【メンバーへの手紙付き】外の世界から、ボーイフレンド2メンバーの春を祈る

 

※シーズン2のネタバレを含みます。シーズン1への言及も一部あります。

 

観ると野生動物を見に行きたくなる番組第1位でおなじみ『ボーイフレンド シーズン2』。最終回を終えた今、みなさんいかがお過ごしでしょうか。舞台は冬の北海道、計10名の男性がグリーンルームで2ヶ月間の共同生活を行う恋愛リアリティショーである『ボーイフレンド』。

夏を舞台にしていたシーズン1の出来が素晴らしかったため、かなりハードルが上がっていましたが蓋を開けてみれば、設定の面白さはそのままに、さらに異なる魅力が加わったとんでもなく素晴らしい作品となっておりました。

 

ボーイフレンド自体の感想は前回シーズンの感想ブログで書いていますので、このブログでは主にシーズン1と比べてシーズン2でどのような変化があったのかに焦点を当てていきます。どちらが良いという魅力の大小比較ではなく、どう変わったかという質の変化の観点から見ていきますので、どうぞよろしくお願いします。

 

※すみません、書き終わって思ったのですが、前半結構真面目で重たい!けれども大事な話なので最後まで読んでいただけると幸いです。

ーーー真面目モード突入。

 

 

外の世界とつながり直すためのグリーンルーム

今回のシーズン2で最も印象的だった変化は、グリーンルームの外にいる人々との関わりを模索するメンバーの姿がより強調的に描かれていた点だろう。もちろんグリーンルーム内での恋愛が主軸でありながらも、彼らが話す内容は、家族へのカミングアウト、元カレとの復縁、いわゆるゲイコミュニティとの付き合い方、などグリーンルームの「外」とどう繋がっていくかという点にかなりの尺が割かれている。(もちろんシーズン1でもテホンのカミングアウトの話含め一部描かれてはいますが。)
例えばカズユキが15年間付き合っていた元彼への想いを整理する取り組みはシーズン全体にわたって進行していた大プロジェクトだったし、11話以降に特に焦点が当たりはじめたフーウェイ、リュウキ、トモアキの家族へのカミングアウトというテーマは、最終話にかけて恋愛模様と双璧をなすほどの重要なパートだったと思う。

グリーンルームの中でどう繋がるか、だけでなく、グリーンルームの外の世界とどう繋がり直すか。なぜ恋愛の舞台で、舞台外との関係が再構築されていく(必要がある)のか。一見すると奇妙なその状況は、出演したボーイズたちを取り巻く現実を端的に示しているように見える。それはつまり、外の世界と「ちゃんと」繋がることが、外の世界にいると困難である、という逆説的な現実である。

 

カズユキはグリーンルームにいる間、普通に男同士の恋愛を目の前にし、男同士の恋愛の恋バナを聞くことを通して、過去の出来事や元彼への想いを思い出していく。ここで重要なのは、それらを思い出すことができたのは他のメンバーに対して自分を重ねることができたからであって、異性間のカップルのみが可視化される外の世界では、それが困難だという可能性だろう。
フーウェイが最終話で黒板に書いていた「みんなが僕の鏡になってくれたから、見えたものがたくさんあった」という言葉を借りるならば、まさにカズユキにとってはメンバー全員がかけがえない鏡であって、ふとした瞬間、彼らに反射する自分たちの姿を見ていたのではないか。そんな想像をしてしまうのだ。過去を振り返るのはカズユキひとりにしかできない作業ではあるけれど、九人九色の鏡面に触発されながら振り返るその時間は、決して孤独ではなかった。グリーンルームという空間を経て、その外にいる彼と繋がり直すことができたという事実ほど、グリーンルームの意義を示すものもない気がする。

フーウェイ、リュウキ、トモアキの親との関係についても同じだ。家庭環境はそれぞれ違えど、お母さんが作ったおでんを囲みながら自分の境遇を言葉にすることは、グリーンルームだからこそできる貴重な時間だったろうと想像する。
カミングアウトがうまくいく保証はないけれど、自分の経験を共有してくれる人がいて、相談に乗ってくれる人もいて、もしもうまくいかなくても帰って来れる場所があると思える。グリーンルームでできた新しい家族のような存在がいるから、グリーンルームの外の世界にいる家族と繋がり直す勇気がわいてくる。
そう考えると、トモアキのバス内お母さんコントさえ、新しい家族だからこそできる愛おしきじゃれあいのように見えて、なんだか少しだけ涙が出そうになってしまう。

トモアキがYouTubeで、2ヶ月を通して「みんなで辞書を作った」と言っていた通り、グリーンルームは、外の世界で刷り込まれてきた考え方を一度解体し、みんなで編み直して、外の世界をもう一度生きていくためのお守りになるような場所だった。グリーンルームは2ヶ月間の滞在であって、人生全体で見ると外の世界で生きる時間の方がずっとずっと長い。けれどこの場所には似た境遇の仲間たちがいて、彼らを通してもう一度、外の世界と繋がり直す勇気と、その方法を知っていく。
シーズン1が、輝かしい一夏の”箱庭”のように描かれていたとあえて言うならば、シーズン2は現実と地続きの”かまくら”のような場所だったと表現できるかもしれない。そこは外の世界にひらかれたまま、身を寄せ合って暖かく雪風を凌げる場所だったのだろうと想像してしまうのだ。

 

“似た境遇の仲間”から一歩進んで

他方、外の世界との繋がり方に焦点が当たったことにより、恋愛スタイルや恋心のすれ違いとはまた質の異なる衝突や葛藤が生まれたことも重要な点だ。

家族へのカミングアウトの状況一つとっても、上記で書いたような困難を抱えるメンバーがいる一方で、例えばジョウブは親と友好な関係を築ける環境に恵まれていた。ジョウブは、メンバー間で家族へのカミングアウトの話題が出ると、周りと家庭環境が違いすぎるあまり居心地が悪くなって、14話では途中で席まで立ってしまう様子も見られていた。
またヒロヤとトモアキの間でも、いわゆる「ゲイコミュニティ」との付き合い方をめぐって衝突が見られた。そういったコミュニティに対して偏見があるとストレートに言うヒロヤに対して、そこに救われてきたと言うトモアキは当然反論をする。
シーズン1での衝突なんて、思い出してみても、ダイとシュンの関係に口を挟んだイクオのシーンくらいだ。それはグリーンルーム内の恋愛をめぐる個々人の態度のすれ違いであって、せいぜいイクオがプールに落とされれば解消するような爽やかさがあった(今思い出してもイクオは被害者です)。しかしシーズン2の衝突はそう爽やかというわけにはいかない。

ジョウブやヒロヤの態度の是非という論点を差し引いても、これらの出来事は、外の世界との関係の結び方がメンバーによって大きく異なるという事実を生々しく物語っている。家族やコミュニティなどの社会資源にどれくらい頼ることができたか、頼ることができなかったか。そこに馴染めたか、馴染めなかったか。
「多様性」という言葉はしばしば、異性愛者も非異性愛者もいて多様であるという使われ方がされるけれど、非異性愛者の中にもさまざまな社会的な差異があって、”似た境遇の仲間がいる”という一面だけでは片付けられないような隔絶もある。それらの違いの中でどのように互いを理解し尊重できるか、自分ではどうしようもないような隔絶の中で見せるメンバーの表情は、繋がることの希望とも絶望とも捉えられるようなリアリティを映し出している。

 

MC徳井の大成長

はい。急に何?と思ったかもしませんが、これは非常に見流せない点でした。シーズン1ではホラン千秋の真面目なコメントについて、少しおちゃらけてしまうようなシーンも一部見られており、完全にジョウブムーブをかましてしまっていた徳井さん。
ただ今回はそういった素振りを見せることも減り、持ち前の恋愛伝道師トークを炸裂させながらもメンバーへの寄り添いの涙を流すなど、非常にバランスの取れたMC運びをしていたのが印象的でした。徳井さん、大成長のほど誠にありがとうございました。
また、例によってホラン千秋さんには最も高いギャラを支払っていただくようにお願い申し上げます。

 

メンバーへの手紙

すみません、ここまであまりにも真剣に喋りすぎて、恋愛リアリティーショーの感想にあるまじき恋愛の話を一切しないという事態になっていました。

恋愛面を含む感想を、各メンバーへのお手紙形式で発表していきます。ここからはテンションぶち上げて行くよーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

フーウェイへ

あんたって大男なのに(大男だから?)本当に可愛かったよね。フーウェイって淡白とか、言葉に感情こもってないって言われると思うんだけど、そんなことないって僕知ってるから。フーウェイって、自分の心になにか感情が生まれた時に、それをどの言葉で表現するかを考える解像度が多分常人の100倍くらいあるんだよね。常人なら、「この感情って、好きという言葉の形と似てるし、好きって言っちゃおう」と片付けるところを、フーウェイは「いやこの感情はよくよく見ると、好きという言葉の形と少しズレてる、でも今手持ちの言葉の金型の中で、この感情にハマるものがない…一旦黙るか。」てなるんでしょ。自分の感情と言葉の間の距離をあえて取って吟味してるから、言葉が見つからなかったり、感情が言葉に乗りづらいんじゃないかと思ったんだけど、どうかな?……あ、違う?じゃあごめん、帰るね。

あ、帰り際に一言だけ良い?最終話でお別れの際にヒロヤに「応援してるから、大好きだよ」って言ったのだけ本当にやめてもらっていい?……あ、ヒロヤ的には全然OKなんだ。……じゃあごめん、帰るね。

 

ボミへ

ねえ、ボミがホゲてるところもっと聞きたかった(最悪の感想)。あんたのあのモードの話し方まじで大好きなんだよね。ボミから「あんた」って呼ばれる人生が良かった。ていうか、恋愛うますぎじゃない?初彼氏とか言ってますけど、あの距離詰めるところとさっと引くところのバランス、どこで練習してたん?…え、自主練?自主練だったらやばい。

なんかさ、友達のこと励ますポジションの人って自分の恋愛はうまくいかないのが定石なのに、なんか全然見事に両立してて、本当に見ていて悔しかったです。それなのに嫌味ったらしさがなくて、結局ボミって自分のこと大きくも小さくも見せないんだよね。自分の価値を適切に理解しているから、尊大にも卑屈にもならずにそのままの自分でいられてる感じっていうの?確かにフーウェイは超人だけど、あんたもあんたで超人やからね。超人カップル、一生幸せでいてください、まあ僕から言われなくたって、幸せになるんやろうけど…… これからも二人だけの言葉が紡がれていきますように、電信柱の後ろから応援しています。(やめてください)

 

ヒロヤへ

いやあのさ、飲み行こ。ここじゃ書けないことがまじで多すぎる。えーーーーーーもうさーーーーーーーーごめん、ちょっと待って今書きながら泣きそう。あんなに振られてたら僕だったら絶対グリーンルーム出てる。てか多分4話くらいで出てた。それなのにさ、くさらずにアタックして、友情も育んで、喧嘩もして、仲直りして、一番頑張ってたよあんたが実際。いろんな世界知って、ちょっとずつプライドの角が取れていくところ見てて、僕すっごい嬉しかったんだよ。

まあでも、トモアキの件はトモアキが謝った時に自分もちゃんと謝った方が良かった気がする、あれはトモアキが優しかったらよかったけど、普通だったらオシャレ魔女トモアキによってあり得ないダサい格好にさせられるところだったわよ。でもこれも経験なんだよね。失敗するところ、恥ずかしがらず見せてくれてありがとう。ヒロヤの弱いところも全部受け止めてくれる人絶対いるから。出てきたら絶対に飲み行こう。もうあんたの嬉しい涙しか僕見たくないから!!!!!全然悔し涙も拭くけど。

 

ジョウブへ

いや、だから言ったじゃん、あんたは絶対幸せになれるって。最初ウィリアムに恋愛してたけど、あんな特大シード権みたいなイザヤを前にしてよく頑張ったよね。あの時本当に心配してたけど、あり得ないスピード感でテホンに恋してて本当に嬉しかった。恋愛の傷は恋愛で癒すタイプよね。わかんの。最初はなんかアランっぽいのかなって思ってたんだけど、ジョウブっていつもカラッとした太陽じゃなくて、心に浮かんだダサい感情とかじめっとした感情とか隠さずに出す。それがすごく可愛かったし、応援したくなった。ジョウブのことずっと応援してた人、本当に何十、何百万人もいたし、テホンといちゃつくたびに全員で叫んで世界の平均音量上げてたから。

真面目でシリアスな話でおちゃらけたりするのも、きっと家庭環境とか性格によるものだと思うんだけど、良かったら今度ウチと一緒に練習しない?ずっとおちゃらけられる世界の方がもちろんいいんだけどさ。ちなみに、結婚式したらめっちゃ人呼ぶって言ってたけど、当日キャンセルとかとか出てまじで他に呼ぶ人いなかったら連絡ください。絶対に行きます。

 

テホンへ

あんたが恋愛してるところ見て、めちゃくちゃ泣いた。シーズン1ではみんなの素晴らしき相談役になって一歩引いたところから参加してるような印象で、今回も素晴らしいアドバイスは健在だったけど、後半からものすごい勢いでアクセル踏んで、サウナで抱きついた時まじでデカイ声出た。いろんな役回りを捨てて、キスしたい人にたくさんキスして、一緒のベッドで寝て、もうこれからは全部自分のしたいようにすればいいんだよって、みんな思ってたと思うし、だからみんなデカい声出してたと思う。隣の家からも聞こえたもん。

シーズン1で、人との関係性は正論じゃないよってアドバイスしてたけど、そのアドバイスが完全にあんたに跳ね返ってたよね。ホラン千秋先生の名言「心がロジックを追い越す」はシーズン1のテホンの言葉のアレンジなんだと思っちゃうわけ。まあ、それでもやっぱり、テホンのことだから内面が合うかとか丁寧にすり合わせていくんだろうけど、それでもテホンが自分の心に制御をかけないでいられる日が来てよかった、どんなテホンのこともみんな大好きだからね。

 

トモアキへ

なんかさ、たまにいるじゃん、一般人なのに異常なほどギャグセンスが高くてTikTokとかでバズってる人、あれってあんただったんだ。自分を包み隠す必要がなくなったあんた、全部が神がかってた。本当にゴミ回収シーンだけで30回は見てるのウチ。でもきっと、その裏では家族との関係に悩んだり、いろんな苦しさを抱えながら参加していたはずで、これまでどういうふうに自分を包み隠さなきゃいけなかったんだろうって想像しただけで涙が出そうだった。勇気を出して、このグリーンルームに来てくれてありがとう。勇気を出して、手紙を書いてくれてありがとう。トモアキの勇気に鼓舞されて、あなたの知らないところまでその連鎖は広がっていく、それくらい大きなことをしたんだよ。少しでもトモアキがいろんな悩みから解放されていきますように。僕たちもできることあるかわかんないけど、やるから。一人じゃないからね。

あとすみません、話変わるんですけど、メンバーと撮ったというプリクラを一枚残らず全部見せていただくことは可能でしょうか。どうぞよろしくお願いします。

 

リュウキへ

リュウキの好きなところ本当にたくさんあるんだけど、一番好きなのは「顔じゃない、筋肉」「悪い人好き」というセリフたちです。シーズン2の数ある名台詞の中でもトップ3に入ります。色々悩むし、難しいこと考えちゃうんだけど、リュウキのセリフ聞いて、あ、恋愛ってこんなシンプルでいいじゃんって思えた。いや、本当に、からかってないのこれは。絶対シンプルでいいんだよね、でも年取っていくとシンプルじゃなくなっていくんだよね、って急になんか反省しちゃった。多分今回年齢が上の人に囲まれてたと思うけど、多分みんなもリュウキの若さ見て、忘れかけてたもの取り戻してたんじゃないかな。

子供のようにたくさん愛情注がれてたけど、本当にそれを当たり前だと思ってこれから生きていってほしい。あなたは、当然のようにありのままで、愛情を受けて生きていっていいの。家族へのカミングアウト、きっと人より難しい状況で本当によく頑張った。時間をかけて良い方向に進むのを祈ってるし、どうなったって少なくとも、グリーンルームの家族と、見守る視聴者がいるからね。どうかこれからのリュウキの人生が全部花道でありますように!

 

カズユキへ

さっきから「カズユキ」って打つたびに「和幸」って変換されるせいで、キャベツと味噌汁を無料でおかわりしたくなってきてます。

さて、多分みんなとは違うグリーンルームでの過ごし方だったと思うけど、カズユキがちゃんと自分の心に向き合える場所が、仲間が、時間が、カズユキの人生の中にあって本当に良かった。一度終わったと思った関係性を修復することって、新しい関係を作るよりずっとずっと難しいと思う。それに、恋愛リアリティショーなのにって葛藤も、言ってはないけどきっとあったんじゃないかな。そんな中で勇気を持ってあなたは前のパートナーを選んだ。ここでいた仲間がいたからこそ辿り着けた答えなら、あなたがこのグリーンルームにいた意味は絶対にあったんだよ。

最初から最後まで、ずっと優しかったカズユキ。不貞腐れるジョウブを抱きしめようとする優しさ、それを押し付けがましくなく見せる思慮深さ、あなたともう一度人生を歩めるお相手の方が羨ましくてたまらない。えまって。もし自分が相手だったら、あんな魅力的な男性に囲まれる中で自分のこと思い出すカズユキ見て、まじでいとしすぎてドリカムとか歌っちゃうかも。あんたたちが大変な時に頼れる社会制度はうちらで頑張って作っていこうね。

 

イザヤへ

イザヤが一番すごいのは、常に恋愛で追っている側なのに、悲壮感や惨めさが全くなかったこと。いかに気持ちがすれ違っていても、視聴者からの可哀想という同情を一切受け付けない気高さがあった。一度同情しようもんなら「なんでさ、勝手に同情してんの?」とこっちが怒られそうな凄み。なんなんだ一体。怖すぎるだろ。あとさ、イザヤって名前がいいよね。ケンタロウとかだったらこういう仕上がりにはならないもんね。まあこんな感じのケンタロウも見てみたいけどさ。

狙ったものは逃がさないその自信と、それに見合う要所要所でのボディタッチテクニック、結果的には見事にウィリアムを振り向かせて恋愛成就。異常ですよね。絶対ディベートとかしたくないもん、絶対三往復くらいで負けそうだし。どうやってその辺のテクニック勉強したのか本当に教えてほしいし、世間に有料で大公開して荒稼ぎしてほしい。でもイザヤみたいなスタイルの人が溢れる世界想像したらめっちゃ笑ってしまったのでやめてほしいかも。いずれにせよ、二人のダイナミックな恋愛は世界を股にかけるくらいのスケールでちょうどいいのよね。これからもその眼光を忘れぬように日本から見つめております。

 

ウィリアムへ

マジで最初にイザヤと記憶すれ違ってる時、うちらが一番気まずかったからね。視聴者の身にもなってくれる?あと今回から追加されたGlen&Checkさんの不穏なBGM、あれ完全にあんたたちの映像からインスピレーション受けて作ってますよね。正直最初は誤解してたんだけど、ウィリアムの過去のこととかたくさん知っていく中で、ウィリアムにもウィリアムなりの葛藤とかあるんやろなとか、その葛藤がイザヤの真っ直ぐさで少しずつほぐれていくところとか、見ててすごく嬉しかったし、同時に最初の偏見を反省しました。相手がイザヤだったからウィリアムは信じられたし、逆にあの中でイザヤの眼光を真っ直ぐ愛情として受け止められるのってウィリアムくらいな気がしていて、その意味でも本当にお似合いのカップルだった。

あと、同性間のパートナーシップについても「昔の人は隠れてやらなきゃいけなかったけど、バレてバレてきてようやく今がある」って言って可視化の重要性を説いてるの見て、え、すごいじゃんってなりました。あんたたちもさ、その可視化の一端を担ってんだよね。イザヤから怖いこと言われたらいつでも教えてよね本当に、マジでなんの手助けもできないけど、話は聞くから。

 

終わりに

制作に関わってくださったスタッフ、出演してくれたメンバーの皆さん、本当にありがとうございました。これからの彼らの幸せと、願わくばシーズン3、女性同士恋愛を描いた「ガールフレンド(仮)」の制作を心より期待しております。

 

***

シーズン1から、さらに外の世界との繋がりに開けたシーズン2。外の世界にいながら外の世界と繋がることが難しいという、この現実社会の歪さが少しでもなくなっていくことが、グリーンルームを出た彼らの未来を祝福するものでもあるはず。

 

グリーンルームを出る日、雪解け間近の春の気配が立ち込めるあの穏やかな空気が、彼ら10人の未来を表すものでありますように。その未来が、今まさに「外の世界」にいる我々一人ひとりの手にかかっていることを、いつか必ず来るその春までずっと忘れません。

 

 

 

【フーウェイに届け】『ボーイフレンド2』11話の5分間の感想を9000字で記す

※この記事は『ボーイフレンド シーズン2』12話までのネタバレを含みます
※『ボーイフレンド シーズン1』のネタバレは含みません

 

見ると北海道に行きたくなる映像ランキング第1位でお馴染み『ボーイフレンド2』。最終回イブの本日、みなさまいかがお過ごしでしょうか。冬の北海道の大地で、男性が恋愛対象の男性たちが共同生活を送る恋愛リアリティショー。本日はその感想をみなさんにお伝えしようとブログを書き進めていたところ、1点のアクシデントが発生しました。

僕のお気に入りの第11話8:30~13:30、フーウェイがボミに対して母親へのカミングアウトについて語るシーンの感想を書いていたら、そこだけでなぜか9000字になっていました。これ以上の文字数を書くと誰も読む気がなくなると思いましたので、この箇所だけ切り出して先に公開します。

 

 

フーウェイ見てるーーーーッ!?!?もし読んだら連絡ください、ガチでよろしくお願いします。

 

 

物語にならないままの声で

シーズン1と2どちらがいいのかという論争には何の意味もないが、少なくともシーズン2の第11話だけの話をするならば、シーズン1越えどころか、ネットフリックス史に残る伝説回の1つと言っても過言ではなかっただろう。特にフーウェイがカミングアウトについてボミに話すシーンは、初めて見た時ボロボロ泣いたし、2回目見た時はもっと泣いて、3回目見た時はさらに泣いた。
誰かがカミングアウトについて話す動画なんてこれまで何度も見てるのに、特別このシーンは見るたびに胸が打ち砕かれるようで、それが一体なぜなのかを考えたくなった。単純にフーウェイが可哀想だからとか、二人が尊いからだとか、きっとそうではないのだ。
たくさん考えて、その理由はあの二人のやりとりが、「物語にならないままの声」だったからじゃないかと思い至った。始まりから振り返っていく。

 

はじめ、二人はリビングのソファーにいて、他のメンバーがキッチンに集まって談笑している中、互いの親について話している。フーウェイが親と自分が親とどんな関係性なのかを語り、それに呼応するようにボミは自分と親の理想の関係性を夢見る。
その時くらいからフーウェイは少し物思いに耽る様子で下の方を見つめていて、気になったボミは声をかける。「え、どうしたの」「いやなにも」「なんか、感j、いやなんでもない」。フーウェイはしばらく笑みを浮かべた後、突然上のほうを見るとその瞳には光が反射していて、我々はフーウェイに何かがあったことを察する。
「なんか……今回……」少しの沈黙の中でボミが「お母さん会ったよね?」と話を振り出すと、すぐにフーウェイは応答する。「会った。」「その時に言った。」「言った?」「うん、カミングアウトした。」つぶやくように口にするフーウェイ。
驚いたボミが「大丈夫だった?」と尋ねると、フーウェイは「うーん……」と口ごもりながら少しずつ表情を曇らせ、また天井の方を見つめる。「まあ、なんだかんだ受け入れてもらえるのかなって期待してた」少しの間をおいて、「……けど、なんか”言われてショック”って言われて」「あと、”直せないの?”って言われて」その時、フーウェイは少し微笑んでいるような表情を浮かべながらボミの方に顔を向ける。
その後また視線を上に向けながら続ける。「でも、直せないしなあ、って」「思ったのは、普通のセクシュアリティとかだったらさ、なんか楽だったのになとか思ったけど、でもさ、なんか誰かを好きになってさ、その気持ちさ…直すってことはさ、もうなくなるってことでしょ?」ボミの方を見つめ、ボミが静かにうなづくと、フーウェイはまた視線を変えて続ける。「いやそんなのなんか、今まで生きた自分がもう存在しなくていいって言われてるような感じがしちゃってさ」。存在しなくていい、のあたりから、少し笑顔がまじったような表情でボミを見つめるフーウェイ。
ボミが「そうだよね」というと、再びフーウェイは上へ下へと視線を動かしながら「直せないっていうか、直したくないっていうか」とポツリと言う。ボミはこの間ずっとフーウェイの腕を撫で続けていて、フーウェイは同じ調子で話を続ける。「でも、なんか自分の抱えてた重荷をさ、なんかうちのお母さんに、分け与えたみたいな感じになっちゃって、なんか、僕はさ、長い時間をかけてさ自分を受け入れれるようになったけど、母は受け入れる時間もなくさ、いきなりそれを知らされてさ、混乱したりとかさ、まあ……してるんだろうなみたいな。」

細かな部分に注目していくと、いろいろな発見があるシーンだ。まず、前の会話を見る限りフーウェイはおそらくこの話をしようとは最初から思っていなくて、ボミから「どうしたの」と訊かれたことによってはじめて、準備ができていないながらもその重い口を開き始めたように見える。そこでの話し方も、「カミングアウトしたんだけど、ダメで、しかもこういうことも言われて、」のように接続詞で区切りながら一方向的に流れていくような話し方ではなく、「カミングアウトした」とだけ言葉を残して沈黙の中に身を置き、ボミや自分自身の発言に呼応して途切れながら、次の言葉を手探りで手繰り寄せていくような話し方に聞こえてくる。
これまであんなに真っ直ぐに相手の目を見つめていたフーウェイが、天井の方ばかり見つめて、視点は一点に定まらずに空中にとどまる。母親から言われた辛い言葉を口にするとき、フーウェイはうっすらと笑みにも似た表情を浮かべながらボミの方を見つめる。その表情は、これまでのフーウェイの爽やかでカラッとした笑顔とは少し異なる趣を映しだす。話し方だけ取ってみても、このシーンはあまりにも異質であると伝わってきた。

多分だけど、フーウェイがこの話をするのはここが初めてで、この出来事に対する自分の感情もきっとまだ完全には定まりきっていない。そんな中で口を開いて、沈黙の中でボミの言葉にも触発されながら探り探りで言葉を見つけ、そこで発した言葉を自分の感情として自分でも再認識していくような時間。真意はわからないけれど、僕にはそんなふうに思えてしまったのだ。
ボミではなく空中を見つめるその表情は、まだ相手に伝える準備ができていない言葉たちを、一人どうにか紡ごうとする姿に見えた。ときおり微笑むような表情は、まだかさぶたになっていない心の傷を空気にさらした痛みから、自分を表面的にでも守るための鎧にさえ見えた。

ここでのフーウェイの言葉は、物語になっていないままの声なのだと思った。起承転結がはっきりしているわけでも、どこかゴールに向かっているわけでもなく、相手に伝えるための明瞭な言葉でもない。傷ついたところが未だ生傷のまま痛みを発し、一つひとつ紡いだ言葉で自分の感情を確かめていくような声。
物語というのは、自分の身に起きた出来事からある程度距離を取れている状態で、他人に話していく中で作られていくのだろうけど、フーウェイの場合、この出来事を物語に仕立てるにはまだあまりにも距離が近い。ここまでのエピソードが、ボーイズ同士のラブストーリーの物語として語られてきたのとは対照的に、二人の言葉のやり取りはあまりにも生々しい。けれどだからこそ、いっそう本物なのだと感じられる(編集はあるだろうけど)。

その生々しさが、僕自身の過去の傷や、僕の心の中で物語になり損ねた断片たちを触発して、深いところで共鳴しているようにさえ感じてしまうのである。

 

笑いながら泣く、泣きながら笑う

このシーンには続きがある。

フーウェイが「だから、まだ時間がかかるのかもしれないけど。」というと、ボミはすぐに「よく頑張った」と労う。それを見たフーウェイは少し表情を緩めて二人はハグをする。しばらく抱き合った後で、フーウェイは「はぁ…」と息を吐いて上を見つめる。
ほんの少しだけ明るい声色になって、「でもね、最後に”何があっても私の子供であることは変わりないから”って」「”ちゃんと相談しなさい”って」と、時折ボミの方を見ながら母との会話を振り返る。
ここまでの話を聞いたボミが、「ひとりで抱えてたの?それをずっと。帰ってきて。」と声をかけると、少しだけ笑顔を浮かべてフーウェイは「うん」と答える。ボミは笑って「つらかったね、大丈夫?」とフーウェイの体を撫でる。フーウェイは流れる涙を拭きながら、「うん……大丈夫。」と、か細い声で、けれど確かな声で答える。
するとこれまで気丈そうに見えたボミが表情を崩して、涙を堪えきれなくなる。それをみたフーウェイは「なんで泣いてるの。大丈夫だよ。泣かなくてもいいよ。」と笑いながら、また涙を流す。二人は片方の手で自分の涙を拭きながら、もう片方の手でお互いの手を強く握り続ける。
フーウェイはまた口を開く。「でも……完全にさ、わかってもらえることなんてないんだろうけどさ、でも誰かを好きになったって気持ちはさ、誰にでもあるはずだからさ。それは……いつかわかってもらえると思ってるし。うん」。フーウェイはしばらくしてまた「うん」と口にして、隣で泣き続けるボミを「大丈夫、大丈夫、大丈夫……大丈夫。」と抱きしめ、首元を撫でる。これでこのシーンは幕を閉じる。

物語にならない出来事に直面するフーウェイにとって救いだったのは、途切れ途切れの不恰好な声を一緒に聞いてくれて、その傷を分かち合ってくれる人の存在だっただろう。ボミは終始、余計なことは言わない。目を見て黙って聞いて、フーウェイが見つめてくるたびに、時折相槌を入れる程度だ。フーウェイの感情に対して干渉せず、彼が言葉を探すのをそっと見守り、確かめるようにして口にした言葉を聞き届けて、それを肯定する。同じ気持ちにはなれないけれど、常にフーウェイから手を離さないで隣に居続ける。フーウェイにとっては、まだ定まりきっていない感情を時間をかけて紡いでいく上で、こんなにも安心できる相手はいなかっただろう。
ボミが「よく頑張った」と声をかけて以降、フーウェイは自分を守るための微笑みを見せることが少なくなり、代わりに涙を流すようになる。ボミの「ひとりで抱えてたの?」という声掛けに、フーウェイは隠さずに「うん」と答える。鎧を着る必要がないと思える相手が、フーウェイの人生の中にいてくれたことが、何よりも嬉しかった。

その後、ボミが涙を流し始めると、フーウェイはいつものような笑顔で「泣かなくてもいいよ」と笑いながら泣く。ボミの涙の理由はわからないが、自分のために涙を流してくれる人がいて、二人は一緒になって涙を流す。涙を分かち合うボミに対してフーウェイがかける「大丈夫、大丈夫、大丈夫」という言葉は、きっとフーウェイ自身にも跳ね返っていったのかもしれない。
それぞれ固有の人生を持つ二人が、物語になる前のやわらかい言葉に触発されて、この一瞬だけでもふっと境界が溶け合う。二人を見ているとそんな光景にさえ思えてしまうし、それこそがまさに、ボミのいう「言葉のスキンシップ」なのだろうと納得してしまうのである。

僕たちの人生は、思い通りに行くことの方が少ない。その度に傷ついて、癒えたと思った傷も何かの拍子に痛みを発する。美しい物語に回収されないままの断片がヒリヒリと痛んで、言葉にならないままの感情が熱を持ち続ける。
けれど、時にはそばに誰かがいてくれて、その感情を言葉にするのを見届けてくれたり、時にはその痛みの一端をともに分かち合ってくれる。そうして言葉を紡ぐ中で、ようやくその感情たちは自分の心の中で居場所を見つける。
無かったことにはならないけれど、その傷の扱い方を自分なりに覚えていって、同じ傷を持つ他者に対して寄り添う術を知っていく。僕たちは絶望の中にいても、笑いながら泣くことができるし、泣きながら笑うことができる、それが絶望の中に残された希望なのだと、我々はこのシーンを通して気づいていく。

 

 

そういえば、みなさん、このシーンで流れていたGlen&Checkさんの「Bliss」はもうお聴きになりましたか。サビの歌詞が凄まじいです。

youtu.be

Remember the love from me that you were given
I loved everything you ever showed

Just take me anywhere
Take me everywhere you go
‘Cause I don’t wanna sleep alone

僕から受け取った愛を覚えていて。あなたが見せてくれた全部が大好きだよ。

どこかに連れ出してよ、どこにでもついて行くよ。一人きりで眠りたくないんだ。

(拙訳)

 

ボミとフーウェイの「言葉探し」の旅

カミングアウトの話からは少し脱線するが、実はここまで述べてきた二人の関係性がこのシーン以外でも全体として通底している点に触れておきたい。8話でフーウェイがボミに渡した手紙には以下の内容が書かれていた。

小さな灯が胸の中に 気づけば、名前も知らない感情が静かに言葉を求め、いつかこの想いが言葉として伝えられることを。心を込めて(第8話より)

フーウェイは言葉に対して非常に敏感で、自分の中に浮かんでくる心象(イメージ)を、取り急ぎの言葉の表現によって片付けることをしない。自分の生の感情と、自分が持っている語彙の網の目のズレを緻密に感じ取りながら、言葉にできないものは一旦放って、試しながら観察し続ける。8話、ジムでカズユキに語っていた「自分の気持ちがどうなるかっていうのを、別の自分から見てるみたいな感覚」というのも、近い内容を言っているのかもしれない。

そんな中でボミははじめから好意を伝えながら、定期的にフーウェイに「最近どう?」と問いかける。ただしそれは答えを急かしているというよりも、変わりゆく自分の感情に言葉の金型を当ててみようとするフーウェイの試みの進捗を、共に見守っているようにさえ見える。なんだか論文を執筆する学生のメンターのような風格だ。このままだとフーウェイは先にHuBomi学の博士号を取ってしまうんじゃないか。

ちなみに恥を隠さず白状すると、僕は最初フーウェイにガチ恋をして、のたうち回っていました。裸眼のボミがフーウェイに接近するのを見て皆さんが沸いている間、僕はボミの視点から、ぼやけた世界から少しずつ焦点が合って笑顔のフーウェイが現れてくる視界を想像していました。(※想像しないでください) しかしボミの圧倒的なメンター力と、カミングアウトのシーンのあまりにも調和の取れた二人の雰囲気を見て、もう無理やん、こんなん敵わへんやん、と正々堂々諦めました。ボミさん、対戦ありがとうございました。(※勝手に試合に出場しないでください)

2ヶ月間を通して、焦らずに少しずつその進捗を共有してきた二人が、最終話の段階でどのような結論に辿り着くのか、それは明日のお楽しみである。が、二人のことだから、得られた言葉も全ては暫定のものであって、きっとこれから先も、その旅が完結することはないのだろう。

いや、すみません、やはり僕が一緒にフーウェイと旅をするわけにはいかないでしょうか?全然一緒にバトラーの本とかも読みます。(※帰ってください)

 

愛がすれ違う社会の中で

脱線したが最後に、今回のカミングアウトの一件をより俯瞰して見るために、フーウェイ自身の発言を借りながらもう少し話を進めてみたい。その発言とは、そう、「愛は個別的な物語のメタファー」だ。以下に全文を転記する。

愛って何って考えたときに何か個別的な物語のメタファーだなって思っちゃう。個別的な物語を比喩として表している。その言葉によって表されるその実態、なんか愛っていう言葉によって正当化されるものって世界中あちこちにあって、でも愛っていう言葉に対して誰も批判できないっていうのが、それぞれの中にその愛があって、それは日常生活であったり、母からの愛でもあったり、あるいは今まで育った自分自身に対してもそうだし、でもその中で愛と愛がぶつかり合うことで争いが起きてる。だから自分が嬉しい悲しいって思うものの全ての中に、愛が含まれているっていうふうに僕は感じる。(第9話)

要は、人それぞれの中に、誰かのことを思う気持ちや、何かを大事にしたいと思う気持ち(=実態、これをフーウェイは「個別的な物語」と表現)があって、それらが全て「愛」という言葉によって置き換えられている(=「メタファー」)。それらの気持ちは「愛」という共通の名のもとで正当化される一方で、実態はそれぞれが違った思いとして現実に存在しているために、違った気持ち同士がぶつかり合うことで、ときに争いやすれ違いも起きる、そういうふうに言いたかったのだろう。この語りは、フーウェイ自身と母親の関係性を考える上でも大きな示唆を与える。

フーウェイは、男性を好きになる自分自身に対する誇りや、好きになった相手を大事に思いたいという気持ちを強く持っており、母親にもそういう自分を理解してほしいと願う。それは「愛」と表現されるものだろう。逆に母親の視点からは、息子に対してこういうふうに幸せになってほしい(=すなわち異性愛者として幸せになってほしい)という願いがあり、それもまた母の視点から見れば、「愛」という名のもので正当化されうる息子への想いなのだろう。二人は互いを「愛」し合っているのにも関わらず、そこでの愛が指す個別の気持ちがすれ違っているために、互いの心に悲しみを生んでしまっている。

これは12話の後半で、メンバー全員でジョウブの母親が作ったおでんを囲んでカミングアウトについて語るシーンでも同様だ。それぞれが親に対して愛情を持っているのに、それがかえって軋轢を生み、傷を残してしまう。テホンがそういったすれ違いに対して、「罪悪感は感じるかもしれないけど、それはそう感じる人の優しさ」であると言うのは、フーウェイの言葉に対するテホンなりの応答なのかもしれない。

フーウェイが部屋で読んでいた『愛について』において、著者の竹村和子が「愛」における権力関係とその不均衡性を看破していたように、本来ここで重要なのは、個々人のもっている、何をどう大事にしたいか、何が大事なこととして扱われるべきかという価値観が、社会のあり方と密接に結びついているということだろう。子供に異性愛者として生きてほしいというのは、それ自体が子の幸せを願うものだったとしても、異性と結婚して(子供を残して)生きていくのが望ましいという社会規範や、異性同士のカップルだけを生きやすくさせている社会制度の影響の結果である。
ただし、それは社会構造の問題であって、トモアキが「誰かが悪いと思ってないし、俺も自分のこと悪いと思ってはないの」と語るように、誰か個別の一般人のことを批判するのはまた違う話なのだろう(強いて言えば批判すべきはその構造を作り出している権力者だろう)。
だからフーウェイは、ボミと話している時も母親に寄り添う姿勢を見せ、むしろ重荷を背負わせてしまったとまで口にしているのかもしれない。一方で母も母で、いかに自分の願いとすれ違っていたとしても「何があっても息子であることは変わらない」という言葉を残してくれた。根っこにある愛する気持ちは同じなのだ。けれどこの社会の愛に関する規範が、その愛が通い合うことを困難にしている。

「愛」という言葉の名の下で、どの感情が祝福されるべきものとされ、どの感情が「直される」べきものとされるか、同性を愛する者が生きていく上でかならず直面する愛の二面性は、フーウェイの言葉によって言及されながら、ボーイフレンド全体のテーマとして横たわっている。

 

終わりに:現実と地続きのグリーンルーム

冒頭で、この11話を3回見て、順を追うごとにたくさん泣いたと書いたけど、その涙がこのボーイフレンドのシーンだけによるものかと言われると、それもまた違うように感じる。

実は2回目と3回目を見る間に、僕は一つの現実世界のニュースを目にしていた。それは、同性婚に賛成ではない政党が今回の選挙で着実に議席を伸ばしそうだという速報だった。その夜、3回目に動画を再生して、フーウェイたちが「大丈夫、大丈夫」と互いに肩を寄せ合うシーンを見はじめたら、ボロボロと涙が溢れて、止まらなくなった。

グリーンルームは現実から離れた場所のように見えるけれど、あくまでもこの国に実在していて、我々は今この瞬間に同じニュースを見て、同じ社会を共有している(フーウェイはタイ国籍なのでまた違う事情があるけれど)。フーウェイとボミの二人の間で育まれてきた愛が、メンバーみんなで育ててきた愛が、こんなにもかけがえないのに、あまりにも寄る辺ないことを思い出して、悲しさと悔しさでたまらなかった。二人が悲しみの中で身を寄せ合っている姿、それぞれのメンバーが孤独を抱えながらも互いに励まし合っている姿、それなのに社会全体ではバックラッシュが加速し、かつて見えた光さえ見えなくなるんじゃないかと恐ろしくて、希望と絶望のはざまで感情がぐちゃぐちゃになった。

いつかはよくなるだろう、なんて楽観視も迂闊にできないくらい暗雲が立ち込めているけど、それでもやはり、ボーイフレンド2を通して差し込んできた光の暖かさをせめて忘れないでいつづけることが、出演してくれたボーイズやスタッフへの感謝の気持ちになるのではないか、とも思う。
暗闇の中だからこそ見える光があるとか、寒い中だから感じられる暖かさがあるとか、そんな綺麗事言ってる場合じゃないかもしれないし、異性愛者だったら感じずに済んだ悲しみなんて、ない方が良いに決まっている。けれど、現実として葛藤を抱えながら生きのびてきたボーイズたちが、傷ついてきたからこそ生まれた言葉を紡ぎ、傷を抱えているからこそできる寄り添い方を見せる姿は、僕の心に確かに光を灯してくれた。
未公開映像でフーウェイとウィリアムが言っていた「僕らの存在がここにいるって知らせること(中略)も1つの誰かの希望になるかもしれない」「そうなってきたしね、歴史も」という言葉の通り、彼らから希望のバトンを受け取ろうとすることは、少なくとも今、僕とあなたができることなのだろう。こんなに美しいはずの世界で、悲しい涙を流したまま終えるなんてそんなの絶対に許したくない。

希望を受け取った僕とあなたが、それぞれの持ち場で諦めずに生き続けること、その息吹がいつか春風となって、この地続きのグリーンルームにも希望を届けられる日が来ることを信じたい。行き場所のない僕とあなたの苦しさが、どこかの未来で物語になる日を夢見ながら。

 

 

 

 

HANA「Blue Jeans」のMVに対する反応、への反応

 

「Blue Jeans」のMVに対しての反応を見ていると、一部において「クィアのオタクが同性愛を押し付ける批判をしている」という括られ方がされているように感じまして、いちクィアかつHANAのファンのただの私見と想像を述べてもいいでしょうか(いいですよ)

 

改めてMVへの反応ポストを見ていたのですが、今回のMVについて(メンバーの)同性愛も描いて欲しい、同性愛差別と戦ってほしいと「強要」しようとしているファンって多分ほとんどいなかったように感じるのは僕だけでしょうか。個人的にも、実際今回のMVの設定に照らすと、本人たちが演じている時点で、同性との恋愛を明示的に描くのが難しいという形に落ち着いたのも理解ができるように思っています。

どちらかというと、主に今われわれがTwitterで吐露してるのって、「物申し」というよりはおそらく「寂しさ」みたいなもので、ああここでも私のような存在が想定されていないんだ、という感情に近いのかなと思っています。ファンたちは別に、メンバーに同性愛者になって欲しいとは言っていない(言っている人いたらごめん) ただ、自分が大好きなアーティストのMVで、自分の存在が想定されていないように感じられたのが寂しかったのかもしれない。別にノノガのコンセプトにセクシュアリティの話は入ってませんから期待するなと言われたらそれでおしまいなんだけど、ルッキズムジェンダーなどの視点において(あえて書きますが「運よく」)エンパワメントされてきた人はファンの中にたくさんいるだろうし、その延長線上として異性愛規範がうずまく社会からNOを突きつけられてきたファンたちが思わず願いを託してしまう気持ちも、一概に否定できない部分もある。どこに行っても異性愛ばかりが描かれるこの社会で、もしかしたらHANAは、とすがる想いがあったのかもしれません。当然その想いを叶える責任はHANAにはないのだけどもね。それもわかっている。

 

果たされる義務はないものの淡く持ってしまっていたそんな期待が、(解釈の余地はいくらかあるにせよ)あそこまでわかりやすい男女ペアの構図で描かれた衝撃によって、儚くも散ってしまった。無理に同性とのペアを作れとは言えないけど、7人それぞれのメンバーに男性が一人ずつ配置されているように見える構図は、これまで当事者の人が直面してきた異性愛規範を象徴的な形で再現しているように見えたとしても、全く不思議だとは言えないように感じてしまいます。いつもはすごく共感できたコメント欄も、今回はどうしても自分向けの場所でないなと感じてしまって去った人ももしかしたらいたんじゃないかな。何度も言う通り、その期待を叶える責任はHANAにはないけど、宛先の見えにくい寂しさや残念な気持ち、願いが生まれたのも事実で、それらをXに放流した人も多かったんじゃないかと想像します。

 

140文字という限られたスペースに詰めこまれた、宛先の見えにくいその投稿を見た人の一部には、「これはHANA宛への批判・押し付けだ」と解釈する人もいたでしょう。こういう方がいるのも何も不思議ではない。けれど、そのような解釈のもとで集まってくる引用リポストを見るのは切なかった。元々ファンたちの抱えていたモヤモヤは、どこに行っても疎外されるこの社会の文脈込みで放たれているだろうに、それをHANAへの押し付けや批判だと取り違えられると互いに話がすれ違ってしまうし、中にはそれに対する強い言葉も集まってきてしまう。その中には一部看過できない内容も含まれていました。このMVに違和感を持たず、これからも盛り上がれる大勢の人が、盛り上がれない人に対して次々と言葉を重ねていく姿を見るのが恐ろしくもあった。「HANAにそんな強要をする権利は誰にもないってこと、自分もわかってるんです…」と言いたいよね、と、盛り上がれない人の気持ちを勝手に想像したりしました(勝手に)。

別に、これらの当事者の投稿に対して全員が賛同すべきとも思いませんし、思えません。けれど、強要しているツイートに対してならまだしも、感情を吐露しているツイートに対して、自己責任論を振りかざしたり、攻撃的な言葉で寄せられる反応が集まっているのを見て、より一層不安を感じたファンもいただろうとも想像します。(そもそもですが、こうした意見は最終的にプロデューサーなどの制作者によってどう受け止められるかが全てであり、こうした引用リポストがあろうとなかろうと、これまでの社会においてマイノリティの意見が届きにくいのは世の常だろうと思います)

 

当然ですが、当事者の言うことはなんでも批判しちゃいけないというわけではないし、いうまでもなく、当事者であることは無敵カードではない。例えば個々のメンバーに同性愛者であれ、同性愛差別と戦えと押し付けるようなことがあればそれは個人的には度を越していると思います。今回度を越したポストがあったかは全ては知らないけど、度を越したものだらけだったかというと、僕にはそうは見えませんでした。僕も含めて、言葉が足りない部分や違う言葉を使う余地はあったかもしれないけど、言葉が足りていないのはあまりにもお互い様だし、言葉遣いだけで解決するようなレベルにも見えません。

せっかく素敵なグループが生まれたのだから、できることならファンたちがお互いの直面している様々な「NO」の状況を知って学んでいけると嬉しいし、その懐の深さがこのグループにはあるんじゃないかなと勝手に思ってしまう。MVでの表現はこれからも引き続きメンバーやプロデューサーの判断に委ねられるし(そもそも強要する権限はファンにはないので)、具体的にどう描くべきかという意見は人それぞれあると思うけど、それでも、この人はこういう立場にあるんだなと受け止められる人が多くいるだけで、ファンダムの質ってすごく変わってくるんじゃないかと思うのです。偉そうでごめんなさいだけど僕は、まだ語られていない色んな「NO」を、ファンの皆さんを通して知っていきたいと思っています。全てのNOを投影することはできないなんて百も承知だけど、だからと言って、この世に生きる様々な「NO」に直面している人の思いを矮小化したり、その口を封じたりするのは違う話であるべきだと思う。HANAが全てを引き受けられない分、HANAをとおしたファン活動で、それらを知っていくことができるならば、それほど意義深いファンダムもないでしょう。

 

今回の件が、「同性愛も描けというクィアのファンによる押し付け」とみなされているのだとしたら、それはとても悲しいし不幸なことだと思います。依然として規範の強いこの社会で、自分が想定されていないという居場所のなさを感じた人が、一体その感情を何に宛てて、どう言葉にすればよいかと悩みながら思考することは、社会の構造とその中で生きる個人の複雑性を引き受ける姿勢を要する、非常に骨が折れる、けれどもだからこそ重要な時間だと思います。モヤモヤを抱えたまま、静かに思考するファンも今この瞬間に多くいるでしょう。それらのプロセスが、安直な対立構造のように仕立てあげられてしまうのがすごくもったいないし、悲しい。モヤモヤを感じたファンの多くは、このMVがあったからと言ってHANAをすぐに嫌いになることはないし、ましてや強要もしない。けれどHANA越しに透けて見えてしまったこの社会の分厚さを前にして、その気持ちをどう言葉にすればいいかもわからない。そんな状況にいる人たちがどうにか自分なりに、この曲との付き合い方を模索できることを祈ります。そして願わくば、僕たちを含むファンダムが、自分の言葉を書いたり消したりしながらより適切に自分の想いを表現できる場になっていくと同時に、様々なNOに晒されている他者のことを想像し、140字の外側にこぼれ出る想いや、それよりも外側にある社会の構造にまで思いを馳せられる場所でありますように。

ハードルを上げすぎてますが、これも宛先のない祈りですみません。

 

 

【XGライブ初参加】ALPHAZ見込みの感想文

 

夜の東京ドームの写真

 

幼いころ、テレビに映る東京ドームを初めて見たとき、その屋根の形状から宇宙船みたいだと感じたことを思い出す。どうやらその直感は当たっていたらしい。昨日まさにその場所で、XGが我々を宇宙に連れて行ってくれたのだから。

 

話は先週にさかのぼる。友人から「XGのライブに一緒に行ってくれる人を探してるんだけど、どう?」とLINEが届いた。当時の僕は、XGという名前を聞いてぼんやりとアーティストだということを思い出す程度で、何人組かということすら知らない、その程度だった。けれど、予習がてら有名どころの曲をいくつか聴いてみると、どこかで聴いたなと思い当たるものも多く、TikTokのタイムラインや街中、友人の車の中から深夜のクラブまで、僕は知らぬ間にXGの曲をいくつも耳にしていたようだ。

椅子に座って真剣に聴いてみると、懐かしさと新しさを感じるメロディーラインの中に、鼓動のようなベースラインが脈打つ曲も多く、気づけば家でひとり、体を揺らしていた。どこにいたとしても、あなたは好きなように踊ってよいし、一度踊ればそこがダンスホールになるのだというメッセージすら聞こえてくるようで、うれしかった。

曲への期待を胸に、ライブに行く前の電車の中で、大慌てでメンバーの顔と名前を一致させた。このとき初めて人数を知り、ファン名称が「ALPHAZ」ということ、サイモンさんなるプロデューサーがいるということなどを知った。僕は本当にその程度の人間なのだ。その程度の人間が書くブログを読んでいて、あなたが楽しめているか不安になってきました。間違いなどがあれば、やさしくご指摘くださいませ。

 

東京ドームに到着したとき、服飾系専門学校の入学式かと思って「ここで合っていたっけ」と改めて確認した。会場は合っていた。髪色も、金髪ならまだ可愛い方で、赤や水色、ネオングリーンまでさまざまで、黒髪の人を見つけたかと思ったら坊主だった。まあ、一般的な髪色の人ももちろんいるけれど、彼らもおそらく全員、心に生えている毛はブリーチをしているような佇まいなのだ。

なのに不思議と居心地はよい。社会において「派手すぎる」「変わっている」と言われてきたような人たちが当たり前にいるファンコミュニティは、どんな人にとっても心地のよい場所なのだろう。特定のアーティストのファンとセクシュアリティを紐づけることは誤解を招きうるので注意が必要だけれど、XGがとりわけ僕の周辺のクィアの友達に支持されていることはその点から見ると重要な点かもしれない。社会から異端とされてきた人たちをわざとらしく「包み込む」でも「受け入れる」でもなく、そうした人たちが当たり前にいることをわかっているコミュニティは、私たちにとって非常に貴重な、呼吸ができる場所なのだ。(だからと言って、個々のファンを勝手にクィアだと推測するのはやめましょうね)

それを特に感じたのは会場に入ってからだ。公演開始15分前頃だったか、僕の席の近くでサイモンさんの名前を必死に呼ぶ男性がいた。その人は、「サイモンさん、あなたのことが一番好きです!」と必死に叫んでいたのだが、その愛のメッセージを茶化す人は当たり前のようにおらず、むしろサイモンさんに彼のことを気づいてもらうために、ペンライトを振ったり声をかけたりして手助けをしているようだった。(最終的にその甲斐あってかサイモンさんはこちらを見てくれて、その男性の想いは無事に成仏していたし、周囲からはささやかな祝福の拍手が送られていた。)それぞれが自分の好きなものや信念を大事にしているからこそ、他人の「好き」のことも尊重できるコミュニティなのかもしれない、そんなことを考えているうちに、待機中の音楽のボリュームが大きくなっていることに気づく。

周囲が少しずつ正気をなくしていく。大音量の音楽が止む。一瞬の静寂が訪れる。会場が暗転する。歓声が起こる。XGのファンの皆さんは声がでかい。アーティストのライブでのファンの声は大抵でかいが、XGのファンは腹から声が出ている感じとでもいうのか。なんというか、魂がふるえて音を発しているような迫力があった。周りの熱気に微妙に乗り切れない新参者の自分がいることを急にメタ認知してしまいそうになったが、間も無くしてそれを気にする余裕もなくなった。XG本人たちが姿を現したのだ。

 

JURINが最初のパートを歌い始めてモニターに映し出された瞬間、本物だ、と思った。けれどこれは変なのである。日頃からJURINの動画や画像などを見ている人が、「あれは(動画や画像ではなく)本物だ」と感じるのはわかるのだ。世に出回る複製を見れば見るほど、本物に会えた時の感動が高まるというものだろう。しかし僕がJURINの姿をきちんと見たのは、行きの電車の中が初めてだったのだから、本物だと思うのはそれに照らすと変なのだ。なのになぜ、こんなにも本物なのだろうか。とにかく威圧感がすごいのである。JURINに一番似合う漢字は「帝」で、一番似合う動詞は「君臨」だろう。だから、見ているとすこしの恐怖すら感じるのである。偉大なものというのは怖いのだ。それなのに目を離すことができないから恐ろしいのだ。

そういえば、もう一人怖い人がいた。COCONAだ。しかしCOCONAの怖さは、圧倒的な帝王感というよりはむしろその「野生」さに由来しているように思えた。才能あるものたちが巣食うジャングルで、ひとり爪を研ぎ、生き延びてきたような、そういう眼光の鋭さがあった。目だけで人の運命を変えられる感じというのか。(最後まで見ると、この二人が怖い人じゃないことはよくわかりました)

恐怖すら感じる二人の雰囲気を破って現れてきたのが、MAYAとHARVEYの二人だ。ふたりともつかみどころのない独特な人柄のようだ。MAYAはとにかく光って見えた。その笑顔や話し方だけを見ても、ひとたび現れればその場をすみずみまで照らすようだった。それが作り物の光ではなく、体の内側から漏れ出るような光であると信じられたのが不思議だった。HARVEYは、あんなに大きなステージを公園だとおもっているように遊んでいた。MCをしているときもパフォーマンスをしている時も、周りがまっすぐに歩く中をひとりスキップしているようにさえ思えておどろいた。

その後、JURIA、HINATA、CHISAが登場する。この3人は皆、まっすぐに心に飛び込んでくる屈託のない歌声をしているとおもった。初見の僕では一見似ているように思えた声質だったが、聞いていくうちそれぞれ繊細に異なっているのがわかった。JURIAの声は地声の密度が最も厚く聞こえ、声の放物線が切れ目なくまっすぐに、どこまでも続いていくようだった。HINATAの声は最も透明に聞こえた。せせらぎを流れる水が、ときおり日の光を柔らかく跳ね返すような声だった。CHISAは最もテクスチャーのある声に聞こえた。CHISAの声にもしも手が触れられるのならば、きっとサラサラと心地のよい手触りがあるだろうと想像した。

いずれせよ、7人ともパフォーマンスの力が少しありえない領域まで達していて、たぶん口を閉じている時間よりも口を開けている時間の方が長かった。円盤化する際、絶対に僕の間抜けな顔を映像で抜かないでください。幕間で流れていた過去の映像を見ると、新参者の僕でも、そのパフォーマンスが血の滲むような努力の成果であるということが容易に想像できた。こんな完成度をしておきながら、最後の挨拶ではチャーミングな人間らしさを見せてくるのだから許せない。メンバーが涙を流している様子を見て、初めて来たくせに号泣した(なんで?)。

 

コンサートの完成度を高めていたのは7人のパフォーマンスだけでない。ダンサー、演奏、カメラマン、スタイリスト、メイク、演出、照明、ALPHAZたちすべての存在だろう。これまで何度かライブに行ったことがあるが、特に、ダンサーの踊りに対してあそこまで会場が盛り上がった公演は見たことがない。実力同士が容赦なくぶつかり合うことによってしか、本当の調和は生まれないのかもしれないと思った。

また、モニターに映し出される映像を見ると、実は全て前撮りなのではないかと疑うほどのカメラワーク、カメラのスイッチタイミングで、リアルタイムで投影されるエフェクトや映像効果も世界観の大事な1パーツになっていた。あれってやっぱり本当は前撮りだったりしますか?スタイリストやメイクの方にも、1公演につき1億円程度のボーナスが振り込まれていて欲しい。奇抜なのに本人たちの良さを引き立てるコーディネート、それぞれバラバラなのに統一感のあるメイク、全てがプロの仕事だった。とりわけJURINのソロの衣装をデザインした方には、国家予算レベルのボーナスを投じた方がいい気がする。

そして何より、ALPHAZの盛り上げあってのこのライブなのだろうと感じた。ときおり訪れるコールにまったくついていくことができず、新参者である自分を急に客観視するタイミングがあり、反省した。反省したが、ALPHAZの声がデカすぎて反省することに意識があまりいかず、助かった。余談だが、僕の後ろの人が、始まってからの10分間で20回くらい「信じがたい……」と言い続けていて、あまりの熱量に笑ってしまった。心当たりのある方はDMをお待ちしています。

 

音楽に関しては、新参者なので特に絶対にこれを聴きたいという曲はなかったけれど、「SOMETHING AIN’T RIGHT」は予習をしていた時に一番踊っていてたのしい楽曲だったので、流れたときは嬉しかった。軽快なイントロから一転、Aメロに入った途端に鳴り響くベースラインがありえないほど好きすぎて、海外の人のリアクション動画を見漁っては、Aメロに突入した瞬間までスキップすることがほとんど日課になっていた。実際にドームの音響で聴けたときは、気持ちの悪い笑みがこぼれた(やめてください)。

ALPHAZたちは、曲が流れるたびに盛り上がりを見せていたから、きっとそれぞれが、特定の楽曲に対する思い入れを持っているのだろう。僕の中で、「ちゃんとアーティストのファンになったな」と思うタイミングというのは決まっていて、それは事前にセトリを見たくないと思うようになった時だ。今回僕は、どんな曲が歌われるかを事前に知っておきたかったので過去のセトリを参考にしていたけれど、次の機会があれば、この公演でこれを歌って欲しいという期待を持ってライブに臨み、それが叶ったり叶わなかったりしながら一喜一憂してみたい。

 

それにしても、素晴らしいライブだった。全体を通してひとつ思ったのは、コンセプトの統一感の奇妙さだ。XGを見ていると宇宙、狼、カラフルな色彩、ダンサブルな曲調、奇抜な佇まいなどいくつかのイメージが散りばめられているが、よくよく考えるとそれぞれに関連はなさそうに見える。モチーフだけ見ると一貫性はないように見えるのに、全てがハマっているのがずっと不思議だった。しかし、それらの1つ1つが紛れもなくXGのひとつの統一された世界観を構成しているわけだから、まさにプロのなせる技なのだろう。わかりやすい一貫性に落ち着くのではなく、複数の世界をごちゃ混ぜにしながら、まったく見たことのない一貫した世界を作り上げたことによって、XGの世界には予想のできない奥行きが生まれているのかもしれない。

 

初めて参加をした僕がXGを好きになったかと言われると、まちがいなくYESだ。けれど、公演中にメンバーから向けられた「ALPHAZ」という呼びかけに向かって、心からレスポンスができたかというと、正直自信がない。「ALPHAZ」というのは、呼称であると同時に、自分の中に定着したアイデンティティのようなものでもあるだろう。「僕はXGが好き」と言えることと「僕はALPHAZだ」と自称できることの間には、少しばかりの距離があって、僕がそう名乗れるまではもう少しだけ時間がかかりそうだ。

けれど、少し勇気を持ってみるならば、名乗ってみたい、という気持ちがある。僕は、XGのことを好きになったのと同じくらい、ALPHAZたちのことを好きになってしまった。思い思いの格好と髪色で、思い思いの愛を叫び、それぞれの愛を尊重し合うような、そんなコミュニティの虜になってしまった。だから、「ALPHAZたちの仲間入り」をしてみたいのだ。ALPHAZになるための条件が、心の毛をブリーチしていることならば、その条件は満たしている、かはわからないが、そう思うことからはじめてみよう。

 

宇宙船のような東京ドームの内部で、ライブの最後にJURINは「XGは宇宙に行く」と言った。これから一緒に、宇宙の景色を見てみたい。冗談のように聞こえるけれども、XGならやってくれるだろうと、ALPHAZ見込みの僕でもおもう。宇宙の定義は高度100km以上らしいが、実際のところXGは地球一周40,000kmの飛行をすでに成し遂げたのであるから。

 

 

【冒頭無料公開】文学フリマ東京40に出店いたします

初めての文学フリマ

5/11(日)開催の文学フリマ東京40にて、友達のあたそさんと共同出店いたします‼️タイトルは『他人からマブダチになるまでの文通』です。

11月にはじめて話したその日に、なんか、往復書簡っていうの?響きがカッケーからやりたくない❓というちょっとダサい理由で始めた文通の記録を本にしました。

恐る恐る自己開示しながらの文通なので、中身も人間特有のダサさが出ているのですが、そのダサさが愛しんだわという温かい本になっているかと思っております。

まあ、社会に対する文句も満載なので温かいというとアレだな、でも共通の社会に対する文句を持っている者同士は仲良くなれます。これは絶対です。んで、そんな文句の先に、安全地帯としての互いの存在への愛が芽生えていくということを知りました。

#文学フリマ東京40 『他人からマブダチになるまでの文通』 苔とあたそ、初対面のふたりがガストで意気投合し、「文通をしよう」と思い立ってから5ヶ月ぶんの文通の記録。 互いの問いかけに応答しながら、旅や好きな本の話から、労働、ジェンダー、セクシュアリティ、セックス、恋愛至上主義などのテーマまで、軽やかに話が広がっていきます。  巡りゆく季節の中で、たがいに恐る恐る自己開示をしたり、しなかったりしながら、次第に親睦を深めていく様子をご覧ください。 苔  会社員。Xやブログで文章を綴る。「今の社会では話せる場所が少ない、けれども私たちにとっては重要なこと」をテーマに話すスペース「ウチらのサイゼ会」を、毎週土曜日の夜中にひらいている。 あたそ 普段は会社員として働きながら、ときどき文章を書いたりトークイベントを開いたりしている。著書に『女を忘れるといいぞ』(KADOKAWA)など。24年11月に『結局、他人の集まりなので』(主婦と生活社)を上梓。  ◾️南3-4ホール | こ-63 (ノンフィクション|エッセイ・随筆・体験記) ◾️書籍|B6 122ページ 1000円

※アクセスできない方もいらっしゃると思うので、通販も予定しています。後日、あたそのXアカウントをご確認ください。

 

互いの一通目を無料公開します

とはいえ、往復書簡って何?て感じだと思うので、今回は互いの最初の1通目を無料公開いたします。

最初はお互いに気取っていてちょっぴりダサいところもあるのですが、ここから先の関係の変化も含めて本書ではお楽しみいただけると幸いです。

 

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苔さんへ|コインゲームと沈黙

本当はお会いした次の日にこの往復書簡を書こうと思っていたのに、どんなことを書くべきか……悩んでいるうちに時間だけが経ってしまった。 

 

先日はありがとうございました。ちゃんとお話をしたのは初めてだったけど、とても楽しい時間を過ごすことができました。

「散歩がしたい」「31行かない?」「コインゲームやらない?」「さっき無印で肌触りのいい毛布を見つけたから、触らせたい」という苔さんの提案のすべてが今までの私にはなかった発想ばかりで、とても愉快に過ごせました。今思い返すと、私って結構受け身なのかも。ゲーセンの店員さんに「秋葉原って、エリア的にコインゲーム置いていないんですよ」と言われたのも、結局苔さんが無印良品で肌触りのいい毛布と敷布団のセットを買っていた両手に大きな紙袋を持っていたのも、ものすごくおかしかった……! 私とはまったく違う世界で生きてきた人なんだなと改めて思ったりもしていました。

 

なので、駅前のガストで「往復書簡やらない?」とお誘いいただいたのもとてもうれしかったです。私も往復書簡に憧れていたので。そもそも私の周りで、文章を書くことや自己開示することについて話せる人が今までいなかったから、こうして今特定の誰かに対して文章を書いているのも不思議な感じ。ちょっと恥ずかしさもあります。

文学フリマ38に出した『喪失と回復』という同人誌に寄稿してもらったのがきっかけだったのだけれど、TwitterのDMでやりとりをしたとき、最後に書いてあった「もっと仲良くなりたい」という一言を頼りに勇気を出して連絡してよかったな、と別れたあと電車に乗りながら考えていました。

 

私は、普段から友だちに「人を信用していない」「知り合って長いのに、未だに壁がある」「人と会っているときに頑張って盛り上げようとする必要はないんだよ」と指摘を受ける機会があまりにも多くて、ここ近年のコンプレックスであり改善したい点だったりします。先週も、ネットを通じて知り合った15年来の友だち4人と神田で飲んでいたんだけど、そのときも「ずっと人に気を遣っている」と言われて、あ~きっと私は私の周りにいる友だちや知り合い全員に同じように思われているんだろうなという事実に気がつきました。

実際に信用していないか? というとまったくそんなことはないはずなのに、他の人たちの関係性を眺めていると私は誰に対しても距離があるというか。なかなか踏み込んでいけないというか……。誰かと一定以上の仲になるのは私にはちょっと難しいのかもしれないな、とふとした時に考えます。それでも友だちはたくさんいて、わざわざ連絡をくれたり遊びに誘ってくれたりするからありがたい限りなんだけど……。やっぱり、こういうところも私は受け身なんだろうな。

 

実は、苔さんと会っていたときに過剰に盛り上げようとか、沈黙が嫌で饒舌になってしまうとか、話題が途切れたとき用に頭のなかでは次の話題の常に考えておくとか、私が想像できる範囲の「信用していない」と他者から思われてしまう言動や習性をできるだけ辞めてみたんです。これから、少しずつ辞めてみるつもり。性格や考え方、癖を直すのは難しいかもしれないけれど、ちょっとでも自分で気になる駄目な部分をマシにしたい……。

こうして往復書簡をはじめたくらいだし、LINEも交換して「本当に楽しかった 仲良くなりたいね」と言ってもらえたから私のなかにあった不安は払しょくされているけれど、話していたときに時折訪れる沈黙が本当はものすごく怖かった。それでも、あとで後悔するとわかったうえで間を埋めるための不必要な発言もできるだけしないよう我慢しつつ、いつもより落ち着いていられて、時間をかけて考えながら自分らしい発言ができた気がしています。別れたあとにいつもあるはずの「あのとき、ああ言えばよかった!」「こんなこと言わなければよかった!」という脳内反省会も比較的短時間で済んだかも。

周りの人が言う、〝素の自分〟とか〝ありのまま〟って一体何なんだろうね? 最近、よく考えています。気を遣うのも、話している相手を楽しませようと努力するのも、本当の自分のはずなのに。

苔さんは、周りの友だちからどんな人だと言われますか? やっと知り合えたばかりだからこそ気になります。それから、人と対話をしているときの癖や気をつけていることはありますか? 苔さんも苔さんで、割と気を遣う方なのかなと思ったので。教えてください。

 

今日は、同僚とランチに行ってインドカレーを食べながら、「人の何に惹かれるのか? どんな基準で『面白い/つまらない』と思うのか?」という話をしていました。最近、人と話をしていて珍しく「この人と話していても面白くないな……。」と思ってしまって、その理由を探していたんですよね。振り返ってみると、私は一次情報をたくさん持っていて、自力で世界を広げていける人が好きなんだろうな。なんか、人との関係に悩んでばかりいるね。

 

お会いしたとき、仕事がとても忙しいと言っていたけれど、そろそろ落ち着いた頃でしょうか? 私は尋常ではないくらいの寒がりで、街中やオフィス内を見渡しても大抵の場合は私が一番厚着……があるあるだったりします。毎年のことながら、冬を乗り越えられるのか心配です。おやすみなさい。

 

2024年11月10日 あたそ

 

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あたそ氏へ|自己分析と敷布団 

先日はこちらこそありがとね。こちらこそすごく楽しかったです。僕は遊びのレパートリーがすごく少ないので、友達と遊ぶときは大体「散歩」「ボーリング」「ゲーセン」「バッティングセンター」の4つのシフトを回しているわけですが、子供みたいなレパートリーゆえに人を選ぶので、あたそ氏が気に入ってくれるか少し不安でした。が、楽しかったと言ってくれたようで何より。子供みたいなレパートリーと言いましたが、大人になってから「遊ぶ=飲みにいく」という暗黙の等式を感じることが増えたので、それに抗っているということでもあります。子供みたいなことを、大人になってからも一緒にやってくれる友達は最高だし、そういう友達と一緒に行く夜のバーは特別魅力的だったりします。いつかバーにも行きましょうね。

 

書いてくれた不安も読みました。人を信用することが大事って風潮あるけど、信用を表す方法も、信用するまでにかかる時間も人それぞれだから、どうか気に病みすぎず。「人に気を遣う」と書くか、「人に心配りができる」と書くかの間に、大きな違いはないように思いますので。

 

沈黙が苦手なのは、僕も一緒です。すぐに間を埋めようとしてしまう。「たくさんおしゃべりできる人ほど仲良し」みたいな指標って心底くだらないと思うけど、それでも脳がその沈黙を「気まずい時間」だと変換して受け取ってしまうみたいです。この気まずさって何なんでしょうね。多分ですけど、沈黙を許容することってただただ自分がそこにいることを肯定することに近い。僕たちは、ただただそこにいる、ということができない。何か話題を提供しないといけない、つまりはなんらかの役割のようなものを果たさないと、自分はここにいてはいけないような気がする。人と人との関係性ってやっぱり、最初は役割から入ることが多いから、何もしなくてもただそこにいてもいいと思える関係を築くまでは時間がかかるんでしょうね。僕は一人でいる時でさえ、何をするわけでもなくスマホを開いてしまうんですが、それも根っこは同じような気がしています。「何もしないでそこにいる」ことは僕にとってはすごく難しい。あたそ氏はどうですか?

 

さて、こうして往復書簡を始めたわけですが、往復書簡って面白いですな。一般的にお手紙を書くときって、相手にしか読まれない前提で書くわけですが、これは人に見られるお手紙でもあるわけで、変なことを書けないなという緊張感もある。外向きの顔をしていると思えば急にあなたの目を見つめてみたり、あなただけを見ているかと思えばどこかで目線を逸らしたり、そういう絶妙なバランス感覚が求められているように感じます。けれども、そういうバランスの中でしか書けない言葉もあるんだろうと思います。就活の自己分析みたいなものですね。外向けのアウトプットを意識しながら自分の内面に入り込んでいく。そういうものを「本物の自己分析ではない」と批判する声もありますが、そういう時しか出会えない自分の一側面もきっとあるはずで。当然、その側面だけを自分の全人格なのだと思い込む心性や、思い込ませてしまう社会は病的なわけですが。

 

この流れで、あたそさんからいただいた「苔さんは、周りの友だちからどんな人だと言われますか?」というご質問についても考えてみました。考えてみて戦慄したのですが、そのとき一緒にいる人やコミュニティによって、自分がどんな人かが違いすぎる。共通点を取ってみるとおそらく、ある程度論理的であるとか、人当たりがいいとか、その辺りなんでしょうけど(多分それが初対面の人に抱かせる印象と一致すると思うのですが)。でもね、大体みんなそうだと思うんです。みんな、誰といるかによってちょっとずつ人格が違う。ただそのこと自体は何も悪くないと思っていて、僕はそれぞれの自分を楽しんでいるというと変ですけど、今日はこの人と会うってことはこういう自分になれるなとか、今日はこの人に会えて久しぶりにこういう自分になれてよかったな、とか思います。結局、誰かとの関係が深まるというのは、「その人と一緒にいる自分」の厚みが増えていくということなんだと思ってしまうし、そんな厚みを持った自分だからこそ、誰かのことを失うたびに、ああ僕はこの人と一緒にいる時の自分に会えなくなったんだなと寂しくなる。

とはいえ一方で、こういう人と一緒にいる時の自分が好き/嫌いという分別はあって、一緒にいて好きだと思う人はたいてい、自分の言葉を持っている人です。特定の言葉を使うことを避けたり、特定の言葉を自分なりの意味合いで使っていたり、そういう人は決まって自分に芯がある人でした。そういう芯がある人と一緒にいると、自分の中の知らない自分が触発されるような感覚がして面白いです。あたそ氏もその一人ですよ。

 

そういえば、あのとき秋葉原無印良品で買ったふわふわの敷布団と毛布は我が家で大活躍中で、ふわふわは正義であるという結論を確認した次第。昔から僕は大のふわふわ好きで、好きだった男の誕生日プレゼントにジェラートピケのパジャマをプレゼントしたことがあります。ただでさえ抱きついた時に最高な気分になるのだから、ジェラートピケを着させた上で抱きついたらもっと最高の気分になるだろうという期待を持ってプレゼントしましたが、プレゼントした次の機会にフラれて絶縁したので結局一度も抱きしめることなく終わってしまいました。あたそ氏は、これまでの人生で、人からもらった中で嬉しかったものやこと(思い出でも構いませんが)は何でしたか? 理由といっしょに教えてください。

 

あっという間に秋も終わってしまいますね。冬支度をしなくては。それではおやすみなさい。

 

2024年11月16日 苔

 

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少しでも先が気になったという方は、ぜひ本書をお手に取りくださいませ。

一通目なのでまだおとなしいですが、次から社会に悪態をつきまくる回が始まります。

例えば:
・親友の結婚式が家父長制すぎて祝えなくて感情終わった
・資本主義真っ盛りの労働環境、いい加減どうにかならない?
Twitterの言論空間って、安心して話せる場所がなさすぎ
・マンハッタンでセックスの誘いを断りました
恋愛至上主義、馬鹿げている

皆様との出会いを楽しみにしております!

 

 

 

 

社会的マジョリティへの異議申し立てドラマ『ひだまりが聴こえる』

左:航平、右:太一 の構図で外で弁当を食べているシーン

※このブログはネタバレを含みます。
※このブログ内で使用されている画像は全て公式HPのギャラリー内のものです。

 

 

2024年7月から9月までテレビ東京にて放送されていたドラマ『ひだまりが聴こえる』。

深夜放送枠でありながらもそのクオリティが話題を呼び、クランクイン!が発表した「2024年7月期『面白かった夏ドラマ』ランキング」ではその他ドラマを抑えて堂々の1位を獲得。

さらに、W主演を演じた中沢元紀と小林虎之介が、同メディア発表の「2024年夏ドラマ『演技が光っていた主演俳優』ランキング」でワンツーフィニッシュを決めるなど、各所で話題になりまくっている作品となっております。

 

あらすじを公式HPより抜粋。

難聴によっていつしか人と距離を置くことが当たり前になってしまった大学生の航平と、明るくまっすぐな性格の同級生・太一。正反対な性格の2人を繋いだのは、聴覚に障がいのある生徒に講義内容をリアルタイムで伝えるボランティア“ノートテイク”だった。不器⽤な2人の⼼を繊細に描いた、切なくも儚いヒューマンラブストーリー。

この作品は、オリジナルBLアンソロジーCanna」で連載中の文乃ゆきによる同名作の実写化となっており、ドラマ自体も男性同士の恋愛を描いたBL作品となっています。

※このドラマのストーリーやセリフはかなり原作に忠実なので、ここから述べていくポイントは大部分が原作にも当てはまります。文乃先生、誠にありがとうございます。

 

僕がこのドラマについて感想を書きたいと思ったのは、単純にドラマが面白かっただとか、小林虎之介のいでたちが個人的にタイプだったからという理由(だけ)ではなく、男性同士の恋愛というマイノリティ性と、難聴というマイノリティ性、その2つのマイノリティ性が交差するこのドラマが、広く社会的マイノリティを取り巻く社会問題に対して非常に示唆を与える作品になっているためです。

これまでにも聴覚障害のある人物が登場する、優れたBL作品は多くありますが、その中でも特に『ひだまりが聴こえる』が社会に対してもつ姿勢は一貫しているといえます。

 

話が長くなるので、ここからいくつかの章に分けて、論を展開していきます。

まず第一章ではこのドラマが一貫して「社会モデル」の立場から難聴を描いていることを指摘し、ドラマ内で映される社会に対する異議申し立ての例をピックアップします。

第二章では、その「社会モデル」を前提としながら、ドラマ内で難聴というマイノリティ性と同性を好きになるというマイノリティ性が重なり合うように描かれている構成について指摘し、続く第三章では、その重なり合いの中で、太一が自分の恋愛感情に気づくのに時間がかかってしまったことに言及していきます。

第四章では、ここまでの議論の先に、難聴の有無、そして異性愛/同性愛という2つの重ね合わされる〈境界線〉を飛び越える存在としての「太一」を描き出していきます。

最後に第五章では派生して、そうした太一と航平の関係性が、難聴という障害に閉じない形での様々な「マイノリティ性」の開示や捉え直しの中で変化し、深まっていく様子を描きます。

 

日本語の文章でしか届けられないのですが、届くべき人に届くと嬉しいです。

 

 

第一章「聴こえないのは、お前のせいじゃないだろ。」

太一「聴こえないときはそう言えよ。何回でも聴き返せよ。なんでお前の方が遠慮してんだよ。聴こえないのは、お前のせいじゃないだろ。」

第一話より

 

あらすじに書かれている通り、航平は突発性難聴による中途難聴(後天的に難聴になること)によって周りの音が聞こえにくく、日常生活において多くの不便を強いられています。

学生の当然の権利である授業を受ける権利を保障するために、大学側ではノートテイカーという授業の内容をメモにとる学生を募集しているのですが、ひょんな事から太一が航平のノートテイクを引き受ける、というところから2人の関係性は始まります。

ある日授業を終えて2人が食堂に向かうと、航平は他の生徒からやっかみを受けて取り囲まれるのですが、それを見た太一がその生徒に殴りかかります。

その後航平がなぜ自分を助けてくれたのか、どうせ何か言われても自分は難聴で聞こえないのだから、と尋ねた時、冒頭のセリフが太一の口から発せられます。

 

喧嘩で怪我をした太一の傷を手当てする航平

 

「難聴者が、周りの声が聞こえにくいのはなぜか?」と訊かれたとき、多くの人は「聴覚に障がいがあるから」と答えるのではないでしょうか。つまり、当人がもつ障害があるから、声が聞こえないのであるという説明の仕方です。

ただし太一は、周りの声が聞こえないのは難聴者自身のせいではなく、周りが問題なのである(だから何回でも聴き返すのは当然の権利である)とごく当たり前に主張します。

 

この太一の主張は、障害者の社会運動において主張されてきた「障害の社会モデル」に非常に近いものだと言えます。

研究者の松波めぐみ氏(2024)は、「障害のある人が制限や不利益を受けるのはその人の心身の損傷(機能障害)が原因である」とする「個人モデル」に対して、社会モデルを、「障害のある人が制限や不利益を受けるのは多数派に合わせて社会がつくられてきたために、様々な社会的障壁(社会のバリア)があるから」と説明していますが、まさに太一の言っている内容と重なる部分があります。この考え方は2011年の「改正障害者基本法」でも示されているものです。

※近年人に対して「害」という文字を当てはめるのが不適切であるという理由で「障がい」という表記が普及していますが、社会モデルに立つと、その人自身が不利益を受けるのは「(人ではなく)社会側に障害がある」ということになるので、「障害」という表記でも問題ないということが言われています。このブログではその考えに則り、漢字で表記します。

 

このような姿勢は、このシーン以外にもドラマ内で一貫して描かれており、いくつか紹介します。

第二話、太一が哲学の授業でノートテイクが間に合わず、教授が話している途中で「先生!ゆっくり!もうちょっとゆっくり話してください!」と声高に申し立てるシーンは、太一がノートテイクの初心者であることや航平の難聴とは状況が違うことを踏まえても、「聞く側」の理解の難しさは「話す側」に由来しているということを暗に示しています。

 

また第四話の航平が医師と話しているシーンでは、医師が以下のセリフを発します。

ストレスを溜めるのが一番(耳に)良くないですから。もっとも、聴こえる人に合わせて作られたこの社会の中で生活するのは、それが何より難しい事かもしれませんが。

このセリフもまた明確に、聴覚障害者の生きにくさや不便さが、聴こえる人に合わせて作られている社会の側に由来することを示すものでしょう。

 

他にも多くありますが最後に、第十一話において、航平と同じく中途難聴で普段周りに合わせようと苦労するマヤと太一のやりとりもまた、このドラマのハイライトになっています。

マヤ(手前)に話しかける太一

マヤ「私が頑張ればいいんでしょ。私がもっと努力して聞こえてるフリしなくて済むようになれば。私がもっともっと頑張れば。」

太一「そんなのおかしいだろ。なんでお前ばっかり頑張んなきゃいけねえんだよ。お前はもう十分頑張ってんだろ。」

障害を「個人モデル」で捉えようとすると、聞こえないのは難聴者が原因なのだから、努力するのは当人であるという思考に陥りがちですが、太一はその状況を「おかしい」と断言します。これもまた、変わるべきは当人ではなく周りであるという社会モデルの考え方を、わかりやすく反映したやりとりだと言えるのではないでしょうか。

 

 

また「個人モデル」の視点から障害を持つ人を描く場合、社会の中で懸命に努力する「健気」な性格として描かれることが多いかもしれませんが(参考:渡辺一史『なぜ人と人は支え合うのか』)、それ自体が好意的に見えてステレオタイプ化した描き方であるということにも、このドラマは踏み込んでいると感じられます。

第三話、(難聴であることを知らずに)航平に好意を抱いた美穂という女性が、航平のことを知ろうと太一を呼び出し、会話するシーンです。

太一(左)と美穂(右)が机を隔てて向かい合って話している

美穂「えっ…杉原くん耳聴こえないの?」

太一「いやいや、全然聴こえないわけじゃないんだけどね。」

美穂「ウソ…。やばい!この小説と同じ!主人公の女の子が耳の聴こえない男の子と出会って恋する話なんだけど、私今超ハマってて!かわいそうな彼のために尽くす主人公がマジで泣けんのね。私手話で会話とか憧れてたんだけど、今まで周りにそういう人いなかったし。なんか物語の中の人って感じ!」

太一「(机を拳で叩きつけて)何言ってんだよ。アイツは手話だって使わねえし、全く聴こえないわけじゃねえし、かわいそうだなんて勝手に決めつけんなよ!(※) それに、アンタにとっては物語の中の話でも、アイツにとっては現実なんだぞ!」

※注:最後のセリフは原作では、「アイツは手話で会話しねーし、全く聴こえないわけじゃねーし、自分のことは何でも自分でやってる。勝手にそんな小説と同じにすんなよ!」となっています。ドラマ版では全く聴こえないわけじゃないからかわいそうではない、というある種ろう者に対する偏見が含まれる論理のように見えますが、原作ではいつも助けを必要とする受動的でかわいそうな存在という偏見に対して、(できる範囲で)自分のことを自分でやる主体であるという論理が展開されていきます。

 

難聴であることを本人の許可なく伝えていいのかという点は重要な指摘ですが、ここで太一は画一的で偏見混じりな「聴覚障害者」に対するイメージを明確に批判しています。(ちなみにこのあと美穂は反省し、考えを改めてまた太一航平と友達になります)

 

加えて、先ほど言及したマヤは、いい面だけでなく、かなり性格がきつい人物としても描かれています。ただし、障害があるからと言って、性格が良いわけでも健気なわけでもないはずです(当然、障害があるからと言って性格が悪いわけでもない)。

人間、性格が悪い部分(とき)もあれば、いい部分(とき)もある。それは聴こえる人も聴こえない人も変わらない。1人の人間としてマヤが描かれていることが、この作品の誠実さの一側面なのかもしれません。

マヤの写真

 

ちなみにドラマ本編以外でも、例えば各種SNSでの動画はすべて字幕をつけているなどの合理的配慮がある他、製作時には俳優自らも難聴の人々に話を聞く機会を持ったことや、監修の方をつけているなど、誠実に社会に届ける上で必要なことをきちんと行なっている点も評価できるポイントだと感じています。(Xでの画像へのALT付記などは今後行われるといいなと思いつつ…)

 

ここまで述べてきたように、このドラマ、そして太一は一貫して、難聴による生きにくさを本人のせいではなく、社会のせいであると異議申し立てる姿勢を取っています。
この「社会モデル」の考え方が、同性を好きになるマイノリティ性の議論においても重要になります。

 

 

第二章「太一も、向こう側の住人なんだから。」

航平「期待しちゃいけない。太一も、向こう側の住人なんだから。俺がいけない場所にいて、そこに仲間もいるんだ。」

第二話より

 

この章では、このドラマのもう一つのテーマである、男性同士のラブストーリーの要素に射程を広げながら、難聴によるマイノリティ性と、同性を好きになるマイノリティ性の2つがどのように重なり合っているかについて述べていきます。

この二つの重なりが明確に示されているシーンがあるというよりは、ゲイである自分が、難聴者であるがゆえの困難に対して共感できる描かれ方を(あえて)されているのではないか、という提起に近い話なので、僕自身の解釈でしかないことあらかじめご了承ください。

ここで重要な指摘として、(ゲイでありながらも聴者である僕が)二つのマイノリティ性を簡単に重ね合わせて、共感しても良いのかということがあります。その二つを重ね合わせる背景は後述しますが、僕自身の知識不足や無自覚な偏見による物言いがあるかもしれないので、もしお気付きの方がいればご指摘ください。

 

第二話、打ち解けてきたかのように見えた航平と太一は、航平の一方的な「引け目」によって、一時わだかまりができてしまいます。

体育の授業中、自分が難聴であることで不要な「特別扱い」をされた航平は、自分(=難聴者)と、太一を含む周り(=聴者)の間の埋まらない距離を痛感し、冒頭のセリフをひとり、胸の内で発します。

体育館の壁にもたれて虚空を眺める航平

 

「"向こう側の住人"だから期待してはいけない」という表現は、おそらく様々な立場の人からの共感に耐えうる言い回しであり、その中には異性愛者に見える同性に片想いをする人も含みます(現に、侮蔑表現として「ソッチ系」という言葉があるほど)。

航平がどのタイミングから太一に恋愛感情を持ち始めたかは不明ですが、2〜3話で、少なくとも特別な想いを持ち始めたことが描かれていると読み取れるシーンも多く、その前提に立つならば、「聴者に対する感情」と「異性愛者に見える同性に対する感情」があえて混同されている表現だと読み解くこともできるのではないかということです。

 

この解釈をさらに深めるシーンが、第四話で見られます。

ここで航平は、自分の聴力が落ちているという診断、そして太一と美穂が何やら「いい感じ」であるという噂を同じタイミングで知らされます。これは航平にとって、聴者としての太一との距離がますます大きくなるという意味でも、異性愛者としての太一が女性と付き合って遠くに行ってしまうという意味でも、二重の意味で太一との壁を痛感させられるシーンとなっており、この後航平は一方的に太一に対して距離を置くようになります。

つまり、航平にとって太一は、聴者という意味でも、そして異性愛者の同性という意味でも「向こう側」であったと読み取れるように、このドラマが作られていると言えるのではないでしょうか。

 

その他にも、難聴によるマイノリティ性と、同性を好きになるマイノリティ性が重なり合いながら共感を生み出す要素が多く描かれます。その一つが、マヤが登場当初に太一たちに向けていた態度です。

マヤは、同じ境遇の先輩である航平が太一たちと仲良くしていることを知ったものの、太一のずさんなノートテイクの仕方などを見て警戒心を抱く他、太一たち聴者に対して以下のようなやりとりを繰り広げます。

マヤ(右)が太一(左)に対してノートテイクのずさんさなどを非難するシーン

マヤ「なんの悩みもなさそうで、お気楽でいいですね。どんな風に生きてきたか想像つくっていうか、まあ、なんの苦労もなく育ってきたんでしょうね。」

太一「待てよ。苦労してないなんて勝手に決めつけんなよ。よく知りもしないのに、お前の物差しで勝手に人の人生測んじゃねえよ。」

マヤ「なんであんたにそんなこと言われなきゃなんないの。うっさい。あんたみたいな分かったつもりでいる奴が一番うっとうしい。」

第七話より

 

マヤはこの後、一緒に時間を過ごす中でその考えを改めていくわけですが、出会って早々こういうことを言ってくるので、一視聴者としてかなり面を喰らいます。(マヤを演じる⽩⽯優愛さんの演技力が異常なほど高いので、より凄みがある。)

ただよくよく見ていくとマヤは、航平のことを守りたいという気持ちからこうした言動を取っていることも分かってきます。2人は同じ境遇の苦労をわかり合う関係であり、飲み会で周りの聴者に合わせようとして疲弊した愚痴をこぼし合うなど互いにケアし合う仲であることが描かれていきます。

愚痴をこぼしあうマヤ(左)と航平(右)

(飲み会帰り)

航平「やっぱ人が多いと疲れるね」

マヤ「私なんて全然会話が聞こえないからオフってましたよ。先輩やたら頑張るなあ、って。」

航平「頑張りすぎた。」

 

マヤを見たときの感想としてはまず「あらまあ・・・」という感情がくるわけですが、心のどこかで「わかる・・・」と叫ぶ自分がいることもまた事実なのです。

勝手に共感していいか全くわからないのですが、自分が差別的発言を浴びてヤケクソになっているときにノンケカップルを見て「ノンケたちは幸せでいいよな」と吐き捨てた若かりし頃の記憶が蘇ってくるし、異性愛者前提の恋バナの巻き込まれた飲み会の帰り道に、同じく同性愛者の友人と「途中から適当に喋ってた」と愚痴をこぼした景色が鮮明に思い出せるわけです。勝手に共感していいか全くわからないのですが。

 

その他、第一章で触れた「聴こえる人に合わせて作られたこの社会の中で生活するのは、それが何より難しい事かもしれません」というセリフの「聴こえる人」をあらゆる社会的マジョリティに置き換えると、様々な属性の人が共感しうる表現になっていますし、社会的弱者が付与されがちなステレオタイプについても、他の属性において同じことが言えます。

 

こう考えると、事情は大きく違えど、社会的マジョリティ(聴者/異性愛者)に合わせて作られた社会を生きていく、という意味においては難聴者と同性愛者という二つの社会的マイノリティがある種同列に語られうる余地があり、それゆえに、このドラマにおいて僕のような同性愛者が共感できるシーンがあるのではないかと思えてきます。

現に、第1章で言及した「社会モデル」の考え方も、その発端は障害者の運動でありながら、そのほかの社会的マイノリティにも適用可能な概念であることを松波氏は指摘しています。

マジョリティを前提にした社会であるからこそ、マイノリティの権利をとりもどすために合理的配慮が必要になる。本書では「健常者中心の社会」ゆえのバリアのことを書いてきたが、例えば「日本人中心の社会」であるからこその不利は膨大にある。「異性愛者中心でシスジェンダー中心の社会」であるからこその不利も同様だ。

松波めぐみ『「社会モデルで考える」ためのレッスン』p.156

 

 

第三章「いい加減、自分の気持ちに気づいたらどうなの?」

マヤ「ったく、どこまで鈍感なのよ。いい加減、自分の気持ちに気づいたらどうなの?」

太一「俺の気持ち?」

第十二話より

 

続くこの章では、難聴によるマイノリティ性と、同性を好きになるマイノリティ性の重なりについて、もう1人からの視点、つまり太一からの視点で考えてみます。

このドラマは1話から12話までという大変長い時間をかけて2人が結ばれるまでを描くものであり、太一に至っては12話目で、マヤからの言葉もあってようやく航平への恋愛感情に気づく始末となっています。

太一に自分の恋愛感情に気づくように伝えるマヤ

 

全読者が感じているであろう「なぜこんなに気づくのが遅かったのか」という問いに対して、「航平に聴覚障害があること」「男性同士の恋愛であること」の少なくとも2つがかけ合わさった結果なのではと感じられるシーンが多く見られることをここでは指摘していきます。

 

太一が航平に対する恋愛感情に気づくのに時間がかかった理由として、まず航平を助けたいという気持ちと恋愛感情の境目が曖昧であったことが仮説として挙げられます。

太一が航平について誰かに語るとき、それは常に愛の告白のようなものでありながら、同時に航平が生きづらさを感じるような社会の壁を無くしたいという願いのようなものでもありました。いくつか振り返ってみます。

 

航平の良さについて語る太一

太一「航平はさ、頭いいし、家もデケえし、女の子にもモテるし。でもさアイツ周りと関わろうとしねえで、なんでも自分で抱え込むし、自信とか全然持ってなくてさ。

(中略)

でもそれってさ、耳のせいで嫌な思いしたのが積み重なってさ、それがアイツの自信とかを根こそぎ奪ってんのかなって思ったらさ、なんかすげえもったいないって思ったんだよ。

航平はいいやつなんだよ。無口だし、無愛想だけど、すごい優しいやつでさ。みんな知らないだけなんだ。アイツがどんなに頑張ってるのか。アイツがどんなにいい顔するのか。

そういうの何も知ろうとしねえで、アイツのこと勝手に決めつけて、置いてけぼりにしてたんじゃないのかって。だから、アイツを1人にしちゃダメだと思って。だから俺……。」

第五話より

 

航平への想いについて語る太一

太一「俺ここで働いてみてよくわかった。伝えるって本当に難しいんだなって。研修とかやってるとさ、こっちが言いてえこととかちゃんと相手に伝わってんのかなって思うときあって。

でさ、聞こえてるやつ同士でもそんななのに、聞こえないやつはさ、もっとそういう気持ちになってんだろうなって思って。そりゃストレスも溜まるだろうし、自分の殻にも閉じこもりたくなるよな。航平も最初の頃そうだったし。

けどアイツすげえいい顔して笑うからさ、あの顔見たらもっともっと笑わせてやりてえと思って。1人じゃ無理かもしんねえけど、犀さん(社長)みてえな人たちと一緒だったら、聴こえなくても寂しくないって思えるような場所を増やしていけるんじゃないかなって思って。

それがいつかアイツのところにまで届いて、どこにいたってアイツが笑っていられるような、そんな世界にできたらいいなって思ったんだよ。」

マヤ「何それ。なんでそれ先輩に言わないの!?」

太一「航平にはなんか恥ずかしくて言えねえんだよ。」

第十二話より

 

側から見ると「もうそれ好きじゃん」と思うわけですが、どうやら太一自身は気づいておらず、しびれを切らしたマヤは「いい加減自分の気持ちに気づいたらどうなの?」と視聴者の代弁みたいなセリフを半ギレで繰り出します。

ここにおいて太一の思いは最初から変わらず、航平が笑っていられるような社会にしたい、そのために自分ができることをやりたいというもので、平たくいうと航平のことを助けたいという気持ちに近いものです。

この気持ちは恋愛感情に近いようでいて、けれど社会的に困難を抱える人の状況をどうにかしたいという正義感のようにも見えるため、案外「好き」とは気づきにくい。

 

そこに輪をかけるのが、男性同士の恋愛という側面です。

太一は三話で美穂という女子大学生と連絡先を交換し、友達からの「美穂は太一に気があるのでは」という言葉を真に受けて照れるような仕草をしています。

航平への恋愛感情には1年以上かけて気づくのに対して、美穂への恋愛ムードが出会ってからものの1週間ほどで出来上がっていく展開を見ると、スムーズすぎて意味がわからなくなってきます。(太一は航平との恋愛においては「鈍感」なキャラとして描かれますが、美穂とのシーンはむしろ先走っているのが対比的です。)

太一が美穂のことを本当に好きだったかはさておき、男女であるという設定だけでここまで順調に恋愛の可能性が提示されることは、ひるがえって男性同士の恋愛の可能性が非常に気づきにくいものであったことを示しています。

 

このように、一見個別の事象に見える二つの「イレギュラー」な状況が重なり合ったために、太一は航平に対する自分の気持ちに気づかぬままの時間を長く過ごすことになった可能性が高いのではないか、そう思ってしまうわけです。

 

 

第四章「全部はわかんなくても、こっちはわかりたいって思ってんだよ」

太一「お前は自分の気持ちをちゃんと言わなすぎなんだよ!」

航平「言ったってわかんないよどうせ」

太一「どうせってなんだよ。そりゃ全部はわかんなくても、こっちはわかりたいって思ってんだよ!なのに、お前が黙ってたら何もわかんないままだろ。」

第五話より

 

ここまで長々と「社会モデル」やら、難聴によるマイノリティ性と、同性を好きになるマイノリティ性の重なりやらについて述べてきました。

締めくくりとなるこの章では、それらの議論を踏まえることで太一というキャラクターがこのドラマにおいてどのような存在なのかという輪郭をより浮かび上がらせてみたいと思います。

 

太一のセリフの中に繰り返し登場する考え方があります。それは「決めつけるな」というものです。

「最初から諦めたりなんかすんな」「勝手に決めつけんなよ」、言葉は違えど、太一は他者に対しても自分に対しても、やってみる前に何かを決めつけて諦めたり、可能性を閉ざして欲しくないと思っています。

想いをぶつけ合う太一(左)と航平(右)

ここに、彼の「野生の社会モデリスト」的な思考も大きく関係します。太一は、「この人は耳が聴こえない人だ」と簡単にカテゴリーの中に押し込めたり、「この人は周りの声が聞こえないから」などと腫れ物扱い/特別扱いすることをしません。むしろ難聴者も聴者もひとりの人間であるのに、マジョリティ側が勝手に作った社会のせいで難聴者が生きにくさを抱えている。聴こえにくいからといって寂しく思わないで済む社会にするために、自分を含むマジョリティや社会の側が行動するべきであるという思想に立ちます。

ゆえに航平を「マイノリティ」という枠の中だけに閉じ込めず(当然必要な合理的配慮はしますが)、終始、可能性を持っているひとりの人間として航平と向き合い、自分と航平の間に不要な壁や線引きを置きません。

 

これを示す具体的なエピソードに一つ踏み込みます。(僕が好きなので)

前半における太一はノートテイクの講習を受けておらず、ノートテイクのクオリティはかなり低いものでした。ノートテイクの基本は「圧縮する、削ぎ落とす」ことで短い時間で必要な情報を書き留めることですが、逆に太一は必要な情報の書き留めに間に合っていないうえに、むしろ授業中に教授が口にした冗談を書き留め、周りの生徒が笑っている中で追いつけていない航平に教えて笑わせようとします。

教授の冗談を見せて航平を笑わせようとする太一

 

ノートテイクの基本ができていないので当たり前にマヤから非難されるわけなのですが、一方でこのシーンは太一の航平に対する想いをより鮮明に描いているように見えます。もしも必要な情報を伝えることだけを目的とするなら、授業の寄り道である「教授のギャグ」は削ぎ落とされてしかるべきです。しかしそうなると、内容はわかっても、授業を受けている空間の中で自分一人が笑えないという肩身の狭さを感じることになります。

内容とギャグ、どちらか一方しか選べないわけではないのですが、そういった削ぎ落とされがちな「余剰」にコミュニケーションの面白さや周りとの共通体験があり、それを何より伝えようとする太一の姿勢は、航平をひとりの人間として、その場にいてもいいと思ってもらえるように試みる愛情を示しているように見えます。

 

現に太一は第九話で、大学を中退して入る会社の社長に対して以下のセリフを口にします。

自分だけ違うって感じたら寂しいって思うし、誰といてもそんなんだったら、一人でいるのと変わんないじゃんか。でも同じことで同じように感じたり笑えたりすりゃ、そんな気持ちになることもないだろ。聴こえるとか聴こえないとかそんなの関係なくて、一緒にいるってそういうことだろ。

第九話より

航平が寂しくないような場所を作るために自分に何ができるのかを考えた太一なりの姿勢がこのシーンに現れていると言えるでしょう(後半で太一はきちんとノートテイクの講習を受けます。)

 

こうした太一の壁を作らない姿勢は、航平が難聴であるということだけでなく、同性を好きになることについても同様です。

航平は一度、第五話で太一に告白をします。それ以降も友達としての付き合いが続くわけですが、航平はどこかで、自分の好意が太一を怖がらせているんじゃないかという不安を抱えています。明言されていませんが、第二章で述べた通り、そこにはおそらく、異性愛者に見える太一に対して恋愛感情を持ってしまったという要素も絡み合っているはずです。

そんな中、第十二話で二度目の告白シーンがやってきます。

 

航平に自分の想いを伝える太一

航平「我慢しようと思ったけど、やっぱりダメだ。友達としてじゃなくて、好きだよ。今でもずっと太一のことが好きだ。いつも太一のことずっと考えてた。またこんなこと言ってごめん。」

太一「何だよ、そうやっていつも先に謝んなよ、俺まだ何も言ってねえだろ。俺だってお前のこと好きなのに。」

ここで太一はいつもと変わらぬ姿勢を見せます。それは勝手に自分が間違っていると決めつけて可能性を閉ざすなという姿勢であり、これがそのまま、恋愛感情を伝えるセリフへとつながっていきます。

ここで太一は、社会が作った枠組に惑わされずに航平を一人の人間として見つめ、そこに引かれた〈二重の境界線〉を同時に、ひょいと飛び越えていく存在として描かれているというわけです。

 

難聴によるマイノリティ性と、同性を好きになるマイノリティ性の中で、時折太一に対して「自分と太一は別の世界の住人であるから」と勝手に壁を作る航平。社会が作ったその壁を壊そうと「こっちは分かりたいって思ってるんだから諦めるな」と伝え続けていく太一の構図が、このドラマでは終始展開されていきます。

そうして最終的に航平は、太一との出会いを通して「向こう側にも居場所がある」と信じられるようになっていくのです。

 

蛇足ですが、この構図を見ると、『おっさんずラブ シーズン1』における牧と春田の関係性が想起されます。

同性愛者と異性愛者の壁を感じて春田を一方的に突き放す牧に対して、「お前はいつもさ、そうやって勝手に決めんなよ!」と叫ぶ春田は、『ひだまりが聴こえる』の太一の像と重ね合って映ってくるのです。

 

 

第五章「あのさ、ハンバーグの話なんだけどさ。」

太一「親(の離婚)のこと気にしてないって言ったけど、あれウソでさ。(中略)
このハンバーグ、あんときと同じくらい美味しいって思ったよ。ありがとな。……おい無視かよぉ。」 

航平「え?なんか言った?」

太一「何でもねえよ」

航平「ごめん聴こえなかったから。」

太一「何でもねえって、大した内容じゃねえから気にすんな。ほら、ノート(写し)終わったなら早く飯食っちまえ」

航平「太一が言ったんだよ。聴こえなかったら何度でも聴き返せって。聴こえないのは俺のせいじゃないって。あのとき嬉しかった。」

太一「……あのさ、ハンバーグの話なんだけどさ……」

第三話より

 

ここまでがこのブログの本題になりますが、太一と航平の関係性をより豊かに理解する上で重要なポイントを最後に付け足します。それは、太一の「(航平に対する)自分の弱さの開示」です。

太一は両親が離婚し、おじいちゃんに育ててもらっているというバックグラウンドがあります。普段はそのことについて気丈に振る舞う太一ですが、航平がハンバーグを作ってくれたとき、離婚当時自分が傷ついて周りに当たっていたこと、そんな中でおじいちゃんが作ってくれた黒焦げのハンバーグが美味しかったことを航平の背中に向けて語ります。

しかしその話を航平は聴き取れず、というところから、冒頭のやりとりが始まっていき、再び太一は、同じ話を同じトーンで航平に話し始めるという流れに移っていきます。ちなみにこの流れは原作にない、ドラマオリジナルのものです(天才?)

弁当を食べながら楽しそうに話す太一(左)と航平(右)

太一は自分の感情を出すことを全く厭わないタイプで、美味しい時も嬉しい時も不機嫌な時も全て表情に出る人間ですが、とりわけ航平に対しては自分の弱さもまた開示するシーンが見られます。特に先に挙げたシーンは、航平自身の難聴に対する考え方の変化と美しく呼応しながら、太一にとってパーソナルな傷を二度同じトーンで開示するという二人の距離の縮め方が非常に胸を震わせるものでした。

太一もまた難聴ではない形、例えば両親がいないことや、金銭的な余裕がなく自分で学費を稼がなければならないことなど、自分の人生における苦労を経験しており、比べられない様々な困難を抱えながら二人は仲を深めていきます。第二章で取り上げたマヤの「聴者は何の苦労もない人生を送っているだろう」という旨のセリフに対する太一の抗議にも、こうした背景があったのかもしれません。

 

太一のこういった感情の開示は他にもいくつか見られ、例えば第二話で航平にわざと無視をされたシーンでは「お前なんだよ、昨日から目合ったのに無視しやがって。傷つくだろうが!」と言ってのけます。

このような弱さの開示は、自分の弱さに向き合わないという「有毒な男らしさ(Toxic Masculinity)」とかけ離れたものであり、そういった観点からもこのドラマは規範性に対する投げかけを行なっていると言えるのではないでしょうか。

当然、このドラマが何らか別の形で、別の規範性を促進している可能性はあるので、その点については議論の余地に開かれています。

 

 

結び 聴者である自分にとっての『ひだまりが聴こえる』

ここまで、長々と論を展開してきたので、一度振り返ります。

まず第一章ではこのドラマが一貫して「社会モデル」の立場から難聴を描いていることを指摘し、ドラマ内で映される社会に対する異議申し立ての例をピックアップしてきました。

第二章では、「社会モデル」を前提としながら、ドラマ内で聴覚障害というマイノリティ性と同性を好きになるというマイノリティ性が重なり合うように描かれている構成について指摘しました。

続く第三章では、その重なり合いの中で、太一が自分の恋愛感情に気づくのに時間がかかってしまったことに言及をしました。

第四章では、ここまでの議論の先に、聴覚障害の有無、そして異性愛/同性愛という2つの重ね合わされる〈境界線〉を飛び越える存在として「太一」が描かれていることを論じました。

最後に第五章では派生して、そうした太一と航平の関係性が、難聴という障害に閉じない形での様々な「マイノリティ性」の開示や捉え直しの中で変化し、深まっていく様子を描いてきました。

ここまでくると、冒頭で僕がお話した「広く社会的マイノリティを取り巻く社会問題に対して非常に示唆を与える作品になっている」という意味合いもなんとなくご理解いただけたのではないかと思います。

 

僕自身聴者として、聴くという観点ではこれまで不自由を感じることなく生きてこれた上で(それはひとえに聴者前提で社会が作られているからなのですが)、いかに自分が無知だったのかを突きつけられるドラマでもありました。

難聴者とろう者の違いも知らなければ、聴覚障害者がみんな手話を使うわけではないこと、中途難聴者ゆえの苦労があること、人によって聴こえにくい角度や話し方があること、補聴器を付けている場合人混みの中だと声が聞こえにくいこと、後ろから急に触って止めようとするのは危険であることなど、このドラマで改めて気づいたことが沢山あります。

またこのドラマから派生する形で本を読むと、例えば聴覚障害者が緊急時にアナウンスが聞こえず例えば避難などが遅れるリスクがあること、かつて手話が禁止されていた時代があったこと、補聴器をイヤホンを間違えられやすいことなどなど多くの困難があるほか、耳マークや車につける聴覚障害者マークなどの印があること、聴覚障害者が暮らしやすいように当事者の運動や企業などのサポートがあってきたことなど、これまで自分が知ろうともしていなかったことが多くあることに気づかされました。またこれは、聴覚以外の障害においても同じことが言えます。
(ちなみに第二話で太一と航平が水を掛け合うシーンがありますが、補聴器が水に弱いということを知るとまた違う見方ができます。)

 

BLや男性同士の恋愛を描いたコンテンツを、異性愛者が安全地帯から楽しんで消費して終わりにして欲しくないと常々思っている自分ですが、聴者が、聴覚障害について描いたコンテンツにキュンキュンして終わりにするのではなく、現に起こっている当事者の困難を知り、日常生活などで自分ができることがないかを振り返る機会を持つためのきっかけに、このドラマがなるといいなと思いました。

いくつか、参考になるサイトも貼っておきます。

 

 

その流れで最後に、「ひだまりが聴こえる」の主題歌になっている川崎鷹也さんの「夕陽の上」のMVについていくつかコメントします。

youtu.be

このMVでは、航平を演じた中沢元紀さんが女性と(おそらく)付き合っているという設定で作られており、一部で批判が起こっていました。

この歌がドラマ書き下ろしではなかったことなど様々な事情があるでしょうし、「男性同士だけでなく広く恋愛を描く歌だから」という考えなどもあるかもしれませんが、一方でBLドラマに主演した俳優が、そのドラマの主題歌のMVで女性と付き合っている姿を見ることは、ファンにとって辛い部分もあるという主張も頷けます。(当初から予定されていたかは不明ですが、ドラマ映像を編集する形でのMVも後日公式から公開されました。)

 

僕はこのMVが男性同士で描かれるべきだった、あるいは今のままでよかったという判断をここでしたいというよりも、もう一つの視点を提起したいと思っています。それは、このMVに対して「なぜどちらも聴者(に見える人)として描かれているのか」という批判がなぜ見られなかったのか、という視点です。

MVを見る限り、二人は口頭で話し、特に補聴器なども付けていないように見えます。ドラマの設定に忠実に描き、当事者の方へのレプリゼンテーションを実現するならば、このような指摘もあってしかるべきなのに、それが見られなかったことに非対称性を感じ取ります。

僕自身、このドラマを見なければこうした視点を得られなかったと思うと、まだ僕に見えていないものが多くあると思うのですが、こうした素晴らしいドラマなどとの出会いを通して、いろんなことを学んでいきたいと思っています。そして少しでも、多くの人にとって「ひだまり」となるような暖かな場所がこの世界に増えていきますように。

 

とにかく、『ひだまりが聴こえる』製作陣の皆さん、キャストの皆さん、素晴らしいきっかけになる作品を誠にありがとうございました!!!!!!!!!!!!

 

 

※追記(2024/11/6)

文章内において、「聴覚障害を持つ」という表記をしていた箇所がありましたが、これは個人モデルに基づく表記法であり、僕が立脚している社会モデルの観点において誤った表現方法であることを読者の方にご指摘いただきました。

聴覚障害のある」という表記に訂正したことをご報告するとともに、お詫び申し上げます。

 

***

 

Appendix①:障害学とクィアスタディーズの(学問的な)重なりについて

より話を広げて障害者を取り巻く状況とクィアを取り巻く状況の重なりと違いに言及するために、障害学とクィアスタディーズというアカデミックなアプローチがどのように重なり合っているかについて少しだけ言及してみます。(僕はプロの研究者でもなんでもないので、私見の限りですが)

 

大きく二つのアプローチに分けると、まず一つ目に、健常者主義におけるマイノリティ性と異性愛/シスジェンダー規範におけるマイノリティ性がどのように類似し、どのように異なるかについて検討するアプローチが挙げられます。

具体に踏み込んでいる日本語の文献をあまり見つけられなかったのですが、たとえば『クィアスタディーズをひらく第3巻 健康/病、障害、身体』において、飯野由里子氏による「『見えない』障害のカミングアウトはなぜ難しいのか」という論考では、カミングアウトにおける複数の諸相を整理した上で、「見えない」障害のカミングアウトと、同じく「見えない」ジェンダーセクシュアリティのカミングアウトの類似点と相違点を描き出しています。

英語文献に目を向けると、包括的にクィアと障害者の経験の類似性と相違点をまとめていく論文が見つけられます。古い文献ですが、Mark Sherry氏による"Overlaps and contradictions between queer theory and disability studies"(「クィア理論と障害学の共通点と相違点」)などは様々な視点から論じている論文です。 ※この論文は友だちから教えてもらいました。

概要を読むと、かなり包括的に論じられていることがわかります。

This paper begins by exploring similarities in the experiences of queers and disabled people, such as familial isolation, high rates of violence, stereotypes and discrimination, and the difficulties associated with passing and coming out. Rejecting pathologization and politicizing access as well as using humor and parody as political tools have been important for both movements. The paper then considers similarities and differences in Queer Theory and Disability Studies as intellectual disciplines, by examining their debt to feminism, their opposition to hegemonic normalcy, their strategic use of universalist and minority discourses, their deconstruction of essentialist identity categories and their use of concepts such as performativity.

(拙訳)この論文はまず、クィアと障害のある人の経験の重なり─家族からの孤立、暴力の危険性、ステレオタイプや差別、パスとカミングアウトにまつわる困難─について検討を進める。脱病理化、アクセスの政治化、政治的な道具としてユーモアやパロディを活用することなどは双方の社会運動において重要であることを見ていく。その後、学問領域としてのクィア理論と障害学の間の類似点と相違点を検討する、例えばフェミニズムからの派生、権威的な規範性に対する異議申し立て、普遍主義やマイノリティの言説の戦略的な活用、本質主義的なアイデンティティ脱構築、パフォーマティビティなどの考え方の活用などである。

 

二つ目に、インターセクショナリティ的なアプローチが挙げられます。近年日本においても少しずつ浸透してきたインターセクショナリティは、大雑把にいうと健常者主義、異性愛/シスジェンダー規範などの差別構造の交差性に着目する考え方を指します。

正確な理解のために、以下の記事をぜひ読んでいただければと思います。

gendai.media

 

 

Appendix②:聴覚障害のある人物が登場するBL作品について

こちら数多くあるのですが、例えば詠里氏の『僕らには僕らの言葉がある』は、当事者の困難や聴覚障害に関する社会的な状況、医学的な解説などまで言及されている、特に学び多き漫画だと感じています。

 

 

【2年前の記事今さら公開】人生で初めて男と良い感じでヤバい

(※2年前に書いて公開しなかった記事を読み返したらウケたので、意味もなく今さら公開します)

 

 

 

 

 

 

お疲れーー最近どんな感じ?

 

え、ウチ?

ウチまじで何もないって。笑

いやマジ、本当に。目見て。

 

え、なんか顔がにやけてるって?

アンタのことだからどうせなんか男絡みなんでしょって?

 

・・・え待って無理、何でわかるん?すごすぎない?

アンタってまじウチのことわかりすぎてて本当に好きなんだけど。

え、経緯?経緯聞きたい?

いいでしょう、特別に教えてあげます。

 

〜茶番にお付き合いください〜

 

男との出会い

僕は基本的にはやっぱり日常生活で生きてるついでに恋に落ちたい派なんだけど、

僕ゲイで、基本的に周りがほぼノンケなのね。

ついこの前、ノンケに恋して痛い目を見たばかりですので、
重い腰をあげてアプリに本気を出し始めたわけ。

で、マッチした男とリアルして、今なんだかいい感じであるというステータスであります。(経緯パートは以上です)

 

まあでもやっぱり正直、アプリから恋に落ちる方法はまじわからん!

ほら、ウチら横顔族(自分といる時のその人よりも、他の人といる時や他のことをしている時のその人を見て好きになりがちな族のこと)って、日常生活でキュンとしてなんぼみたいなところあるから、やっぱ1対1で会うだけだとなかなかその人の良さがわからないというか。

やっぱり人間っていろんな顔の重なりの中にエロスが宿ると思うから、僕宛の顔しか見れない状況はちょっと難しかったりもするのよね。

まあでもどうしようもないから、最近はお互いが別々の作業をする時間を作ったりしながら、そこのところをカバーするようにしています。

理想の恋の落ち方じゃなくても、こういう風に工夫ができる自分のことは超好き。

 

あと、二人の共通の思い出がなく交際が始まるのもちょっと自分には難しかったりするの。

こう、いろんな二人の思い出が積み重なるうちに次第に好きになって・・・みたいなね、
そういう思い出の延長線上に偶然生まれた愛しか受け付けません!みたいなタイプのゲイだったんだけどさ、そうなるとアプリではどうしても難しいのですよ。

人にもよるだろうけど、アプリだと割と「最終的に交際に行き着く」ことを期待して出会いが発生するから、交際とかそういうの意識せず人間同士で出会った延長線上に愛が生まれるみたいなことにはなりにくいと。

まあでもさ!これももうしょうがないから!最近は色んなとこに行って共通の思い出を作ろうと頑張ったりしておりまして、僕たちって超けなげだよね。

 

日常生活での出会いはもう難しいってわかってるんだけど、でもやっぱり愛を諦めるにはまだ早いじゃん?

アプリでの出会い方に不満がないわけではないけど、ウチらってそういうのできるだけカバーしようと頑張れるタイプやから、この道の行き着く先に愛があるかわからないけど、ひとまず一歩ずつ進んでいる感じでございます。

やっぱり愛することも、愛されることも、まだ諦めたくないもんね。

 

 

男と出会って変わったこと

実は男性とこういう関係になるのこの人で初めてなんだけど、毎日めちゃくちゃ発見だらけだから、アンタにも教えちゃうよ、待ってなんかもうちょっと泣きそうなんやけど!ちょっとそこのナプキン取ってくれん?

 

さっきも言ったけど、この人と出会う前はノンケたちに片思いしまくってた時期があって、それはそれは悲惨な時期だったわけですよ。(今となっては思い出である。)

ノンケの本人が悪いわけじゃないんだけど、どうしてもノンケ=普通、ゲイである自分=おかしいと思って、自分の抱いている感情やそういう自分を責めたり、自分の欲望をなかったことにしようとしたり、自分は愛されない存在なんだって思ったり、そういうことをしてしまっていたわけです。

その時の僕は、とにかく自分を大事にしていなかったし、大事にする方法もわからなかったし、何より愛することも愛されることも諦めちゃってたのよ。すごい頑張ってたんだけど、もっと違う向き合い方もあったはずだって今になって思うわけ。

てか僕の読んでたBL漫画では頑張ればノンケも振り向いてくれるのが定番だったんだけど、今後は絶対に「※頑張ってもノンケは振り向いてくれないことが多いです」って書いといてほしいですよろしくお願いいたします

 

で、そんな中出会ったのが今の男なのだが、もう何もかもが違いすぎてウケるのよ。革命です。

初めて家に行った時に、お互いになんとなく好意を持っているなっていうのがわかってハグしたんだけどさ!!!僕が相手にぶつけている熱量と同じ熱量を返してくれているのが肌でわかってすごい感動しちゃったんだよね。

これまで、自分と同じ勢いのハグを返されなかった人生だったから、同じ勢いでハグを返してもらうのを求めてもいいんだって気づいたし、自分がそんな抱擁に値する人間であることを思い出せて本当にびっくりした。

 

まだ付き合うかどうかもわからないんだけど、僕ってこの人のことを好きになったとしてもその愛には行き場があるし、キスとかセックスとかをしたいという気持ちをなかったことにする必要もないんだなって思って、それが心底嬉しい。

自分の感情や欲望を間違っているものだと思わなくていいって、こんなに楽で穏やかだし、自分が望む形で人から愛されることを望むことも、実は何にも高望みじゃなかったんだって気づけて良かった。

 

マジどんな感想だよって感じだけど、うわー本当に自分と同じクィアっているんだ!!!と思ったのですよ。マジでどんな感想って感じだけど。

これまでありがたいことにクィアの友達はいたから孤独ではなかったし、クィアはいるって頭ではわかっていたんだけど、実際に握り返される手とかを見て、変な気分になりました。慣れるまでもう少しかかりそう。

 

これから、どうやって告白しようかなーとか、どっちから告白するかなーとか、まだまだ悩むことやわからないこともあると思うけど、ノンケのこと好きだった頃の悩みに比べたら何万倍も健康的で、それが本当に嬉しいわけ。

どの気持ちもなかったことにせず、安心して自分の気持ちと向き合うことができるような日が自分に来るなんて思わなかったから、しばらく存分に悩んでみる所存です。

 

 

ノンケのこと好きな人いたらこっち来なさい

いるよね?ウチわかるんだからね!!

本当に毎日お疲れ様です。

別にどっちが偉いわけでもないし、僕も卒業したわけでは全然ないから、偉そうなことは本当になんも言えないんだけど、一応どっちも経験した側としてのメッセージを残しておきます。

 

まず、ノンケってなんかすごい魅力的に見えるよね・・・すごいわかる・・・。

なんかこう、眩しく見えて好きになっちゃんだよね・・・すごいわかる・・・。

だからさー好きになっちゃうのはもう不可抗力だと思うんだよね、抗うの無理じゃない?本当にいい加減にして欲しいですよね。

 

だし、あなたがその人のことを好きなことはもう紛れもない事実だから、それは本来なかったことにはできない感情のはずなのですよ。

だから、今もしもあなたがその相手をずっとなんらかの形で愛し続けたいと思えているのならば、僕はもう家じゅうのプライドフラッグをかき集めてあなたの背中を見続けます。

 

でも、もしもあなたが、その感情をなかったことにしようとしていたり、その感情のせいで自分がクィアに生まれたことを責めてしまっていたり、誰かに愛されることを諦めそうになってなっていたら、少しこっちきて一緒に泣こや!!

本当にお節介なので聞き流してもらって構わないんですけど、僕はあなたにはできるだけ、自分が自分自身であることを責めて欲しくないのよ〜〜〜!!!!自分が愛されないことに慣れて欲しくないし、自分の感情をなかったことにするのに慣れないで欲しいのよ〜〜〜!!!!(それが自分を守るための応急処置であることは重々承知しています)

 

本当に全部、僕のお節介なんだけどさ、僕はあなたに、あなたとして生まれて来たことを肯定できるような場所にたどり着いて欲しいと勝手に思っております。(本当に誰なんだよ)

ノンケに恋するのが悪いことなのではなく、それで自分のことを恨んだり、それを相手のせいにしてしまうのが悲しいのですよ。誰も悪くないことを、誰かのせいにしてしまいたくなるのがとにかくさびしいのですよ。

(強いていうとシスヘテロ中心主義が悪いので、それは一緒に倒そうね)

 

 

 

ねーなんかさー、ほんとに泣けるよね(人生に対して)

でもさー、こんな感じで話せるから、悩みも喜びも全部あってよかったー!

 

次はあんたの話も聞きたいから、恋愛でも恋愛じゃなくても教えてほしいかも