに巻き込まれて、勝手に全員が異性愛者という前提で話を進められるせいで存在を不可視化され、知らない間に語りにくい状況に追いやられているだけなのに、なんで自分たちのこと棚に上げて僕たちのせいだけにするんですか?

②そんなこと言うならこっちも言わせてもらうけど、あなたは結婚やら異性愛前提の恋話をすることによって毎日「異性愛者であるというカミングアウト」をしては、それになじめない人に精神の負担をかけてるんじゃないんですか?

③確かに、性的マイノリティであるとカミングアウトをすることで特に異性愛者の聞き手が嫌な思いをしたり、落胆することはあるかもしれないけど、そんなこと言われなくてもこちとら24時間365日相手に嫌な思いをされないか、拒絶されないか、どう思われるかを不安に過ごしながら、カミングアウトできる相手を慎重に見定めているんですが・・・。

④しかも、カミングアウトするということは別に相手を怖がらせたいわけではなく、前述のように、相手に信頼しているということを示し、より良い関係性を築いていきたいという願いを託すからではないのか?

⑤てかまずそんなこと言ってくる人にはカミングアウトしてあげないから、気にしないで大丈夫です。(でもカミングアウトしないとますますこんな考えが加速してしまうのか?え〜〜〜どっちも嫌すぎ〜〜〜)

 

ここでやめます。
文字打ってて怒り込めすぎちゃってiPhoneの画面バキバキになっちゃったから、今から新しいMacbook買って来るね。

そこからはもう怒りに任せてカミングアウトに関する論文や新書を読み漁り、そこで一つの言葉に出会いました。

カミングアウトは、単に自分の指向性別を伝えるだけにはとどまらない意味がある……(カミングアウトをしようとする子供が)親から結婚について言われるのが嫌ということは、単にそれを言われたくないということだけではなく、そのことで関係がギスギスしたり、家に近寄るのが億劫になるのを変えたいからではないだろうか。……果たしてそう思うことは、わがままだったり、自分勝手だったり、親不孝だったりすることなのだろうか。もしそれを伝えたことで、相手が苦悩するとしたなら、それは、伝えた側のせいなのだろうか。

砂川秀樹『カミングアウト』朝日新書

子供から親にカミングアウトすることは、決してわがままではなく、親との関係性をより大切にするための行為でもあり得るのであって、その思いは決して軽んじられるべきではないと思います。

 

そこでふと、母の日だからこそカミングアウトしたいという考えが浮かびました。
自分が異性愛者ではないこと。この身体を持つことによる辛さもあるけれど、毎日ご飯を食べて、ちゃんと幸せであること。僕が僕として生まれて、今のような自分に育てられたことをありがたく、そして誇りに思っていること。お母さんの子供でいられてよかったこと。そしてこれから、より良い新しい関係性を作っていきたいと考えていること。
今の僕にとって、母に感謝の気持ちを伝えるためには、カミングアウトするのが一番よい選択肢に思えたのです。

 

そこからはもう突然LINEで通話かけたらいつものごとく秒で出たので、「僕は異性愛者ではないんだよね、だけどちゃんと幸せで、お母さんの子供でよかったと思っているよ」と、やはり少しためらいはあったけれど、それでもよどみなく伝えることができました。てか、お母さんっていつ電話しても毎回秒で出るよね。

母親は予想以上に「え、別に何にも問題ないんじゃない?あなたはあなたなんだし」というスタンスでした。
もちろん認識の齟齬があった部分に関しては、「それはそうではなくてこう思ってるんだよ」ときちんと言葉を重ねて説明をしながら、最終的には以下のツイートのようなかたちで激盛れギャル親子がこの美しい地球に爆誕しました。

 

本当に僕はこの人の子供でよかったなあと心から思えて、その気持ちを直接伝えられたことが何より嬉しくて、今日は、いや、紛れもなく今日こそが母の日だなと思いました。

カミングアウトとは何か

結局のところ、カミングアウトというのは、社会の異性愛規範の中で暗黙のうちに「異性愛者」だと仮定されてしまう状況に対して、自分と社会の間の関係性を修正・調整する営みであるといえます。

 

カミングアウトというと、その当事者個人が突然世間を騒がすというようなイメージがありますが、どちらかというとむしろその「世間」なるものがそもそもカミングアウトという行為の必要性を作り出していると言ってもよいのではないかと思います。(カミングアウトをしていない性的マイノリティを、クローゼットの中にいる人という意味で「クローゼット」と呼びますが、社会規範が本当にフラットならばそもそもクローゼットの中に隠れる必要はありません。)

それゆえ、ここまで散々カミングアウトという言葉を使ってきていますが、実はそもそも「カミングアウト」という言葉を使うこと自体、すごく抵抗があります。僕(たち)は勝手にどこかからcoming outしてきたように見えるけれども、本当はずっと変わらずそこにいて、呼吸をしていたのだから。

ただの自己紹介が、もっというと異性愛者が自己紹介するときでさえ口にしないで済んでいるような情報の開示が、「カミングアウト」と呼ばれること自体が、いつの日かなくなればいいなと思います。

 

加えて、これに関連したこととして、カミングアウトをわざわざするということによって、自分の非異性愛者という側面だけが前面に出てしまうことも懸念としてありえます。

異性愛者の人は異性愛者であることが当たり前すぎて性質の一つとして認識すらされない一方で、非異性愛者はその側面が特別な一側面として強調されてしまう。

個人的には、ITZYとNiziUが好きで、露天風呂が好きで、平日は仕事をしていて、今この瞬間焼肉が食べたくて、性的指向は非異性愛者で、視力は1.0、くらいのノリなのだが、「そういうキャラ」ということが前面になって認識されやすい傾向にあるなあと個人的に感じることもたまにあり、結構さびしめ。

 

しかしながら、そのように社会的に不均衡な状況があるからこそ、カミングアウトは特別な意味を持ちうるのではないかとも一方で思います。異性愛規範の浸透した社会だからこそ、カミングアウトという行為は性的マイノリティの生存戦略の一つでありながら、相手との関係性を調整しなおし、そこに希望を見出す営みでもあるだろうと思うのです。
(決して社会が不均衡なままでいて欲しいなんて思いません。でもまあ、せめて僕たちが楽しんでることで社会に抵抗できるなら死ぬほど楽しませてもらいます。)

 

ただ、ここまでの話は、カミングアウト前の関係性が一概にダメであると言いたいわけでは決してありません。その前の関係性の全部が嘘である、ということではなく、互いに誠実な付き合いをしていたのならば、カミングアウトするかしないかは、ただ相手を大切にする方法が違うだけ、ということなんだろうと思っています。そう思いたいよ。

そしてまた、カミングアウトをすべきということでも決してありません。
カミングアウトは、何より自分の心理的安全性が保たれて、なおかつ自分のことを大切にするために行うべき行為であると思います。
僕も、まだまだ自分の性的指向を言えないなと思う人が山ほどいます。そして逆に、この人にはあえてカミングアウトをしないほうが、僕たち二人の関係性を大切にできると思える人もいます。

 

カミングアウトをすることも、しないことも、あなたが決めていいことだし、どちらを選んでも決してわがままな事ではないと思います。

 

おわりに

最後に、いま一度以下の意見に応答します。

性的マイノリティがカミングアウトをするときは、聞き手のマジョリティにかけてしまう気苦労や精神の負担を考えないといけない。そうでないと、自分勝手だと思われても仕方ない。

 

確かに、工夫は必要です。言うのに適切ではないタイミングやシチュエーションもあるだろうと思います。そしてまた、これを言ったら相手がどう思うか、と考える必要は常にあると思います。

しかしそれは、カミングアウトをすること自体が不適切ということではなく、それ以前の人と人とのコミュニケーション作法における話、ということだと思っています。

 

いざ言った時、不本意な反応をされてしまうこともあるかもしれません。けれど、それはあなたが悪いわけでは決してない。相手だけが悪いというわけでもない。言ってしまえば、社会の問題です。

だから今、そんな事態を少しでも減らしていくために、多くの人が社会で戦ってくれています。もしも僕のこの文章が、何らかの形でその一環になってくれたら、これほど誇らしいことはありません。

 

そしてもしも、カミングアウトをした人を前にして戸惑うことがあれば、せめてその人が、このカミングアウトの先に何を見ていたのか、何を願っていたのかを考えてみて欲しいのです。そして、このカミングアウトの前にどんな人生を経験していたのかを想像してみて欲しいのです。


すでにカミングアウトをした人/された人。
いつかカミングアウトをする/されるかもしれない人。
今誰にもカミングアウトをしていない人。
そして、今誰からもカミングアウトをされていない人。
この中のどこかに必ず、あなたがいます。

目の前の相手を大切にしたい、ただそれだけの願いが、ちゃんとその相手に届き、そして報われること。
自分が呼吸しやすい場所をつくりたい、ただそれだけの祈りが、当たり前に聞き届けられること。
そんな社会で生きられる日を夢見ながら、僕はまた日々、誰かに「カミングアウト」をします。