「おっさんずラブ」卒業論文 ──「リターンズ」における同性カップルの描き方

0. はじめに

0-1. おっさんずラブリターンズの最終回に添えて

おっさんずラブリターンズ」が一週間のテンポを刻んでいた2ヶ月間が終わりを迎えた。金曜日、放送開始の5分前に慌ててお風呂から上がり、急いで体を拭いてスキンケアを雑に済ませていたあの時間が、やけに愛おしく思える。

この2ヶ月間、最新話を見ていない時間は全て、最新話を待っている時間と呼ぶことができた。何かが生活のテンポを刻むとは、そういうことである。

思えば、2018年のドラマ放送時も同じだった。若かりし同性愛者であった僕にこのドラマは、男同士が恋愛することは変ではなく、尊重されるべき愛のうちのひとつなのだと教えてくれた。このドラマがなかったら、自分のセクシュアリティを受け入れることもずいぶん遅れてしまっていたと思う。春田がみんなにとって太陽であるように、おっさんずラブという作品が僕にとっては太陽だった。

 

それから6年の月日を経て、「おっさんずラブ」が「リターンズ」として帰って来た。

春田も牧もあの頃の笑顔のままで、牧が「ただいま」と言った瞬間、世界が輝いて見えた。作中なんども笑ったし、共感したし、春田と牧が笑っていればそれだけでよかった。シーズン1であんなに自分の気持ちを殺していた牧が、自分の気持ちを大事にできるようになった姿が嬉しかったし、おっさんずラブ特有のスピード感で進んでいく1時間は、他では代えの効かない時間だった。ファンにとって、終わったと思っていたこのドラマが帰ってきたこと自体が、何よりのご褒美だったということは間違いないと思う。

 

ところがどうだろう、いつの日からかドラマを見るうちに、自分の中に引っかかる部分が見え始め、それは払拭されるどころか回を追うごとにますます自分には受け入れられないものだと感じられるようになった。次の話こそは、次の話こそは、とすがる気持ちも虚しく、最終回を迎えてもなお、その引っかかりは到底解消されるものではなかった。

ドラマのことは好きなはずなのに、見ている時間はどこか苦しくて、自分の大切なものを粗末にされているように思えることすらあった。あんなにも待ち遠しかったものを、何も考えずに抱きしめられなくなったのはなぜだろう。

その苦しさは、このドラマの制作陣の同性カップルを描く姿勢に由来するものだった。そしてその姿勢はときに、大好きな役者の口から発せられるセリフの形をとって僕の耳に響いてきたのである。

 

0-2. この文章の目的と検討内容

おっさんずラブはずっと僕の中で特別だ、けれどもう、おっさんずラブを好きだと言うには、あまりにも僕と制作陣の思想がかけ離れてしまったのだと思う。もし仮におっさんずラブがまた帰ってきたとしても、心から楽しみだと思えるか怪しい。またモヤモヤしまうのではないかという気持ちの方がおそらく勝ってしまう気がする。

この気持ちは「卒業」に近い。自分の生活のテンポを刻み、大切なことを教えてくれた場所を、名残惜しくも後にする気持ち。けれど、少なくとも制作陣のスタンスが変わらないうちは、この場所はもう僕がいてもいい場所とはどうしても思えないのである。

 

とした時に、最後に自分の思考を書き記しておきたいと思った。リターンズのどの部分が問題だったのか、その問題の背景はなんだったのか、2018年のドラマで感じたあの暖かな世界はどこに行ってしまったのか。言うなれば、「卒業論文」である。苦しかった部分の輪郭を明らかにして線を引くことができれば、好きだった部分を美しいままに守ることができると思った。もうファンだと言うことは難しいけれど、好きだったものを好きなままにしておくことが、昔の自分に対する供養だと思うし、おっさんずラブに対する感謝を示すことだと思うのである。

(もちろん、以下から述べていく感想以外にも、このドラマを見てポジネガ含むたくさんの感想を持ったのですが、ここではこのドラマの制作陣の同性カップルを描く姿勢について言及します。)

 

0-3. おっさんずラブを知らない人に向けて

おっさんずラブは、田中圭演じる春田創一と、林遣都演じる牧凌太、そして吉田鋼太郎演じる黒澤部長の三角関係をメインに据えながら、個性豊かな周りの人々を描くラブストーリー。

2016年のオリジナルドラマを経て、2018年に上記の俳優陣で連続ドラマ化をされブームを巻き起こした。2019年には劇場版が公開され、同年に、田中圭吉田鋼太郎を起用してパラレルワールドを舞台にした連続ドラマ「おっさんずラブ in the sky」が放送。2024年に満を辞して上記の俳優陣が再集結し、「おっさんずラブリターンズ」が放送された。

 

 

※以下、論文という設定をいいことに、なんだか堅くて、長ったらしい、偉そうな内容に見えるかもしれませんが、ご容赦ください。

 

目次

 

 

1.「おっさんずラブ」の同性カップルを描くスタンス

何が問題だと感じられたかに言及する前に、まず「おっさんずラブ」がどのようなスタンスで同性カップルを描いているかを概観してみたい。

 

1-1. 同性カップルを描くスタイルの整理

一般論としてなんらかの作品における同性カップルの描き方を大きく二つに分けると「同化」志向と「差異化」志向だと言える*。「同化」というのは、同性カップルと異性カップルを同じように描くスタイルであり、一方で「差異化」は、同性カップルが抱える事情が異性カップルのそれとは異なるものであると描くスタイルである。

どちらかだけの描き方というのはなく、この2つを両極においたグラデーションの中に、さまざまなドラマがプロットされていくわけだが、比較するとおっさんずラブは「同化」志向のドラマだということが言えるのではないだろうか。

おっさんずラブの相対的な立ち位置を俯瞰するために、国内の男性同士のカップルを描いたドラマをこの両極においてみたものがこちら。(それぞれ出自が違うため横並びにするのも乱暴な部分があるのですがご了承ください。)

左(同化)から順番に ・消えた初恋(2021) ・30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい(2020) ・おっさんずラブ(2018) ・あすなろ白書(1993) ・逃げるは恥だが役に立つ(2016, 2021) ・おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!(2024) ・隣の家族は青く見える(2018) ・きのう何食べた?(2019, 2023) ・同窓会(1993)

※すべて僕が視聴しての印象に基づくものです。 ※最後にそれぞれの立ち位置の理由も説明しているので、気になる方はご覧ください。 (ネタバレを含むため注意)

*注:「同化」↔︎「差異化」という整理については、『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』に収録されているハン・トンヒョン氏の論考「「社会的な望ましさ」をめぐるコミュニケーションとしてのPC」の整理に着想を得ました。元の論考では、差別の水準を整理するための整理として用いられているので、言葉の意味や使い方についてはこの記事内と異なる点にご注意ください。同化と差異化もそれぞれ別の形で差別につながる点については本論でも多少触れています。(すごく良い論考なのでぜひご覧ください)

 

1-2. 「おっさんずラブ」のスタンス

例えばおっさんずラブ(2018)では、職場での出会いから始まり、同性愛は異性愛と同じく恋愛のひとつの形であるというメッセージも多くちりばめられていた。牧がおそらくゲイを自認している点や、カミングアウトの難しさなどにも触れている点で完全に同じものとして描いているわけではないのだが、田中圭のインタビューでもあった「春田はゲイじゃない。ただ、相手が“牧だから”好きになったんです」という言葉を見ても、同性愛というよりも人間愛として描く傾向が見て取れるだろう。

また脚本家の徳尾氏もインタビューにおいて以下のように語っている。

「男性同士で恋愛するときにこういうシチュエーションが萌えるんじゃないか?」というよりは、男女の恋愛と同じく“恋愛ドラマを真っ直ぐに描く”ということが出発点でした。少女マンガ的な表現を“おっさん”が全力でやっているというところに、面白さを感じてもらえているのかなと。

(中略)

あくまで純粋に“恋愛”を描きたかったというのがスタート。でも、同性同士の恋愛を描く際に、LGBTの悩みや葛藤の中にコメディを入れることで、意図せず見ている方を傷つけてしまう可能性があるので、それはしたくないと。

なので、人と人が真っ直ぐ恋愛に向き合うことを主眼に置きました。

(中略)

最初のほうは「これをやったらマズイかな?」と悩んだこともありましたが、あるときから「同性同士だから面白い…とかでは全くなく、少女漫画的な表現に“おっさん”が真摯に取り組んでいるところが面白いんだ!」と気づきました。」

 

そこからさらに同化志向が加速していると思われるのが、おっさんずラブリターンズ(2024)である。「家族」になった二人を描いていく本作では、(法律婚はできないという言及がありつつも)「結婚」や「嫁姑」という言葉がとくに明確な定義なく使われ、同居や結婚式の場面でも、とくに同性だからという障壁が明確に描かれることなく進行していく。

劇中で春田や牧が悩みを抱えるシーンは多く出てくるのだが、それは同性同士のカップルだからというよりも、片方が家事をやらない、片方が仕事で多忙、義親の介護、価値観の相違によるマリッジブルー、嫁姑問題など、むしろ異性間の夫婦の悩みとしてこれまで挙げられがちだった内容が描かれている。

つまり「おっさんずラブ」シリーズは一貫して、男性カップル特有の問題や環境にはさほど焦点を当てず、むしろ異性カップルと近い描き方をされている点が特徴だと言える。

 

1-3. 過渡期における多様な描き方

重要なのは、この位置にプロットされるから即ダメだ、ということではないということだ。同化の描き方は、同性愛がおかしなものではないということを一般観衆に「わかりやすく」伝える上では一定の効果があるし(わかりやすさが正義とは言いませんが)、そもそも異性カップルが経験することは同性カップルが経験しないというわけではないので、その描き方が一定程度入ってくるのはある種当然でもある。また、差異化は現状の課題を正確に理解してもらう上で現実に誠実な描き方をしていると評価することができる。

すなわち未だ過渡期であり、差別の残る現状においてそれぞれの描き方があってよいわけだが、いずれの方向性でも気をつけるべきことがある点は考慮されなければならないだろう。例えば同化的に描く際は、現実の課題を「あまりにも」おざなりにしていないかに気を配る必要があるし、かたや差異化では、偏見を強める描き方をしたり、同性愛を禁断のものとして必要以上にアンダーグラウンドに描いてしまったり、やたらとバッドエンドに終わらせることは避ける必要がある。

一つの作品でも同化・差異化どちらの描き方も含むことがほとんどであり、明確な問題のボーダーも定めにくいのだが、それぞれの作品の志向性に応じて描き方のバランスを取っていく必要があり、それをコントロールするのが公共の放送物としての最低限のラインであると思っている。

 

そんな中でおっさんずラブリターンズは、「同化」の描き方において、踏み越えてはいけない一線を超えてしまった場面がいくつか見られたような気がしてならない。ここでは、2点挙げてみたい。

 

2. 「おっさんずラブリターンズ」が抱えていた問題点

2-1. 「結婚」「嫁姑」などの言葉の使い方

まずは、先に挙げた「結婚」「嫁姑」という言葉遣いである。ドラマ内では何度も結婚という言葉が出てくるが、法的な結婚ができないという設定の中で、この「結婚」が何を意味するのかは判然としないまま終わっている。

当然、個々のカップルによって結婚が何を意味するかは違っていていいのだが、とりわけ法的な結婚ができない状況においてはプロット上説明があってしかるべきだと思うし、法的な結婚ができないかつそれを望む人の動きが可視化されている現代において「結婚」という言葉を無邪気に使うこと自体、ある種無神経に見えてしまったことが否めないだろう。

 

また、それに乗っかる形で牧と黒澤の関係性が「嫁姑」という言葉で表現されていたことも指摘できる。牧と春田は男同士のふうふであり、本来はどちらも「夫」になるのだが、お互いの家事に口を出す関係性として「嫁姑」という比喩が使われている。

あくまで表現でしかないという点はあれども、同性カップルがこのような形で異性婚の文脈に回収されるのは「どちらかが男(役)でどちらかが女(役)」という旧来的な偏見の再生産にもつながりかねない点で注意が必要だったと感じる。
(本筋から外れるが、ふうふにおいて家事を主に担う方を安易に「嫁」とする点も、今の社会認識からすると問題含みだと言えるだろう)

 

結婚、嫁姑、いずれもただの言葉遣いであるものの、おっさんずラブはこれらの異性婚由来の概念を利用することで春田と牧の関係性を異性カップルのように描いている。

作中でも、異性カップルのような「制度としての結婚」はできないのだが、(その代わりに)異性カップルをとりまく「カルチャーとしての結婚」概念を当てはめることで、春田と牧は異性婚の夫婦に同化しているとも言え、それが同性カップル特有の課題や特徴を見えにくくする作用をもたらしている側面が否定できない。

 

※先述の通り、「この言葉を使ったら即ダメ」と批判したい意図はありません。2-2の内容も勘案したとき、「結婚」「嫁姑」という言葉遣いが制作陣のスタンスのいち現れだと僕自身で判断をしたため、上記の指摘を書くに至っています。

 

2-2. 法的保障における課題を軽視するセリフ

その作用が最も端的に表れていたのが、法的保障における課題を軽視するセリフである。春田と牧の結婚式にあたって、自身もゲイである武川部長は以下のセリフを述べている。

春田「俺たち(男同士)の場合、婚姻届を出すとか、そういうものがあるわけじゃないんで」
武川「そうだな。ただ世間一般の夫婦のように法的な根拠があったとしても、その愛が永遠に保証されるわけじゃない。お前たちのように仲間の祝福を受けるだけでも、俺は十分だと思う。」

おっさんずラブリターンズ 第6話より

このセリフを聞いた時、思わず「ああ……」と声が出た。先述の言葉遣いからなんとなく感じられていた制作陣のスタンスが、明確にセリフの形をとって届いてきたからである。異性カップルに同化することによって生じる、同性カップル特有の課題が不可視化される危うさが、明確に露呈した瞬間だった。春田と牧を祝いたいのに、このセリフの後でどうしても心から祝えない自分がいて、それが悔しかった。

法的な結婚ができない中で、結婚式に意味を見出す人の気持ちはわかるし、それを祝福したい人の気持ちも決して否定されるべきものではない。ただ「結婚式で祝福されるだけでも十分だと思う」という言葉を脚本に入れてしまえること、それが結局最後まで回収されなかったことに強烈な違和感を感じる。

結婚は永遠に愛を保証するものではなく、その関係を法的に保障することが第一であり、「愛があればなんでも解決できる」わけではないからこそ結婚制度が必要なのである。(武川の論理でいくと、そもそも異性カップルにも結婚制度は必要ないとさえ反論できるだろう)

 

ここ数年、同性婚/法的保障を求める動きはニュースでも頻繁に見られているし、裁判を起こした事例や結果も複数報道されているなど一般の人でも情報に触れる機会が多い中、同性カップルを描くテレビドラマの制作陣がこれらの情報に触れていないとは考えられない。にもかかわらずこのようなセリフを出すということに、昨今の法的保障を求める動きに対するカウンターの意図を感じてしまうし、その意味でこれは十分に政治的な主張であるといえる。

 

加えて、ここまで露骨ではないにせよ、第2話でも、夫との離婚経験のあるちずと春田の間で以下のやりとりが見られる。

春田「俺たちの場合さ、届出したわけでも結婚式したわけでもないからさ、考えるとフワッとしてんだよね」

ちず「まあ法的な根拠はないもんね でもさ、そういうのちゃんとやってても、別れるときは別れっから」

 

おっさんずラブリターンズ 第2話より

 

そして最終話の終盤、春田と牧によっても以下のやりとりが口にされる。

春田「あれから俺たちさ、ちょっとは家族らしくなったのかな」

牧「どうなったら家族って言えるんですかね」

春田「法律で証明されるとか、結婚式するとか、長い間一緒に暮らすとか、いろいろあるけど」

牧「でも、離れて暮らしてても仲のいい家族もいるし、近くにいても別れて家族じゃなくなる人もいるし」

春田「まあ、いろんな形があってさ、いろんな正解があるんだろうね」

 

これらに対する反論や、同性カップルの法的保障を求める別の登場人物が見られなかったことから、これがこのドラマの姿勢だと読み取ることができるわけだ。

法的な保障があるカップルも、法的な保障がないカップルも、みんな違ってみんないいという主張は、本人たちの意識としてはそうなのだろうし、この考え自体を否定することはできない。ただ、本当に「みんな違ってみんないい」のならば、なぜ法的な保障に値するカップルと法的な保障に値しないカップルを分ける制度が未だに存在しているのか。みんな違ってみんないいとフラットに言ってしまうには、まだまだ社会は不平等すぎる。

 

2-3. SNSで見られた反論

SNSを見ていても武川部長のセリフに対する意見は様々で、当事者ではない人も含めてこのセリフはよくないのではという提起がかなりの数なされていた一方、このセリフに対する批判に対してさらに批判を返す視聴者も一定数見られた。

一部にはなるが、そこで見られた批判の文脈に対する私見を書いておきたい。

 

■フィクションだからいいじゃん:

とりわけおっさんずラブのように現代日本をテーマにした作品である場合、現実社会とフィクションを完全に切り離すことは難しいと感じます。おっさんずラブを好きな人ならばよほど、フィクション作品が現実社会に及ぼす影響を知っているはずで、シーズン1が放送されたことが同性カップルに対するイメージを変えてくれたことをぜひ思い出して欲しいです。

■当事者のためだけのドラマではない:

おっしゃる通りおっさんずラブは当事者のためだけのドラマではありません。ただ間違いなく言えるのは、このドラマは当事者を扱ったドラマであるということです。当事者を扱ったドラマにおいて、それが不適切に描かれていると反論することは何も間違っていないと思います。(もちろん誰が反論したっていい)

■現実の課題を入れると面白くなくなる:

これはともすると「面白さのためであれば、現実の課題は無視してもいい」と受け取れます。本当にそう思っていますか。もちろんドラマの面白さは大事ですが、上記で挙げた問題点をこの作品から取ったら面白くすることができない、とは僕は思いません。

■批判するなら見なければいい:

ある作品を見るか見ないかを他人が決めることはできないという前提に立ちつつ、人は好きな作品に問題を見つけたらすぐにその作品を見るのをやめるのでしょうか。何か間違っていれば少しでも改善されるといいなと批判することは、何も不思議なことではないと思います。

■武川さんは元々少し不思議なキャラクターであるからそれを考慮したほうがいい:

これはドラマに対する批評として重要な指摘だと感じました。すべてのセリフは文脈に基づくので、それを吟味する必要はあると思います。ただし一方で、武川さんの言動が全て間違っていたかというそうではないため、この反論に基づくと、武川さんのセリフが不適切なものだったかどうかは、受け手の解釈に委ねられるということになります。そうなると、このセリフが不適切だという意見が「それはあなたの解釈ですよね」という個人の感じ方の問題にすり替わってしまい、議論が平行線を辿ってしまう懸念が生じると考えます。(また武川さんのセリフ以外にも似たようなセリフがあったので、ドラマへの批判は成立すると感じます。)

 

3. おっさんずラブリターンズで問題が生じた背景整理

今回のおっさんずラブリターンズで見られた問題が生まれた背景を考える上では、一線を超えた問題が見られなかったと言われる「おっさんずラブ(2018)」と比較することがヒントになると思われる。

単に2018年から時間が経ち、社会の変化に伴って視聴者の意識が高まったから問題視されるようになったという背景もあるだろうが、これまで挙げてきた理論を振り返った時に、2018年版とリターンズでは異なる事情が見えてくる。

 

3-1. 4象限でのプロットと現状整理

先ほど、同化と差異化という軸で男性カップルを描いたドラマをプロットしたが、もう一つ別の縦軸、「恋愛(付き合うまで)を描く↔︎家族・パートナーシップまで描く」を足してみると、以下のようになる。

■同化×家族・パートナーシップまで描く ・おっさんずラブ リターンズ(2024)  ■同化×恋愛(付き合うまで)を描く ・消えた初恋(2021) ・30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい(2020) ・おっさんずラブ(2018) ・あすなろ白書(1993)  ■差異化×家族・パートナーシップまで描く ・きのう何食べた?(2019, 2023) ・隣の家族は青く見える(2018) ・逃げるは恥だが役に立つ新春スペシャル(2021) ・30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい 劇場版(2022)  (中間) ・おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!(2024) ・同窓会(1993)  ■差異化×恋愛(付き合うまで)を描く ・逃げるは恥だが役に立つ(2016)

 

ひとくちに同化的な描き方をするドラマと言っても、BL実写化ブームの後押しも受けて増加したと思われる左下の象限に対して、家族まで描いた左上の象限に該当するドラマはほとんどなく、僕が知る限りではおっさんずラブリターンズが初めてであった。

逆に家族までを描いたドラマは、差異化的な描き方をした右上の象限に集中している。このように、恋愛までを描く場合は同化的に、その後の関係性を描く場合は差異化的にという傾向が見られるわけで、その要因はそのドラマの出自を含めて複数あると思うが、一般的に同性「カップル」が直面する困難というのが、婚姻制度の不平等に伴う病院立会い・相続や、周囲からの関係認知などだとすると右上に集まるのは理解できる。

逆に恋愛においては、本来は出会いの困難や「恋愛市場」の性質の違いがあり、その点は差異化的に描かれてもいいはずなのだが、とりわけ日本でのドラマは左側に集中しているのが現状だと言えるだろう(もちろん同性を好きになることの葛藤などもある程度描かれているのでひとまとめに批判できないのですが、とりわけBLを取り巻くその手の議論はBL批評で長らく議論されているので、そちらをご参照ください)。

 

3-2. 4象限における「おっさんずラブ」シリーズの位置づけ変容

この図においておっさんずラブ(2018)も左下の1つとして位置付けられるわけだが、リターンズになるとそれが左上に転じており、このシフトが冒頭で述べた問題の構造に関連しているのではないかというのが僕の考えになる。以下少し紐解いていきたい。

 

結婚と恋愛という縦軸は繋がっているように見えるが、現実的に考えるとその二つは違うもので、誤解を恐れずにいうと結婚は法的・政治的な制度を必要とするものであり、恋愛はそうではない(よくよく考えると恋愛も法的・政治的な制度の中の一部なのだろうが、その度合いが弱い)。そして、同性カップルを同化的に描こうとするときにも、この2つの違いがクリティカルに影響してくる。

恋愛面においては、もちろん同性カップルゆえの現実的な問題あれども現状恋愛ができないわけではないし、同化的に描くことによって同性カップルに対する偏見を払拭する一助になる効果もある。現におっさんずラブが2018年に社会現象になったことで、同性カップルはおかしなことではないというイメージに繋がったことも過小評価すべきではないと思う。(僕も救われました)

一方で家族まで描くとなると、現代社会を舞台とするならば、大前提として結婚ができずそれに伴う不利益が厳然と存在することは避けて通れない。イメージではどうしようもない不均衡がそこにはある。
つまり、同化しようにも同化できない社会的制約があり、その制約をぼかして描くことは、現にその制約に苦しんでいたり、その制約を取り払おうと活動している人にとっては不誠実だと映る可能性は高い。

前述した「制度としての結婚」には着目せずに「カルチャーとしての結婚」を当てはめるリターンズの描き方はその意味において問題含みであり、その延長線上に「法的保障がなくても十分」というセリフが生まれたのだとすると、それは一線を超えたものだと言える。

 

まとめると、同化傾向を維持しながら(むしろ強めながら)、恋愛から家族へテーマをシフトさせたことが、今回のリターンズが置かれた状況であり、この状況は細心の注意を払わなければ問題が起きやすい環境だったと言えるのではないかということだ。結果として、そこでいくつかの引っ掛かりが生まれてしまった。

 

3-3. 払われるべきだった注意の例

では同性カップルの家族像を描くドラマは同化的に絶対に描けないかというと、おそらくそうではない。

今回のリターンズも、結婚という言葉の意味を明確にした上でフラットに描くことはできたはずだし、武川やちずのセリフをなくすだけでも視聴者の印象は変わってくるような気もする。その結果、同性同士の家族もおかしなことではないというイメージが伝われば、第1弾同様に現実に対してもポジティブな影響が生まれた可能性すらある。(現時点でも一定あると思うのですが)

 

そのほか、例えば現代社会を舞台にせず、同性婚ができる世界線を舞台にすると割り切るだとか、フラットに描きつつも現実社会においては同性婚法制化のためのアクションを行うなどのバランスの取り方もありうる。

また監修をつければいいということではないにせよ、最低限のラインを担保する上では監修の役割は大きいだろう。おっさんずラブでは監修が入っている様子が見られないが、もしも本当に入っていないのだとしたら、今回指摘した2点については監修によって防げた見込みは大きいのではないかと思われる。

 

3-4. 「おっさんずラブ」とは異なる変容をした「チェリまほ」

また最後に、左下の象限から始まったが、続編でおっさんずラブとは別のアプローチをとった参考事例として、「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい(以下「チェリまほ」)」に触れておきたい。

 

※以下ストーリーのネタバレを含みますので、読みたくない方は最後の章までスキップください。

 

「チェリまほ」は、触れた人の心が読めるという設定の主人公と、その主人公に恋愛感情を抱く職場という男性同士の恋愛を描いた物語である。

設定上のファンタジー的要素を生かしつつ、2020年の連続ドラマではとりわけ同性における恋愛の困難などのシリアスな描写を避け、二人が付き合うまでを描くラブコメディの様相を呈していたが、2022年の劇場版では少し描き方に変化が見られた。

劇場版でも世界観自体は変わらないのだが、例えば付き合っているのに周りに知られていないから病院に駆けつけるのが遅くなる、互いの両親へのカミングアウトの難しさを描く(かなりシリアスなトーンで描かれている)など、同性カップル特有の困難を描くようにシフトしていた。

つまり図でいくと左下から右上へのシフトということで、付き合った後直面する困難を描いているという意味ではリアルなのだが、ファンの中では賛否が分かれ、急にLGBT啓発のようになった、急にシリアスになったと戸惑う感想も少なくなかった。
劇場版は、原作者から売り上げの一部をMarriage For Allへ寄付する旨も発信されるなど、同性カップルが付き合う中で直面する課題を描き、それに対してアクションまで行う姿勢を示している点で稀有な作品だと評価できるものだが、ドラマ版との連続性という意味で作品としての”魅力”を損ねたことへの不満も見られているわけである。

 

こう書くと「世界観」を愛するファンと、「リアリティ」を描く作品の間で対立があるように一見見えるが、そもそもそれを二者択一のトレードオフのものだと前提とすること自体がミスリーディングであろう。

世界観のためであれば当事者の課題を軽視していいというのはあまりにナイーブではないかと思うし、リアリティを出しながらもいち作品として世界観を守ることは制作陣の力量が試される部分であって、だからこそそのバランスの取れた作品が賞賛されるわけである。

ここまでの議論を「左下の象限から始まった作品が、付き合って以降の続編においていかに①作品としての一貫性を保ちながら②同性カップルの描き方を変容させるか」という問いに収束させるとすると、おっさんずラブは②での社会の変化に合わせて描き方・台詞をチューニングできず、チェリまほは①での作品として一貫性の受け止められ方について不満が見られたとまとめられるだろう。

 

4. 終わりに 

ここまで、おっさんずラブが同化傾向で描かれており、その中でリターンズは一線を超えた描写をしてしまったこと、それが2018年版とは違う状況において発生してしまったことを述べてきた。

 

なんだか偉そうに述べてきていますが、この記事を執筆している間ずっとリターンズ主題歌の「Lovin' Song」のInstrumental ver.を聴いており、あり得ないほど情緒がめちゃくちゃになっています。

おっさんずラブに対する批判を連ねながらも、同時に救われた記憶が蘇ってくるようなこの寂しい時間をなんという言葉で表現できるのか、それすらわからない。ただ僕はもうおっさんずラブを好きだと胸を張って言えないという確かな感触だけはあり、その確かさがやけに切なく思える。ドラマのセリフにモヤモヤしたかと思えば、春田と牧が愛し合うシーンを見て満足したような気分になってしまう自分のことも、あまり好きではない。

 

春田、牧。二人はテレビで「同性婚は認められない」というニュースを見ている時、どんな言葉を交わすのだろう。一生一緒にいてほしいと願い合う二人が、万が一どちらかの最期に病院での面会を断られてしまったとしたら、どんな気持ちがするのだろう。考えたくもないが、将来のことを考えて貯蓄しつづけた遺産が相続できなくなったら、どんなことを思うのだろう。

大好きな二人の幸せを願うからこそ、同性婚ができないのにその重要性を軽視するような世界観の中で生きる二人を見るのが辛かった。元をただせば不平等な社会が元凶であるし、全ての課題を描けとも、全てに忠実にしろとも思わない。けれど、課題に苦しんでいる/苦しむであろう人がいること、課題解決に向けて闘っている人がいることを軽んじる姿勢にはもう、付いていくことはどうしてもできない。

 

これから、不平等な世界が変わるのが先なのか、おっさんずラブのスタンスが変わるのが先なのかはわからない。

ただ願うのは、春田と牧が、同性同士だからと何かを諦めずに幸せな未来を描ける世界であり、それに寄り添うドラマの世界観である。いつかまた、そんな世界線の「おっさんずラブ」の続編を見たい。何も考えずにファンだと言える日が来たら、その時はまた、春田と牧のいいところを10個どころか1000個書き連ねたブログを投稿させてください。

 

補足①:坂口涼太郎氏のツイート

最終回に出演した坂口涼太郎氏のツイートでは、法的保障について言及をしてくださっています。これがあるからOKということでは全くないのですが、出演者の側からこのような発信をしてくれることの意義はとても大きいと思います。

 

補足②:女性同士のカップルを描いた国内ドラマについて

改めてこの記事を書いていて感じたのが、女性同士のカップルを描いた国内ドラマが、男子同士のものに比べてごく少数ということでした。すでに男性同士でこのような数作品が作られていることの非対称性も忘れてはなりません。

 

補足③:男性同士のカップルを描いた作品のプロット理由

先に載せた各ドラマのプロット図について、おっさんずラブを除く各ドラマのプロット理由を参考までに記載する。

※ネタバレを含むので興味がある方はご覧ください。

 

左(同化)から順番に ・消えた初恋(2021) ・30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい(2020) ・あすなろ白書(1993) ・逃げるは恥だが役に立つ(2016, 2021) ・おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!(2024) ・隣の家族は青く見える(2018) ・きのう何食べた?(2019, 2023) ・同窓会(1993)

 

(図の左「同化」から順に)

・消えた初恋(2021):

クラスで出会った二人のピュアな恋愛を描いたドラマ。途中ホモフォビックな登場人物が出てくるシーンはあるが、セクシュアリティに触れるシーンはほとんどなく、基本的に周りの友人も好意的な点が特徴。

・30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい(2020):

職場の同期同士の恋愛を描いたドラマ。基本的に露骨なホモフォビア描写は少なく、フラットに描かれるが、「ゲイ」を自認する登場人物も出てくる。

あすなろ白書(1993):

1990年代のゲイ・ブームの中で生まれた月9ドラマ。メインプロットではないが、主人公の男性に片想いする同級生が出てくる。同性愛=隠すべきことという圧力がまだまだ強い時代であり、結末も悲惨なものだが、周りの友人の反応は好意的であり、描き方としても恋愛の形の1つという描かれ方をしているため、中間寄りにプロット。

逃げるは恥だが役に立つ(2016, 2021):

ゲイを自認する二人が付き合うまでのストーリーがサブ的に展開される。露骨なホモフォビック描写はなく他のカップルと同じようにフラットに描かれているが、出会い方がゲイアプリ経由である点が特徴的。また続編では「同性カップルは死に目にも立会いが難しい」などの課題にも言及しており、同性カップル特有の社会環境も触れられている。

・おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!(2024):

出会い方も学校での一目惚れであり、カミングアウト時の同級生の反応などもフラットに描かれているが、親へのカミングアウトの難しさやアウティングなどの現実の障壁も具体的に描かれており、差異化にプロット。

・隣の家族は青く見える(2018):

メインの家族4世帯のうち、1つがゲイカップル。ドラマ全体ではフラットに描きながらも、アウティングや、親への紹介の難しさ、差別的言動など現実における障壁を描くとともに、最終的にパートナーシップ宣言を行う点が他に類を見ないドラマとなっており、異性カップルとの違いを明確に描いている。

きのう何食べた?(2019, 2023):

中年のゲイカップルを描いたドラマ。二丁目での出会いのほか、親への紹介の難しさ、差別的言動など現実における障壁を描くとともに、養子縁組での法的保障、同性婚とパートナーシップの違いまで言及するなど、同性カップルを取り巻く特有の社会環境を描くレベルが極めて高い。

・同窓会(1993):1990年代のゲイ・ブームの中で生まれた火10ドラマ。放送当時の世相を反映し、男性同士の恋愛=アンダーグラウント/禁断のものと描く度合いが強い。差別的な言動に加えて二丁目の描写や性愛描写が多く、当時の二丁目界隈のリアリティを目指したように見える。(僕自身は当時を知らないのですが、当事者からの人気も高かったらしい。)