(note過去記事)人生取り戻し日記

(note過去記事:2021年3月28日公開)

 

 

0. 仕事を(少しだけ)休むことになりました

今、3/19(金)です。理由は色々あるのですが、仕事で心身が不調を訴え出したのを察知したので、なんとか上司に交渉し、余りまくっていた有給を繋げて3/28(日)まで一週間休暇をとりました。

ちなみに、そんな僕の今月の精神状態はこんな感じ:
食欲がわかない、寝つきが浅い、判断力が鈍る、社用携帯の通知がなるたびに動悸が起きる、言葉と思考が噛み合わない、物欲がない、前好きだったものが好きじゃない、趣味にかける気持ちの余裕がない、おしゃれする気も起きない など

 

・・・エッ、これって誰?僕?本当に僕の人生?僕の人生はもっと楽しいはずだよ。いつから僕は僕の人生を手放してしまったんだろうか。

こんな状況が一週間でどうにかなる問題なのか?という本質的な疑念があるわけですが、その疑念は一旦脇に置いて、とにかく自分の人生を取り戻せるだけ取り戻してみようウィーク開催しようと思いました。「いけないいけない、こんな人生を送るのだった」と思えることが今回のゴールってわけです。

 

誰に取られたのかも、いつ取られたのかもわからないままに、自分の魂を見えない誰かに受け渡してしまった僕が、自分の錆びついた魂を見つけ出して、磨けるだけ磨いて、付いてしまった傷は一旦そのままに、きちんと僕の体の中にもう一度迎え入れることができるのか、という、他人にとってはどうでもいいチャレンジです。だけど、どうでもいい日々の中に生きる力が隠れていることを知ってしまったので、書きます。おつきあいくださいませ。

 

 

3/20(土)曇り

午前中ゆっくりやすんで昼、後輩と伊勢丹にネイルを買いに行きました。と同時に、自分がネイルをする気力をいつのまにか失ってしまっていたことを思い出しました。

好きなものを見つける、とか、好きなものを仕事にする、とか、そういう言葉は世の中にくるしいほど溢れているけれど、好きなものを好きなままでいることの難しさを語ってくれる人が少ない気がするのはどうしてだろうね。

決して、好きなものを好きなままでいつづけるべきだとは思わないけど、僕が思う以上に、僕の「好き」という気持ちは脆いのだということだけは、覚えていようと思いました。

 

夜、先輩と散歩しました。「明日朝早い?早くないなら今から夜の新宿散歩しようよ」と言われたんだが、人って言葉に対して恋に落ちることがあるんだなということを思い出しました。

ちなみにこれより前で覚えているフォーリンラブセンテンスは、数年前友達に言われた「何度でも同じ話をすればいいよ」です。僕も誰かを恋に落とすような言葉をいつか言いたいよ。

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その日は珍しくバスで帰りました。仕事場と家をつなぐ地下鉄の景色に見慣れていたので、地上ってこんなに明るかったんだと思いました。

家に着いて、翌日の映画を予約し、ベッドに入りました。今日はいい日だったな、明日もいい日になるな、と思いながら目をつむったのはいつぶりかな〜と考えながら、1日を終えられる。切れ目なく続く時間の中で24時間が経った、ではなく、きちんと1日が終わったんだなと思える日は、いい日だと思いました。

 

 

3/21(日)雨

朝早くなかったので、前の晩のことを思い出しながら二度寝しました。

 

昼、映画館に「あのこは貴族」を見にいきました。学生時代はちょくちょく映画館に行っていたけど、ここのところめっきり行っていなくて、雨の中行きました。ズボンが濡れる感覚は久しぶりで、だけどそんなに嫌じゃなくて、雨の中でも見に行きたいものがあるうちはまだまだ大丈夫ということだろうと思いました。
結局のところ大事なのは、雨が降っているか降っていないか、ではなく、撥水性のある心を持っているか持っていないか、ということなんだろうか。

 

家に帰ってからパソコンを開いて、大学時代に書いたレポートを読み漁ってみました。僕って意外と、ちゃんと物事考えられるし、ちゃんと努力できるし、ちゃんと輝ける人なんだということを思い出しました。今自分が胸張って生きれていないことをふがいなく思いつつ、それでもなお、自分が輝けることを知っている限り、人は腐らず生きていけるんだろうと強がってみてもいいかなと思いました。

 

夜には大学時代の学科同期みんなでオンライン会合を開いて、ああみんな変わらないな〜と思うとともに、みんな戦っているんだなあと感心しました。今この瞬間も、誰かがどこかで戦っていて、誰かがどこかで傷を負っていて、誰かがどこかで立ち上がれなくなっているというそんな当たり前の事実があって、だからどうというわけでもないけれど、戦ってるんだからそりゃ傷もつく、ただそれだけのことだと思いました。

 

 

3/22(月)曇り時々雨

友だちと遊びました。

ね〜〜てかもうこの際、友だちっていうのやめていいですか?これまでいろんな場所でこの人のこと友だちって言ってきて、別に間違いではないけど、ここではあえて同居予定人って言わせてね。
社会に受け止められやすいように「友だち」って言葉を使うの便利だけど、人生はいつも言葉の主導権を握るところから始まるし、人生を取り戻すことと言葉を取り戻すことはほとんど同じことだと思います。

 

適当に歩いていたらいい感じの服屋を見つけたので入りました。お客さんが僕たちだけで、店主がすごいこだわりの強い方だったので、1時間くらい服について教えてもらいました。そしたら、お兄さんたちのために丸々コーディネートしますよと言われて、全身着せ替えられたのですが、その時の自分がかっこよすぎてびっくりしました。

 

自分が今より素敵になれるっていう感覚を久しぶりに思い出して、これからの人生が猛烈に楽しみになっちゃって、浮かれてしまって、25000円のズボンを即決で買ってしまいました。良い物を着る、買うことって、自分をちゃんと大切にするという意思を表明するってことだし、未来の自分を祝福するってことなんだなと思いました。欲しいものがあるって、生きたい未来があるってことなんですね。

そして、デパ地下でケーキを買って、傾けないように用心しながら二人で家路につきました。

 

家に帰って、夜ご飯を作りました。

自分たちのお金で材料を買って、自分たちで作った物が並んだ食卓をみて、うわ〜僕たちって自分たちで幸せな暮らしを作れているね〜と思いました。両手に収まるくらいの幸せをちゃんと自分たちで堪能できていることがたまらなく嬉しくて、味は結構微妙なやつもあったけど、次はもっと美味しく作るぞ〜と思えるだけの精神を取り戻していたことにここで気がつきました。

 

そのあと、ふたりでドライブに行きました。「今日お気に入りのラジオが最終回だからドライブしながら聞こうと思ってるけど、一緒に乗る?行き先はまだ決まってないから走りながら決めよう。」と言われたときまた五臓六腑がクラッと来たわけですが、この言葉には、ドライブの本質を到着地ではなくて、そこまでの道のりそのものに置くような精神を感じませんか。

この精神を拝借すると、今僕が落ち着ける職場やこれだと思える仕事といういわば到着地にたどり着けずに、足踏みをしたり、同じところをグルグル回っていたりしていることは、どうしようもないほどに生きているってことなんだなあと思いました。

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去りし学生時代、学科の同期が鮮やかな青空の下で、「自分が停滞している感じがする、前に進みたい、いや、前に進まなくてもいいから、動いていたい。」と言っていたことを今突然思い出しました。

しゃがんでまた起き上がったり、グルグル回ってみたり、時には来た道を戻ってみたり、真上から見ると無意味に見えるけど、真横から見るときちんと体を動かしている、そんな営みに、生きることのよろこびを見つけてみてもいいかなと思いました。

 

 

3/23(火)晴れ

前日に買った4つ切り食パンにたくさんバターを塗ったり、マッシュポテトをこしらえて食パンの上に乗せてトースターで焼いて食べました。

お金を払うことで、作ることと消費することを切り分けながら効率よく生きている毎日の中で、わざわざジャガイモを加熱し、火傷しかけながら皮をむき、力を込めてつぶし、しかも市販のものよりクオリティは劣る、なんて非効率の権化みたいだけど、別に非効率なことをやっていけないということではないし、多分、必死にジャガイモをつぶしている僕はいつもよりいい表情をしていた。非効率って、なんて贅沢な時間だろうと思いました。次の休暇はジャガイモの収穫に行こうと思います。

 

そのあと、家に帰って、京都大学が開講しているジェンダーのオンライン授業を2本視聴しました。昨日の僕が知らないことを、今日の僕が知っていて、今日の僕が知らないことも、きっと明日の僕が知っている、そうやってちょっとずつ世界の解像度が上がって、見えなかった何かが見えていく、その尊さは、僕たちが忘れない限りいつだって人生の中にあるんだと思いました。

そういえば帰り道、駅の花屋に入りました。花を綺麗だと思えている自分に気づきました。

 

 

3/24(水)晴れ

仕事で疲弊した体をほぐすために、鍼を打ちに行きました。よく言われることだけど、体と精神って全然別物じゃないよね。

そういえばkindleで稲葉俊郎『からだとこころの健康学』を積読してたなと思い出し、読みました。彼の思想には納得できない部分も多々あるけど、腑に落ちた部分もありました。

過剰にスピードが重視される現代で、私たちの生活に最も影響を及ぼしているのは、(「からだ」や「こころ」ではなく)「あたま」です。
例えば、どんなに疲れていても、どんなに気分が乗らなくても、「明日、この仕事をやらなければならない」「絶対に休むわけにはいかない」という考えを優先し、無視をしてもっと頑張るように指示を出すのは、いつも「あたま」です。
「からだ」と「こころ」の働きだけであれば、きっと迷うことなく、「今日はもう疲れているから、明日は無理せずにゆっくり休もう」とからだを休める方向に向かうでしょう。

稲葉俊郎『からだとこころの健康学』

確かに。もちろん、社会で生きていく上ではあたまの働きは欠かせないわけだけど、僕はからだやこころのことをあまりにも大事にしていなかったのだなあと、そんな当たり前のことを思い出しました。

まあ、だからと言って、この二つを完全に優先して働いていくことは難しいけれど、僕は所詮、傷付けば血が出るし、燃えれば骨だけが残るし、からだとこころなしには生きていけないただの生命体であることだけはせめて、きちんと肝に銘じます。

 

そのあと、ふと読みたかった本を思い出して、7割くらい読みました。

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異性愛に関する限り、結婚の契約は、かつては基本的な権利規定であり、その規定は、きずなが基本的に「分離され、しかも不平等な」性質のものであることを公に示すものであった。婚姻を、限定辞でなく記号表現の自己投入(コミットメント)という用語によって言い換えることは、こうした状況を根底から変えていく。純粋形態にほぼ近い関係性はすべて、不公平であったり耐え難いと感ずるような状況が生じた場合には、いずれの側も再協議を求めることができるような、潜在的に「更改可能な契約」である。

アンソニー・ギデンズ『親密性の変容』

近代社会における親密性の変容について、セクシュアリティの解放や民主制の台頭などの視点から論じる本で、本って1ページ読むのにこんなに時間がかかるものだったなと思い出しました。日頃のネットサーフィンで、少し理解できなかったりするだけでページを離脱してしまっていた今の自分の言葉にどれほどの重みがあるのだろうと、ちょっと泣きたくなりました。

1ページ読み進めるのにも苦労するような、消化に向かない重みのある情報が、現代を生きる我々の胃にどれほど適しているかはわからないけれど、もれなく消化不良を起こすことがわかっている本を、腰を据えて読める時間の贅沢さ、わからないテクストに全力で悩める心の豊かさ、読みたい本があるという青春の尊さを忘れた人間にだけはなりたくないと思いました。

 

そんなこんなで本を読んでいたら、いつのまにか日付が変わっていました。

 

 

3/25(木)曇り

転職を控えて休職している友達と一緒に上野公園に行きました。

「プチニートの特権だね〜」って言いながら人の少ない美術館に行きました。美術館なんていつぶりだろう。目の前の美術品の美しさに目を見開いて、当時の空気を意味もなく想像してみたりして。ああ、生きていてよかった。

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よく、休職していた人が会社に戻って「(働いているという)健全な状態」になることを「社会復帰」というけれど、今回、会社をすこし離れることで「(人として)健全な状態」になっているな〜と思い、この様を友だちと「逆社会復帰」とひとまず命名して、解散しました。

 

帰ってから歯医者に行って知覚過敏を指摘され、一度削られたエナメル質はもう元には戻らないんですよ、なんて警告をもらい、ああ人の体ってよく食べてよく寝るってだけでは元には戻らなくなるようになるんだなと思いつつ、また消えない傷が増えてしまったなあという事実を持て余したまま昼寝をしました。

というかまた電気をつけっぱなしで寝てしまった。電気をつけっぱなしで寝ると、「寝る」と「眠る」の違いがわかる気がするな。「む」が途中に挟まるだけでどうしてこんなに静かで穏やかで、聖域のような響きがするのだろうか。

 

そのあと、部屋の掃除をしました。心の状態と部屋の汚さって比例するって聞くけど、その意味がちょっとわかった気がします。
掃除をして、足の踏み場が増えれば、僕たちはちょっとだけ自由になれるし、掃除をして、埃を払えば、僕たちはちょっとだけ深く深呼吸ができるようになるということだと思いました。

 

 

3/26(金)晴れ

高尾山に登りました。最近汗をかいていないなと思ったし、高いところの空気を吸っていないなと思ったからです。

いつもの僕ならノイズキャンセリングイヤホンをして黙々と進むところを、あえてイヤホンをつけずに山登ったら、鳥の囀りと木々の囁きと進撃の巨人のネタバレが耳に入ってきました。山登りながら進撃の巨人の話をするんじゃないよ。

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どうということもなく山頂に着いたら小学生とかがいたのですが、昔僕も小学生だったな〜と思いました。
あんな小さかったのに、ご飯を食べて、よく学び、愛し、愛され、転んで、立ち上がってふりをしてまた途中で転んだりして、働いて、消耗し、立ち止まっている今の自分の人生、もはやだいぶ引き返せないところまで来たなと思いつつ、何度でもまたこの山に登ろうと思いました。山頂で食べた蕎麦は全く幅が揃ってなくてかなり愛おしかったのでみて。

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下山して、露天風呂に入り、ビールを流し込んだらいい感じに足元がおぼつかなくなって来たので、足元がおぼつかないなりに一歩ずつ歩いて電車に乗りました。

 

帰り、目覚めたら駅を寝過ごしていたんですが、目的地のことを忘れて眠るということを長い間していなかったことを思い出しました。僕はこの時、正真正銘ねむっていたと思います。

 

 

3/27(土)晴れ

朝から何もしてないことに気づき、急遽家にいた姉を召喚して一緒にロールキャベツを作りました。

みじんぎりの効率的なやり方、小さい鍋でキャベツを上手に茹でる方法、生パン粉とパン粉の違いについて、これが3年長く生きた姉の英知と言わんばかりの力説を受けました。

 

料理を作る時、姉が「姉弟でご飯を作るのが一番楽だよね。小さい頃から同じご飯を食べてるから、自分が一番美味しいと思う味付けをすれば、弟も一番美味しいと思ってくれるから。」と言っていたのが印象的でした。

ドラマ「カルテット」で「私たち同じシャンプー使ってるじゃないですか、家族じゃないけど、あそこはすずめちゃん(登場人物)の居場所だと思う」というかの有名なセリフがあるわけですが、「家族になる」って、身体の感覚や五感の快不快のセンサーが似ていく過程を指しているのかな、と思いました。今、僕と姉は、別々のシャンプーを使っています。

 

 

3/28(日)曇り時々雨

前にあげた『親密性の変容』で依存や執着に関する記述があった時に、「好きって気持ちと執着ってどう違うんだろうな」という消化されきれなかった問いが生まれたので、友だちと電話しました。

友だち曰く、「人が、一見似ている二つのものを区別したいときというのは往々にしてどちらかを悪と見なしていることが多いと思うけど、なんであなたが“執着”を悪いと思っているかを考えてみれば?」とのことで、この人が僕の人生の登場人物にいてくれてよかったなと思いました。友だち〜!見てる〜!?

 

そのあと、文筆家の塩谷舞さんの本を読みました。

社会出れば否応なしに、強い男性たちが中心になってつくってきたルールの中で生きることになる。ベンチャービジネスはスポーツだ、と言われるように、体力がなければやっていけない。もういっそのこと、募集要項に「パワーポイント、フォトショップなどのスキル」に並べて「健康な肉体、生理のない身体、徹夜続きでも折れない屈強な精神」と書いておいてくれよと、悔し涙を流していた。
(中略)
私はもう、背伸びをし、強者のふりをして働くのはやめた。自分の弱さを、ちゃんと許容した上で働くことに決めたのだ。弱くても強く生きられる。社会で生きるための「必勝法」にも、もっと多様性があればいい。

塩谷舞『ここじゃない世界に行きたかった』
価値のものさしは他者に委ねず、自分の五感に置いていくのはどうだろう。そうしていけば、舌が、肌が、耳が、心が、たくさんの感覚を取り戻していく。
自分で「ここからここまで」と決めこんでいた五感がひょいと拡張したならば、「あぁ、自分が生きていて、ちゃんと生き物だったんだ!」と至極あたりまえのことを、猛烈に思い出すに違いない。窮屈に耐え、すっかり閉じてしまった五感をふたたび拡張させてあげることが、これからのラグジュアリーなのだろう。

同上

先日、1ページ読むのにも時間がかかるような重い本を読むことの贅沢さに気づいたばかりで、それは一つの答えであるけれど、彼女の書く文章は、せせらぎのようにストレスがなく入ってくる一方で、さわやかな信念があって、軽くない。軽やかだけど、軽くない。読み手の心を流れていく過程で、気持ちを土台をなめらかにしてくれる。そんな文章がこの世に溢れるといいなと思いました。

 

もう23時か。

***

人生の主導権取り戻すチャレンジに完全に成功してしまいました。仕事との向き合い方という根本的な部分は依然として解決されていないけれども、少なくとも正気は取り戻した気がします。僕は、幸せになれる人間です。

 

そして、最後まで読んでくれた方、こんな長い記事を最後まで読んでくれているということは、きっとあなたも明日が怖かったり、戦いで疲れていたり、何かが欠けているのにそれが何かもわからないような日々を送っているのだろうと思います。これからどうしていこうかね。

 

せめて、あなたが今夜、自分だけのお守りの存在を思い出して、眠りにつけることを祈ります。僕もこの日々を思い出しながら、ねむります。おやすみなさい。