(note過去記事)フワちゃんが好き

(note過去記事:2021年7月14日公開)

 

持ち前の明るさと奇抜さ、親しみやすさで、最近ずっとテレビに出ているフワちゃん。

 

わたくしフワちゃんのことが大好きなのですが、みんなはフワちゃんのこと好き?

 

フワちゃんって明るくて元気出るからすき〜、で終わらせてもいいんだけど、フワちゃんのどこが好きかを自分なりに考えてみたときに、
単に「フワちゃんは明るくて元気が出るから好き」にはとどまらないような感情が少しずつ芽生えてきたので、今回は僕がフワちゃんのことを好きな理由をちょっと堅苦しい日本語で言葉にしてみたいと思います。よろしくね

 

フワちゃんは、ギャルである。

フワちゃんはギャルである。

フワちゃん自身がそう自称しているだけでなく、フワちゃんのファンのことは通称「フワギャル」と呼ばれているくらいだから、好きになっただけで人間をギャルにさせてしまうフワちゃんは相当なギャルであることがうかがえる。

 

ところでギャルってなんだろう。

専修大学ネットワーク情報学部の上野、鈴木、星野は「多角的な「問い」を生成するためのロールプレイイング型発想ツールの提案」という文書において、「委員長」と「ギャル」という二つのロール(役割)をそれぞれ次のように定義する。

委員長:詳細なインプットを行うが、自身の経験や知識から連想される先入観に固執してしまい自由な発想を苦手とする人物像
ギャル:前提知識が不足しているが故の「感情的,直感的,理不尽,自己中心的,楽観的」な発言を意識せず可能にしている人物像

ここにおけるギャルの定義を少しアレンジして、ここではギャルを以下のような人物と定義する。
:社会規範遵守意識が不足しているが故に社会規範から逸脱した発言や振る舞いを意識せず可能にしている人物

何となく、皆さんの中のギャル像・フワちゃん像と近いような気がする。

 

けれど僕は、単にフワちゃんの社会の決まりに反抗するギャルな姿がかっこいいから見ていてスッキリするとか、底抜けのポジティブさに憧れるとか、そういうことだけを言いたい訳ではない。
僕が思うフワちゃんの魅力はむしろ、「社会規範から逸脱した振る舞い」を通して、社会規範とは異なった道を指し示すだけでなく、その過程で社会規範よりも大事なことを我々に思い出させ、社会規範自体の効力を弱体化させてくれるようなところである。

 

これについて、簡単に2点、実際のフワちゃんの「社会規範から逸脱した振る舞い」をもとに考えてみる。

 

①フワちゃんのタメ口

フワちゃんは、タメ口を使う。初めて出会った小学生から、ダウンタウン黒柳徹子にまで、タメ口を使う。

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一般的な社会規範は、「目下の人は、目上の人に敬意を示すために敬語を用いるべきである」というものである。

しかしどうだろうか、フワちゃんは現に目上の人からも愛され、可愛がられ、ここまで来ている。それは単にフワちゃんが「そういうキャラだから許されている」わけではない。

オードリー若林は以前ラジオで次のように語っている。

(フワちゃんにとっては)あの感じがもう敬語なわけじゃん。タメ口だけど、人間が好きだから。

「あの感じ」とは、フワちゃんの振る舞いや人間性全体を指す訳だが、そのフワちゃんの人間性自体がそもそも「敬語」である、と若林は述べる。

このフワちゃんのあり方は、「敬語=敬意」という社会規範をいとも簡単に塗り替える。
確かに、敬語は敬意を示す上での簡単でよくある方法ではあるが、敬語を使っていないからと言って敬意がない訳ではないし、もっというと敬語を使っているからと言って、敬意がある訳でもないだろう。
敬語を使わないフワちゃんと、敬語を使う別の人が同じ画面にいると、果たしてどちらの方が相手に愛を持っているんだろうかと考えこむ。

裏を返すと、さらにこういうことも言えるかもしれない。
「目下の人は、目上の人に敬意を示すために敬語を用いるべきである」という社会規範は、徐々にその効力に影が見え始めうる。なぜかというと、敬語を使っていれば必ず敬意がある、という命題がもしも偽であるのならば、ある人が本当は敬意なんてないにもかかわらず敬語を使用することで「見せかけの敬意」を作り出している可能性が示唆されるからである。
フワちゃんの前では、敬語は空虚な記号へと転じる可能性を持っていて、これは同時に、我々の社会規範に対する抵抗のバリエーションを生み出しうる。

 

我々は日々、苦手な相手にも、敬語を使う。けれど別に、敬意なんてなくても敬語は使えるのである。我々は、敬語があるおかげで、苦手な相手に心から敬意を持たなくても、むしろ裏では反抗していたとしても、何とか社会生活をやり過ごすことができる。
ここで「敬語」はもはや、我々に課された義務であるよりもむしろ、抵抗をする上での武器として、価値が転換されている。

こうして、本来は社会規範を維持する装置であったはずの「敬語」が、逆説的に社会規範を撹乱しうる装置として意味が書き換えられる、と言えるかもしれない。そして同様に、フワちゃんのような、「敬語」を用いない形での親密なコミュニケーションの可能性も開かれる。結局大切なのは敬意なのだということを、フワちゃんは大胆に我々に提示する。


フワちゃんは自身のファンブック『フワちゃん完全攻略本』にて、タメ口についてこう語っている。

生粋の女芸人達が避けて通る「かわいい」「オシャレ」「先輩にタメ口」。女芸人にとって必要ないって思われてたその要素を逆にあたしの最強の武器にすることによって、正攻法じゃ立ち向かえなかった芸人と一緒にTVに出ることができたと思ってる!

 

このように、あくまでフワちゃんは、タメ口を芸能界で戦うための武器としてしか認識していないように見える。しかしながら紛れもなくフワちゃんのタメ口によって我々は(勝手に)、我々を取り囲む社会規範への抵抗の術や、新たなコミュニケーションのあり方の可能性を見いだすことができる。

 

全然話ずれるんですけど僕はオードリー若林の顔が超好きです。

 

②フワちゃんのスポブラ

フワちゃんは、スポブラを着ている。どんな場面でも露出度の高い服装をしている。

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これまで「女性」が肌を出した服装をすることは、「(主に男性によって)見られる客体」としての女性像を促進しやすい傾向にあったように思う。(特に絵画論などでは、眼差しの主体/客体のジェンダー格差などがよく論じられている。)

男性の一定数は女性の水着グラビア写真を主体として眼差し、女性が胸元の開いた服やミニスカートを履けば「誘ってる」と男性に解釈され、さらには、露出度の高い服装は痴漢の原因となるという論理で、男性の性的加害性を正当化する道具として使われることもある。

ここでの社会規範はこうである。「肌の露出の多い女性は、(主に)主体的な男性の視線の客体となる。」

 

スポブラについてフワちゃんは、ファンブックでこう語っている。

(スポブラって)派手でかわいくってスポーティーで大好き!

フワちゃんは、スポブラという露出度の高い服装をしているが、それは見られる客体というよりもむしろ、見せる主体として、そしてそのようなかわいい服を着る自分を楽しむ主体として表象されている。

このフワちゃんのあり方は、これまで男性主導のメディアが用いてきた「露出度が高い=見られる客体」というありふれたコードの例外として機能する。

一度このコードに例外が生まれてしまえば、それは我々が既存の社会規範の正当性を切り崩し、それに対して抵抗を示す契機となりうる。

 

女性が肌を見せる服を着ていようとも、それは眼差されるだけの客体としての地位に甘んじる意思表明でもなければ、(言語道断だが)触っても良いという許可を示すものではありえない。

それは自分の好きな服を着る、そして時にそれを見せつける、という主体性を意味する可能性を含んでいるのであり、そうなると、従来露出度の高い服が持っていた、男性に屈するという意味合いは次第に薄れていく。

痴漢されたくなければ、肌を見せない服装をしろという主張は本来、何から何までおかしいのである。


我々が目指すべき社会は、女性が襲われないように服装の指導をしてあげる社会ではなく、服装に関係なく女性が安心して街を歩ける社会のはずである。

女性は(主に)男性のために露出度の高い服を着ている訳ではなく、むしろ結果として、そのような規範に対してある種の抵抗の意味合いを持ちうる。

これも、「スポブラってかわいい!」と話すフワちゃんからしてみれば意図したものではないだろうが、確かに我々はフワちゃんの生き様から、ギャルとしての楽しさと強さを(これまた勝手に)受け取ることができる。

我々は本当は、何を着て人生を楽しんだって良いはずなのだ。

 

フワちゃんのクィアネス

その他にも例えば、フワちゃんはよく物を忘れてしまいがちな自分の脳みそを「かわいい」と言ってみたり、自分が可愛いと思ったものをとにかく着るなど、「かわいい」という言葉を、ありがちな「他者ウケ」の意味合いから「自分ウケ」の意味合いに強烈に転換させたりする。

また、フワちゃんの喜怒哀楽を全開にして愛されるスタイルは、上述のフワちゃんファンブックでトンツカタン森本が語るように、日本人のどんな時でも我慢すべきというという美徳に、疑いを生じさせる。

友情関係に目を向けても、性別を問わず友達と仲良くするフワちゃんの姿は、「男女で友情が成り立つか否か」という古典的な社会的論争の頭上を、軽々とスキップひとつで飛び越える。(もっというと、「男女」というジェンダー二分法および性別至上主義自体に異を唱えているようにも見える。)

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いずれにせよ、フワちゃんの「社会規範から逸脱した振る舞い」は、現在の社会規範を相対化させ、疑いを投げかけたり、そうでないオルタナティブな生き方を見せてくれたり、あるいはそれに抵抗する術を我々に提示してくれたりする。

社会規範は、自明に存在するのではなくむしろ、日々の人々の行為や言説の反復を通じて生成・維持されていき、しかしそれゆえに行為や言説を通して書き換えることができるのだ、というのはクィアスタディーズにおいておなじみの考え方であるが、その意味でフワちゃんは、クィアなクィーンにすら見えてくる。


とはいえ、実際に社会規範の内側で日々生きてもがいている我々から見ると、依然として強固に見える社会的なしきたりも多い。

そんな中でギャル・フワちゃんは、社会規範遵守意識が比較的低い(=それより大事なことがある)ゆえに、我々が当たり前だと思って特に息苦しく感じているようなルールを超えて、フワちゃんなりの道をただただ行く。

その軽やかさに、我々はたまに、救われる。

 

だからみんな、フワちゃんに、心のどこかで憧れる

フワちゃんの親友であるトンツカタン森本は、フワちゃんTV『親友からフワちゃんへ「100の質問」』の中でこう語っている。

(フワちゃんは)良いヤツですね。なんかこう、人情味溢れるというか、義理堅いというか。だからみんな好きなんじゃないかなって思いますね。
……フワちゃんみたいに、なりたかったのかも。ある意味で。

トンツカタン森本は、いわゆる優等生キャラ・真面目キャラで、ギャルとは程遠い「委員長」タイプの人物であるように見える。

そしてきっと我々もそうで、日々色々なルールの中で閉塞感を感じながら、ついくじけそうになる瞬間がたくさんある。そんな時、ふとフワちゃんの動画を見たくなる。

 

フワちゃんがドラムを叩く動画のコメント欄に、こんなコメントがある。

このチャンネル見てると度々思うんだけど、世界に光が満ち溢れすぎていて泣いてしまう
フワちゃんとかその周りの人を見てると自分の目にくっついちゃった汚い色のフィルターがどんどん剥がされていくような気持ちになるよ
いつもありがとね

 

フワちゃんがただ街を散歩する動画の中で、フワちゃんは持ち前の愛に溢れたタメ口コミュニケーションで、老若男女問わず次々に友達を作っていく。そうして仲良くなりながら美味しいものを食べて、とことん楽しんだら、派手な帽子をかぶって家に帰ってゆく。

この動画を見たとき、「人生ってこんなに単純だったのか」と思って少し泣いた。生きていると本当はそんな単純じゃないんだけど、フワちゃんの動画を見ている間は、少し単純な気もしてくる。だから、救われる。

僕たちは多分、世界が単純に見える瞬間を必要としている。

 

そして同時に、だから僕たちはフワちゃんに憧れる。

生きているなかで我々は、知らず知らずのうちに世界を狭めて、なくてもいいルールに縛られて、疲弊する。

繰り返される毎日の中で、そんな規範を軽々と超えていくフワちゃんの生きる世界を見ると、ああこういう風に生きてみたいと思わされる。

フワちゃんが生きる世界は、遠く離れた別世界ではない。むしろ我々が生きている過程で知らず知らずのうちに入り込んでしまった壁のすぐ外側にある世界であって、いらない社会規範や「汚い色のフィルター」を一個ずつ取り除いていければ、自分も手が届くかもしれないと思わせられる、そんな世界である。

 

小学校低学年の頃の夏休みに見た綺麗な海みたいな、そんな頃の記憶を、フワちゃんを見ると思い出す。「かつてそうだったかもしれないけど、もうそうではなくなってしまった自分」が多分、フワちゃんなんだろうと思う。

フワちゃんはよく、愛おしいものを見つけると「赤ちゃん!」と呼んで愛でているけれど、実は人類の中で誰よりもフワちゃんが「赤ちゃん」に近いのではないかと思えてくる。

そう考えると、トンツカタン森本が「フワちゃんみたいになりたい」ではなく「フワちゃんみたいになりたかった」と語った心情が、より深いところまで伝わってくる、気がする。

 

とはいえ、我々の多くが、今から完全なるフワちゃんになることはできないし、それに耐えうるだけの人間性もあいにく持ち合わせていない。だし、もしも全員がフワちゃんになってしまうのも、それはそれであぶない。だから少しの間、我々はフワちゃんの中に夢を見る。

部分的にだけでもなりたい自分を取り戻していくために、あるいは束の間だけでも大丈夫になるために、フワちゃんが生きている血の通った世界と清々しいギャルマインドをスクリーン越しに体験する。

そのとき我々は、ほんの少しだけギャルになる。あるいは、ギャルであったことを思い出す。

 

フワちゃんを好きというだけで、名前だけでも「フワギャル」になれるのは多分、そういう理由だからだろうな。