偉大なる参考文献集(学術書編)

 

はじめに

同性ふたり暮らし宣言」という、大きく出たタイトルのブログを読んでくださった皆様、誠にありがとうございました。

いただいたコメントなどもとても温かく、書いてよかったなあと改めて思っています。

 

この記事で言いたいことは、とにかく「僕たちには言葉が足りない」ということでした。

そしてまた、「言葉が足りない」という状況が単に私的な悩みではなく、それをすくい取る言語体系を社会が用意していないという意味で、既存の社会規範に接続する問題であるということも、最も書きたいことの一つでした。

 

いただいたコメントの中に「自分のモヤモヤを言語化してくれてありがとう」というものがありました。

僕個人としてはまだ、あの文章を書いただけで今の僕の気持ちや、社会の有り様を記述しきれたわけではないという心残りがありますし、ましてや既存の言語体系や社会規範から抜け出せたとも到底思っていません(し、むしろある側面においては既存の体制をさらに再生産してしまったというところも否定できません)。

しかしながら、僕が自分の気持ちを、暫定的にであれ文章にできるようになるまでのおよそ2年間のあいだに、それを書くのに必要だった言葉や考え方、知識や世界を教えてくれた数々の先人たちがいました。というか、僕の文章よりも、ずっとずっと精緻に言語化してくれている本が山ほどあり、僕はそのような巨人の肩に乗っかっているだけに過ぎません。

僕のブログを読んで共感してくれた方々こそ、きっとそのような言葉を必要としているのではないかと思い、一度振り返りも兼ねて、この期間のあいだに読んできたものの一部をまとめてみたいと思います。いわば先日のブログの参考文献集のようなものです(その割に引用などが雑ですみません)。

ここに載せている以外のもの、例えば別の本だったり、景色だったり、TLに流れてきた一文だったり、友人のふとした言葉だったりが、知らず知らずのうちに僕の世界を大きく広げてくれたこともあると大いに思いますが、手元にある文献だけの紹介になってしまうこと、お許しください。

 

今回は、学術書の話をします。

そして今回は学術書や新書に絞った紹介となります。
(他ジャンルのものはまた後日改めて・・・。
書いていてボリューム満点になり、力尽きました・・・。
気長にお待ちいただけると・・・。)

日常の生活が、学問と接続するというと少し不思議な気もする方もいるかと思いますが、何よりフェミニズムクィアスタディーズをはじめとする学問こそが、社会に存在する既存の権力を指摘し、それに抵抗する手がかりを多く残してくれています。

もちろん読むのに骨が折れるものも多くあり、これらに大きな抵抗なくトライしようと思えたという時点で、僕自身がある種の特権に恵まれていたことも事実です。

ただやはり、僕の世界を広げてくれたのは学問だったなという確信が捨てきれないので、こちらに記しておきます。
アカデミアで働くプロフェッショナルではない僕が果たしてこんなものを書いていいのかという葛藤もありましたが、学問は何もアカデミアに閉じたものではなく僕たち一人ひとりに力を与えてくれるものだと信じていますし、これが誰かにとっての参考になればと思っております。

(※頑張って向き合ってきたつもりではありますが、所々の理解が甘いところもあると思います。すみませんが、参考までにご覧ください。また、載せている文献のあらゆる部分に同意している訳ではありません。

※念のためにAmazonリンクを貼っておりますが、このリンクから飛んだからと言って僕にお金が入ってくるといったことはありません。)

 

セクシュアリティについて

森山至貴『LGBTを読みとく』

この後、セクシュアリティについての基礎知識を要する本が出てくるかと思いますが、僕はこの本を通して、その基礎知識を一通りインストールすることができたかなと思います。

基本的な「LGBT」なるものの適切な説明から、その歴史や現在地、そしてクィアスタディーズまで一貫してわかりやすく論じているとてもありがたい本です。

巻末には読書案内もついており、まずこの本から入るというので間違い無いのではとさえ思えるような一冊でした。

 

河口和也『クィアスタディーズ』

前の本を読んで、クィアスタディーズについてより詳しく知りたいと思い、こちらを読みました。「思考のフロンティア」というシリーズは、とても重要な学術テーマに関する内容を著名な学者がコンパクトにまとめてくださっているので、とてもオススメできます。

LGBTの運動の歴史もかなり詳しく書かれており、さらに考えを深めることができました。次に紹介するフーコーに関する著作との出会いになったのもこの本でした。

 

M・ハルプリン『聖フーコー』(村山敏勝訳)

とにかく大好きな本です。

フーコーは誰よりも、我々の日常や生の中に権力構造を見出し、それに抵抗してきた哲学者だったと思います。原著がこれまた難解なので初心者向けの解説書(僕は中山元『フーコー入門』を読みました)を読み、チャレンジしました。

フーコーは年代によって論じるテーマが(つながりながらも)かなり移り変わっていく学者だと思われるのですが、晩年の『性の歴史』という著作がクィア理論の中では特に引用される傾向にあると思います。

そこにおいて出てくる「自己への配慮」という倫理のあり方があり、この考え方が僕はとても好きでして、それは(ものすごく雑ですが、)社会の規範の中にありながら、それでもなお常に自分を変容させ、自分の生の様式を作り上げていく倫理のあり方というふうに理解しています。

そのような中で、フーコークィアアイデンティティに触れながら、以下のように述べます。

クィアー・アイデンティティはとはいえば、なにか実証的な真理とか確固とした現実とかに基づく必要は全くない。(中略)それは、規範に対して対立関係にあることによって意味を持つ。正常な、正統的な、支配的なものとぶつかるならなんでも、定義上クィアーである。クィアーは、なにか特定のものを指ししめすとは限らない。それは本質なきアイデンティティである。(中略)それが記述するのは、原理上、その正確な範囲と多様な広がりを、前もっては規定できないような可能性の地平なのである。(中略)権力と真理と欲望との関係を新たに構造化するさまざまな可能性を思い描くことが可能だとしたら、それはクィアーな主体が占めるこのエクセントリックな位置からだろう。

同書92-93ページより

フーコーは誰よりも権力に敏感であったからこそ、晩年においてそのような権力構造の中でいかに生きていくかを真摯に言葉にしてくれていたのだろうか・・・と(超勝手にですが)思うと、とても勇気が湧いてきます。

 

竹村和子『愛について』

何を隠そうこの本、僕がブログを書く直前に読んでいた本でして、とてつもない感銘を受けて筆を走らせていたので、一番影響を受けた本は何かと訊かれると真っ先にこれを挙げると思います。

社会の権力が日常の言語体系の中に埋め込まれており、それゆえに抵抗できるという話は、この本をはじめとするクィア理論の蓄積の受け売りといっても過言ではありません。クィア理論についてはジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』などが著名な文献とされていますが、竹村氏はそれらの著作の訳者としても名を馳せており、この方の世界への貢献は計り知れません。

本文の内容紹介として、裏表紙の紹介文を引用しておきます。

「わたしたちは集合的な物語─《言語》と呼ばれたり《法》と呼ばれるもの━と、まったくかけ離れた個別的な物語を語ることはできない」。セクシュアリティをはじめとし、私的領域の深奥に秘匿されてきた事柄を鋭く分析する本書は、境界を撹乱し、「語りえぬもの」に声を与える政治と倫理の新たな地平を切り拓いた。精緻な理論でフェミニズム批評を牽引しつづけた著者の代表作。

ただこちら、なんとなく紹介文を読んでも分かる通り、理解するのがかなり難解です。この本を正しく理解するために読まなければならない本がものすごい量あり、はじめての本としてこれを選ぶのはおそらく不適切な気もします。何を隠そう僕自身、理解しきれていない部分が多々あるので、その点でもよろしくないのですが、どうしても紹介したいと思った次第です。(理解できずとも、この本が紡ぐ言葉の連鎖に身を委ねるのはいい時間になります)

 

D・カメロン/D・クーリック『ことばとセクシュアリティ』(中村桃子/熊谷滋子/佐藤響子/クレア・マリィ訳)

こちらもとても影響を受けた本です。
セクシュアルマイノリティをめぐる運動の歴史や現在地を理解する上でもとても有益な本ですし、ことばや名付けと、セクシュアリティアイデンティティの関係性をとても丁寧に記述しています。

一部本文を引用します。

言語は、おそらく、人間が利用できるもっとも強力な定義的や表象的な媒体であり、セックスやセクシュアリティにかかわって私たちがしていること(そしてすべきこと)をどのように理解するのかを作り上げている。特定の時や場でセックスやセクシュアリティを表象するために利用する言語が、何が可能なことで、何が「正常」で、何が望ましいかという理解に大きな影響を及ぼしている。

同書38ページより

これまた分厚い本ですが、根気強く読み進めることで新しい見方が立ち上がってくるなと感じました。

 

 

家族・恋愛について

岩間暁子・大和礼子・田間泰子『問いからはじめる家族社会学

「近代家族」なる規範的な型がどのような形で作られてきたのかということを取り扱った概説書です。
(有斐閣ステゥディアもとてもわかりやすく示唆に富む入門書を多数出しているので、とても信頼しています。)

今の規範的な家族像は「愛」「性」「生殖」「生活保障」といった共通の特徴を持ち、なおかつそれらが国家の主導する政治イデオロギーおよび経済システムと結託しながら、社会的になおかつジェンダーにおいて非対称的に構築されてきたこと、そしてそれらが巧妙なレトリックや「愛」という概念を用いて「自然化」されてきたこと、そのような「近代家族」も、経済の停滞や社会システムの同様、科学技術の進展、さらには寿命の延長などでかなり限界がきていることなどが、色々なトピックにまたがって平易にまとめられていました。

 

特に救われたのが8章「個人・家族・親密性のゆくえ」でした。

そこでの議論においては、新たな親密な関係性、「親密圏」のあり方として「お互いに対する愛を基調とした民主的で対等な関係の男女カップルや夫婦」(ここに関してはギデンズ『親密圏の変容』が詳しいです)なども挙がってくるわけですが、異性間カップルや夫婦だけでなく、同性間のカップル/夫婦(日本ではまだ存在できないことになっていますが)、友人同士の共同体、自助グループなど、「家族ではない関係性」も「親密圏」の射程と捉えられる可能性も示唆されており、「親密圏」というタームが僕にとって非常に重要であるということに気づくきっかけにもなりました。

 

牟田和恵編『家族を超える社会学

こちらの本の狙いは以下です。引用します。

…現在そしてこれからの私たちの生きる基盤となりうる、新たなかたちの「家族」はいかなるものでありうるのかと、論を進めたい。自明とされてきた家族のすがた、つまり「一対一の男女の対の関係(とのその子ども)」という核家族的関係には閉じない、人々の新たなつながりから築きうる「家族」の可能性とはどのようなものか、と。

同書「序」ⅱページより

このような狙いのもとで前半に「近代家族」の構築のされ方とその限界に関する論が展開されたのち、後半は具体的に、シェアハウスで生活する人々、同性カップルステップファミリーなど、「近代家族」から漏れ出るが、しかし「親密圏」の新たな可能性になりうる関係性に焦点を当てて、それぞれの実際の暮らしが描かれていきます。

その中でいくつかメモしておきたい部分を引用します。

欧米の研究では、「(従来の)家族から」見放されたレズビアン/ゲイが友人ネットワークやコミュニティのなかで、家族の「代用」となる関係性を築いてきたことが指摘され、血のつながりや婚姻、場合によっては一対一に限らない親密関係が観察されている(Nardi 1992; Weinstock & Rothblum 1996)。血縁家族は、与えられた選択できない関係であるのに対し、友人ネットワークや同性パートナーとの関係は「選びとる家族」としてとらえられる(Weston 1991; Nardi 1992)。

同書153-154ページより

「選びとる家族」というのは近年"chosen family"という英表記で少しずつ知名度が上がってきた言葉だと思います。

我々には言葉が足りないという話をしていたかと思いますが、重要なのはそれが「日本語という言語の中において」ということです。多くの言語に共通してみられる権力はあるにせよ、他の言語に目を移すことで、自分の存在にしっくりくる言葉を見つけることができることもある、というのは、他言語を学ぶとても重要な側面だと思います。

 

齋藤純一『政治と複数性』

公共性や民主制に関する論文集で、基本的には、現在の権力体制や政治体制、新自由主義に基づく自己責任論、「確固たる自己」をもとにしたアイデンティティ政治などの問題点を明快に指摘していく構成ですが、第7章で「親密圏」に関する文章が出てきます。

齋藤氏は「親密圏」を「具体的な他者の生/生命──とくにその不安や困難──に対する関心/配慮を媒体とする、ある程度持続的な関係性を指すもの」だと定義しながら、「近代家族」中心主義を批判し、そうでない形の親密圏の意義やそこでのケアの重要性をとても流麗に書き記しています。

とりわけ好きな箇所を引用します。

結婚は、限られた性愛のかたちを正当化し、それに種々の特権・特典を与える制度である─言いかえれば、特権・特典を誘因として正常とされる親密圏のあり方を特定のものに限定する制度である━ことに変わりはない。近代の社会秩序は、その根幹の一つをなす家族秩序に制度的な限定を加えることを通じて、人びとの生━「ヰタ・セクスアリス」を当然含むがそれだけではない━のいわば無限の質的な異なりを狭隘な幅のなかに圧縮してきたと言える。

本書219ページ

 

第7章だけを読んでもある程度は理解できるのですが、それより前の数章(第1章や第5~6章など)にも目を通すことで、齋藤氏の議論においてなぜ「親密圏」が重要であるかをより理解することができるだろうと思いました。ここでの議論は最初にあげた竹村氏の『愛について』とも交差していきます。

ちなみに、齋藤氏の前半の議論については、齋藤氏の著した「思考のフロンティア」シリーズの『公共性』を読むことで、少し理解しやすくなると思いました。

 

現代思想 第49巻第10号「〈恋愛〉の現在」

現代社会における「恋愛」を取り巻く数多くのトピックについて、多くの研究者の方によって寄稿されている論文集です。比較的読みやすいものも多く、これまで「恋愛」にしっくりこなかった人がこれを読むと、きっとどこかに自分のことを見つけられるんじゃないかと希望を持てました。

特に目次「何が語られてこなかったか」に属する5つの論文は、既存の恋愛の言説では取りこぼされる「愛」のあり方を真摯に綴っており、個人的にとてもありがたかったです。

ぜひ目次だけでも見てみると、何か興味が湧いてくるのではないかと思いました。

 

A・ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ

上の『現代思想』において、従来の規範にとらわれない関係性を論じるにあたり頻繁にギデンズ氏の「純粋な関係性」が引用されていました。そこでその内実が気になり、引用元にあたってみました(一部しか読めていないのですが)。

「純粋な関係性」については文庫版であれば149ページから168ページにわたって論じられますが、無礼を承知で雑にまとめると、現代において、社会にあらかじめ敷かれたレールに乗ることができない非規範的な関係性(そして現代ではそのレールが綻びつつあるので、規範的だとされた関係性においても免れない)においては、人々を縛り付けておく外的な圧力が働きにくいゆえに、お互いがコミットメントを継続していくことではじめて関係性が続いていく、という話かなと理解しました。まさにそうだなと思い、たくさん引用されているのも頷けました。

ギデンズは社会の大きな枠組みの変容を捉えながら、それによってミクロな関係性がどのように変化していくのかということを他の著作も含め随所で論じているので、もう少し読んでみねばと改めて思っている次第です。

 

松村圭一郎/中川理/石井美保編『文化人類学の思考法』

文化人類学という学問の視点から様々なトピックを論じる本です。

文化人類学というのはおよそ、フィールドワークなどを通して「他者」を観察し記述する学問だとされますが、単に他者を規定して終わりという姿勢はむしろ不適切であって、「他者」を知ることを通じて自分自身を知り、そして自分の持っている「当たり前」や、そのような自分が生まれ育った社会の「当たり前」を問い直す姿勢こそが大切だと本書は述べます。
その意味で、文化人類学という営みは既存の社会に対する抵抗や変化の起点にもなり得るのではないかという姿勢が、この本では一貫して示されます。

そんな文脈の中で、第11章「親族と名前」(髙橋絵里香氏)では、「近代家族」の当たり前が問い直されていきます。一部引用します。

生きること、生活を続けていくことを支える行為を広義の「ケア」と呼ぶのだとすれば、ケアという行為もまた相手の身体に働きかけることで身体の状態そのものに干渉する実践である。それは誰かを家族へと包摂し、誰かを親戚だとみなし、誰かを他人として排除することにつながっている。つまり、ケアをつうじて人びとは親族という関係性を醸成しているのだ。

同書162ページ

血縁や婚姻などによって「家族である」のではなく、むしろケアをつうじて「家族になる」という考え方は、まさに近代家族の「当たり前」を問い直す上での重要な視点だと思います。

 

ケア規範について

村上靖彦『ケアとは何か』

そもそもケアってなんだろう?というところを考える上で、わかりやすく、なおかつ心に留めておきたい文がいくつもある本でした。

基本的には看護や福祉のシーンにおける「ケア」に絞って論を進めていますが、これらの話は僕たちの日常生活の中で、いかにして他者とともにあるか?いかにして「弱さ」とともにあるか?「弱さ」を抱えながら、いかにして生を肯定できるか?という問いに対しても大きなヒントを与えてくれています。

表紙裏の紹介文から抜粋して引用します。

やがて訪れる死や衰弱は、誰にも避けられない。自分や親しい人が苦境に立たされたとき、私たちは「独りでは生きていけない」と痛感する。ケアとは、そうした人間の弱さを前提とした上で、生を肯定し、支える営みである。

 

J・C・トロント/岡野八代『ケアするのは誰か?』(岡野八代訳)

ジェンダーや権力の構造の中でケアが不当に配分され、かつケアが社会において過小評価されている、という問題とその解決策を思索する上で、とても重要な本だと思います。

大きな社会の構造を捉えつつ、同時に僕たちが今からできることを探るという構成で、その接続の可能性に希望を持ちました。

市民としてわたしたちは、いかにケア活動は編成されるべきか、といった一般的な条件について決定する必要があります。すべてのひとがケアワークのすべてに従事する必要はありませんし、ケア活動のすべての詳細が政府によって組織化される必要もありません。しかしながら、ケアに関する責任を一般的にいかに配分するかは政治的な問題であり、政治を通じてわたしたちが応えるべき問題なのです。

同書41ページ

 

小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』

ジェンダーによって不当に配分されたケア規範を問い直し、すべての人々が模索していく(べき)「ケアの倫理」について、文学作品批評を通して接近していく本です。

様々な文献をたどりながら、「自律的で閉じた自己」ではなく「多孔的な自己」へと自分を開いていくこと、他者の感情と向き合っていく中で、わかった気にならず、わからないままにとどまっておける力(「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼ばれます)を持つことなど、非常に示唆に富むキーワードをいくつも提示してくれています。

例によって、心に留めたい一文を引用します。

他者をケアするとき、そこにはどうしてもルールや規範が介在する、あるいは介在してほしい、よけいな迷いは時間や労力をも増やしてしまうという気持ちが生まれる。人間が道徳規範に頼る根本的な原因は、言葉の創造性の欠如にあるのかもしれない。

同書117ページ

 

G・ペリー『男らしさの終焉』(小磯洋光訳)

ジェンダーの社会構造の中で、女性に不当に「ケア」が割り当てられている、というケア規範があるということを上で書きましたが、その規範の裏返しとして男性にもまた「男らしさ」の呪いがかけられている、ということを述べている本です。(男性に現時点で社会的な特権があるというのは、決して忘れてはならないと思いつつ。)

イギリス社会の例が多く出てくるので、固有名詞などが身近でなく少しわかりにくいところもありつつ、学術書というよりはエッセイに近いので、かなりスラスラと読めるものでした。(学術書というより、と言っていますが、「男性学」の一部とも言えるかもと思い、一旦ここに・・・。)

男性学の本は他にも少しずつ出てきていると思うのですが、僕がまだこの本しか読めておらず・・・。もう少し手を伸ばしてみねばとこれを書いていて痛感しております。

男らしさの終焉

 

 

おわりに

ハァ・・・、ハァ・・・。(息切れ)
こんなにもボリューミーな内容で・・・ここまでたどり着いたでしょうか・・・。

ここに挙げたもの以外にもとても重要な文献や勇気付けられた言葉は数え切れないほどありますし、もっというと、これまで挙げてきた文献もまた、それ以前にあった学問の蓄積の上に成り立っているのだと思います。

全てピックアップすることはできませんが、長い長い歴史の中で、多くの戦いや抵抗があったことはこれからも決して忘れないようにしたいです。

もしも皆様のオススメの本や、僕の記述の中での誤りなどがあれば、ぜひコメントなどで教えていただけると幸いです。

 

全ての先人たちに心からの愛と敬意と感謝をこめて、結びといたします。