「おっさんずラブ」卒業論文 ──「リターンズ」における同性カップルの描き方

0. はじめに

0-1. おっさんずラブリターンズの最終回に添えて

おっさんずラブリターンズ」が一週間のテンポを刻んでいた2ヶ月間が終わりを迎えた。金曜日、放送開始の5分前に慌ててお風呂から上がり、急いで体を拭いてスキンケアを雑に済ませていたあの時間が、やけに愛おしく思える。

この2ヶ月間、最新話を見ていない時間は全て、最新話を待っている時間と呼ぶことができた。何かが生活のテンポを刻むとは、そういうことである。

思えば、2018年のドラマ放送時も同じだった。若かりし同性愛者であった僕にこのドラマは、男同士が恋愛することは変ではなく、尊重されるべき愛のうちのひとつなのだと教えてくれた。このドラマがなかったら、自分のセクシュアリティを受け入れることもずいぶん遅れてしまっていたと思う。春田がみんなにとって太陽であるように、おっさんずラブという作品が僕にとっては太陽だった。

 

それから6年の月日を経て、「おっさんずラブ」が「リターンズ」として帰って来た。

春田も牧もあの頃の笑顔のままで、牧が「ただいま」と言った瞬間、世界が輝いて見えた。作中なんども笑ったし、共感したし、春田と牧が笑っていればそれだけでよかった。シーズン1であんなに自分の気持ちを殺していた牧が、自分の気持ちを大事にできるようになった姿が嬉しかったし、おっさんずラブ特有のスピード感で進んでいく1時間は、他では代えの効かない時間だった。ファンにとって、終わったと思っていたこのドラマが帰ってきたこと自体が、何よりのご褒美だったということは間違いないと思う。

 

ところがどうだろう、いつの日からかドラマを見るうちに、自分の中に引っかかる部分が見え始め、それは払拭されるどころか回を追うごとにますます自分には受け入れられないものだと感じられるようになった。次の話こそは、次の話こそは、とすがる気持ちも虚しく、最終回を迎えてもなお、その引っかかりは到底解消されるものではなかった。

ドラマのことは好きなはずなのに、見ている時間はどこか苦しくて、自分の大切なものを粗末にされているように思えることすらあった。あんなにも待ち遠しかったものを、何も考えずに抱きしめられなくなったのはなぜだろう。

その苦しさは、このドラマの制作陣の同性カップルを描く姿勢に由来するものだった。そしてその姿勢はときに、大好きな役者の口から発せられるセリフの形をとって僕の耳に響いてきたのである。

 

0-2. この文章の目的と検討内容

おっさんずラブはずっと僕の中で特別だ、けれどもう、おっさんずラブを好きだと言うには、あまりにも僕と制作陣の思想がかけ離れてしまったのだと思う。もし仮におっさんずラブがまた帰ってきたとしても、心から楽しみだと思えるか怪しい。またモヤモヤしまうのではないかという気持ちの方がおそらく勝ってしまう気がする。

この気持ちは「卒業」に近い。自分の生活のテンポを刻み、大切なことを教えてくれた場所を、名残惜しくも後にする気持ち。けれど、少なくとも制作陣のスタンスが変わらないうちは、この場所はもう僕がいてもいい場所とはどうしても思えないのである。

 

とした時に、最後に自分の思考を書き記しておきたいと思った。リターンズのどの部分が問題だったのか、その問題の背景はなんだったのか、2018年のドラマで感じたあの暖かな世界はどこに行ってしまったのか。言うなれば、「卒業論文」である。苦しかった部分の輪郭を明らかにして線を引くことができれば、好きだった部分を美しいままに守ることができると思った。もうファンだと言うことは難しいけれど、好きだったものを好きなままにしておくことが、昔の自分に対する供養だと思うし、おっさんずラブに対する感謝を示すことだと思うのである。

(もちろん、以下から述べていく感想以外にも、このドラマを見てポジネガ含むたくさんの感想を持ったのですが、ここではこのドラマの制作陣の同性カップルを描く姿勢について言及します。)

 

0-3. おっさんずラブを知らない人に向けて

おっさんずラブは、田中圭演じる春田創一と、林遣都演じる牧凌太、そして吉田鋼太郎演じる黒澤部長の三角関係をメインに据えながら、個性豊かな周りの人々を描くラブストーリー。

2016年のオリジナルドラマを経て、2018年に上記の俳優陣で連続ドラマ化をされブームを巻き起こした。2019年には劇場版が公開され、同年に、田中圭吉田鋼太郎を起用してパラレルワールドを舞台にした連続ドラマ「おっさんずラブ in the sky」が放送。2024年に満を辞して上記の俳優陣が再集結し、「おっさんずラブリターンズ」が放送された。

 

 

※以下、論文という設定をいいことに、なんだか堅くて、長ったらしい、偉そうな内容に見えるかもしれませんが、ご容赦ください。

 

目次

 

 

1.「おっさんずラブ」の同性カップルを描くスタンス

何が問題だと感じられたかに言及する前に、まず「おっさんずラブ」がどのようなスタンスで同性カップルを描いているかを概観してみたい。

 

1-1. 同性カップルを描くスタイルの整理

一般論としてなんらかの作品における同性カップルの描き方を大きく二つに分けると「同化」志向と「差異化」志向だと言える*。「同化」というのは、同性カップルと異性カップルを同じように描くスタイルであり、一方で「差異化」は、同性カップルが抱える事情が異性カップルのそれとは異なるものであると描くスタイルである。

どちらかだけの描き方というのはなく、この2つを両極においたグラデーションの中に、さまざまなドラマがプロットされていくわけだが、比較するとおっさんずラブは「同化」志向のドラマだということが言えるのではないだろうか。

おっさんずラブの相対的な立ち位置を俯瞰するために、国内の男性同士のカップルを描いたドラマをこの両極においてみたものがこちら。(それぞれ出自が違うため横並びにするのも乱暴な部分があるのですがご了承ください。)

左(同化)から順番に ・消えた初恋(2021) ・30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい(2020) ・おっさんずラブ(2018) ・あすなろ白書(1993) ・逃げるは恥だが役に立つ(2016, 2021) ・おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!(2024) ・隣の家族は青く見える(2018) ・きのう何食べた?(2019, 2023) ・同窓会(1993)

※すべて僕が視聴しての印象に基づくものです。 ※最後にそれぞれの立ち位置の理由も説明しているので、気になる方はご覧ください。 (ネタバレを含むため注意)

*注:「同化」↔︎「差異化」という整理については、『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』に収録されているハン・トンヒョン氏の論考「「社会的な望ましさ」をめぐるコミュニケーションとしてのPC」の整理に着想を得ました。元の論考では、差別の水準を整理するための整理として用いられているので、言葉の意味や使い方についてはこの記事内と異なる点にご注意ください。同化と差異化もそれぞれ別の形で差別につながる点については本論でも多少触れています。(すごく良い論考なのでぜひご覧ください)

 

1-2. 「おっさんずラブ」のスタンス

例えばおっさんずラブ(2018)では、職場での出会いから始まり、同性愛は異性愛と同じく恋愛のひとつの形であるというメッセージも多くちりばめられていた。牧がおそらくゲイを自認している点や、カミングアウトの難しさなどにも触れている点で完全に同じものとして描いているわけではないのだが、田中圭のインタビューでもあった「春田はゲイじゃない。ただ、相手が“牧だから”好きになったんです」という言葉を見ても、同性愛というよりも人間愛として描く傾向が見て取れるだろう。

また脚本家の徳尾氏もインタビューにおいて以下のように語っている。

「男性同士で恋愛するときにこういうシチュエーションが萌えるんじゃないか?」というよりは、男女の恋愛と同じく“恋愛ドラマを真っ直ぐに描く”ということが出発点でした。少女マンガ的な表現を“おっさん”が全力でやっているというところに、面白さを感じてもらえているのかなと。

(中略)

あくまで純粋に“恋愛”を描きたかったというのがスタート。でも、同性同士の恋愛を描く際に、LGBTの悩みや葛藤の中にコメディを入れることで、意図せず見ている方を傷つけてしまう可能性があるので、それはしたくないと。

なので、人と人が真っ直ぐ恋愛に向き合うことを主眼に置きました。

(中略)

最初のほうは「これをやったらマズイかな?」と悩んだこともありましたが、あるときから「同性同士だから面白い…とかでは全くなく、少女漫画的な表現に“おっさん”が真摯に取り組んでいるところが面白いんだ!」と気づきました。」

 

そこからさらに同化志向が加速していると思われるのが、おっさんずラブリターンズ(2024)である。「家族」になった二人を描いていく本作では、(法律婚はできないという言及がありつつも)「結婚」や「嫁姑」という言葉がとくに明確な定義なく使われ、同居や結婚式の場面でも、とくに同性だからという障壁が明確に描かれることなく進行していく。

劇中で春田や牧が悩みを抱えるシーンは多く出てくるのだが、それは同性同士のカップルだからというよりも、片方が家事をやらない、片方が仕事で多忙、義親の介護、価値観の相違によるマリッジブルー、嫁姑問題など、むしろ異性間の夫婦の悩みとしてこれまで挙げられがちだった内容が描かれている。

つまり「おっさんずラブ」シリーズは一貫して、男性カップル特有の問題や環境にはさほど焦点を当てず、むしろ異性カップルと近い描き方をされている点が特徴だと言える。

 

1-3. 過渡期における多様な描き方

重要なのは、この位置にプロットされるから即ダメだ、ということではないということだ。同化の描き方は、同性愛がおかしなものではないということを一般観衆に「わかりやすく」伝える上では一定の効果があるし(わかりやすさが正義とは言いませんが)、そもそも異性カップルが経験することは同性カップルが経験しないというわけではないので、その描き方が一定程度入ってくるのはある種当然でもある。また、差異化は現状の課題を正確に理解してもらう上で現実に誠実な描き方をしていると評価することができる。

すなわち未だ過渡期であり、差別の残る現状においてそれぞれの描き方があってよいわけだが、いずれの方向性でも気をつけるべきことがある点は考慮されなければならないだろう。例えば同化的に描く際は、現実の課題を「あまりにも」おざなりにしていないかに気を配る必要があるし、かたや差異化では、偏見を強める描き方をしたり、同性愛を禁断のものとして必要以上にアンダーグラウンドに描いてしまったり、やたらとバッドエンドに終わらせることは避ける必要がある。

一つの作品でも同化・差異化どちらの描き方も含むことがほとんどであり、明確な問題のボーダーも定めにくいのだが、それぞれの作品の志向性に応じて描き方のバランスを取っていく必要があり、それをコントロールするのが公共の放送物としての最低限のラインであると思っている。

 

そんな中でおっさんずラブリターンズは、「同化」の描き方において、踏み越えてはいけない一線を超えてしまった場面がいくつか見られたような気がしてならない。ここでは、2点挙げてみたい。

 

2. 「おっさんずラブリターンズ」が抱えていた問題点

2-1. 「結婚」「嫁姑」などの言葉の使い方

まずは、先に挙げた「結婚」「嫁姑」という言葉遣いである。ドラマ内では何度も結婚という言葉が出てくるが、法的な結婚ができないという設定の中で、この「結婚」が何を意味するのかは判然としないまま終わっている。

当然、個々のカップルによって結婚が何を意味するかは違っていていいのだが、とりわけ法的な結婚ができない状況においてはプロット上説明があってしかるべきだと思うし、法的な結婚ができないかつそれを望む人の動きが可視化されている現代において「結婚」という言葉を無邪気に使うこと自体、ある種無神経に見えてしまったことが否めないだろう。

 

また、それに乗っかる形で牧と黒澤の関係性が「嫁姑」という言葉で表現されていたことも指摘できる。牧と春田は男同士のふうふであり、本来はどちらも「夫」になるのだが、お互いの家事に口を出す関係性として「嫁姑」という比喩が使われている。

あくまで表現でしかないという点はあれども、同性カップルがこのような形で異性婚の文脈に回収されるのは「どちらかが男(役)でどちらかが女(役)」という旧来的な偏見の再生産にもつながりかねない点で注意が必要だったと感じる。
(本筋から外れるが、ふうふにおいて家事を主に担う方を安易に「嫁」とする点も、今の社会認識からすると問題含みだと言えるだろう)

 

結婚、嫁姑、いずれもただの言葉遣いであるものの、おっさんずラブはこれらの異性婚由来の概念を利用することで春田と牧の関係性を異性カップルのように描いている。

作中でも、異性カップルのような「制度としての結婚」はできないのだが、(その代わりに)異性カップルをとりまく「カルチャーとしての結婚」概念を当てはめることで、春田と牧は異性婚の夫婦に同化しているとも言え、それが同性カップル特有の課題や特徴を見えにくくする作用をもたらしている側面が否定できない。

 

※先述の通り、「この言葉を使ったら即ダメ」と批判したい意図はありません。2-2の内容も勘案したとき、「結婚」「嫁姑」という言葉遣いが制作陣のスタンスのいち現れだと僕自身で判断をしたため、上記の指摘を書くに至っています。

 

2-2. 法的保障における課題を軽視するセリフ

その作用が最も端的に表れていたのが、法的保障における課題を軽視するセリフである。春田と牧の結婚式にあたって、自身もゲイである武川部長は以下のセリフを述べている。

春田「俺たち(男同士)の場合、婚姻届を出すとか、そういうものがあるわけじゃないんで」
武川「そうだな。ただ世間一般の夫婦のように法的な根拠があったとしても、その愛が永遠に保証されるわけじゃない。お前たちのように仲間の祝福を受けるだけでも、俺は十分だと思う。」

おっさんずラブリターンズ 第6話より

このセリフを聞いた時、思わず「ああ……」と声が出た。先述の言葉遣いからなんとなく感じられていた制作陣のスタンスが、明確にセリフの形をとって届いてきたからである。異性カップルに同化することによって生じる、同性カップル特有の課題が不可視化される危うさが、明確に露呈した瞬間だった。春田と牧を祝いたいのに、このセリフの後でどうしても心から祝えない自分がいて、それが悔しかった。

法的な結婚ができない中で、結婚式に意味を見出す人の気持ちはわかるし、それを祝福したい人の気持ちも決して否定されるべきものではない。ただ「結婚式で祝福されるだけでも十分だと思う」という言葉を脚本に入れてしまえること、それが結局最後まで回収されなかったことに強烈な違和感を感じる。

結婚は永遠に愛を保証するものではなく、その関係を法的に保障することが第一であり、「愛があればなんでも解決できる」わけではないからこそ結婚制度が必要なのである。(武川の論理でいくと、そもそも異性カップルにも結婚制度は必要ないとさえ反論できるだろう)

 

ここ数年、同性婚/法的保障を求める動きはニュースでも頻繁に見られているし、裁判を起こした事例や結果も複数報道されているなど一般の人でも情報に触れる機会が多い中、同性カップルを描くテレビドラマの制作陣がこれらの情報に触れていないとは考えられない。にもかかわらずこのようなセリフを出すということに、昨今の法的保障を求める動きに対するカウンターの意図を感じてしまうし、その意味でこれは十分に政治的な主張であるといえる。

 

加えて、ここまで露骨ではないにせよ、第2話でも、夫との離婚経験のあるちずと春田の間で以下のやりとりが見られる。

春田「俺たちの場合さ、届出したわけでも結婚式したわけでもないからさ、考えるとフワッとしてんだよね」

ちず「まあ法的な根拠はないもんね でもさ、そういうのちゃんとやってても、別れるときは別れっから」

 

おっさんずラブリターンズ 第2話より

 

そして最終話の終盤、春田と牧によっても以下のやりとりが口にされる。

春田「あれから俺たちさ、ちょっとは家族らしくなったのかな」

牧「どうなったら家族って言えるんですかね」

春田「法律で証明されるとか、結婚式するとか、長い間一緒に暮らすとか、いろいろあるけど」

牧「でも、離れて暮らしてても仲のいい家族もいるし、近くにいても別れて家族じゃなくなる人もいるし」

春田「まあ、いろんな形があってさ、いろんな正解があるんだろうね」

 

これらに対する反論や、同性カップルの法的保障を求める別の登場人物が見られなかったことから、これがこのドラマの姿勢だと読み取ることができるわけだ。

法的な保障があるカップルも、法的な保障がないカップルも、みんな違ってみんないいという主張は、本人たちの意識としてはそうなのだろうし、この考え自体を否定することはできない。ただ、本当に「みんな違ってみんないい」のならば、なぜ法的な保障に値するカップルと法的な保障に値しないカップルを分ける制度が未だに存在しているのか。みんな違ってみんないいとフラットに言ってしまうには、まだまだ社会は不平等すぎる。

 

2-3. SNSで見られた反論

SNSを見ていても武川部長のセリフに対する意見は様々で、当事者ではない人も含めてこのセリフはよくないのではという提起がかなりの数なされていた一方、このセリフに対する批判に対してさらに批判を返す視聴者も一定数見られた。

一部にはなるが、そこで見られた批判の文脈に対する私見を書いておきたい。

 

■フィクションだからいいじゃん:

とりわけおっさんずラブのように現代日本をテーマにした作品である場合、現実社会とフィクションを完全に切り離すことは難しいと感じます。おっさんずラブを好きな人ならばよほど、フィクション作品が現実社会に及ぼす影響を知っているはずで、シーズン1が放送されたことが同性カップルに対するイメージを変えてくれたことをぜひ思い出して欲しいです。

■当事者のためだけのドラマではない:

おっしゃる通りおっさんずラブは当事者のためだけのドラマではありません。ただ間違いなく言えるのは、このドラマは当事者を扱ったドラマであるということです。当事者を扱ったドラマにおいて、それが不適切に描かれていると反論することは何も間違っていないと思います。(もちろん誰が反論したっていい)

■現実の課題を入れると面白くなくなる:

これはともすると「面白さのためであれば、現実の課題は無視してもいい」と受け取れます。本当にそう思っていますか。もちろんドラマの面白さは大事ですが、上記で挙げた問題点をこの作品から取ったら面白くすることができない、とは僕は思いません。

■批判するなら見なければいい:

ある作品を見るか見ないかを他人が決めることはできないという前提に立ちつつ、人は好きな作品に問題を見つけたらすぐにその作品を見るのをやめるのでしょうか。何か間違っていれば少しでも改善されるといいなと批判することは、何も不思議なことではないと思います。

■武川さんは元々少し不思議なキャラクターであるからそれを考慮したほうがいい:

これはドラマに対する批評として重要な指摘だと感じました。すべてのセリフは文脈に基づくので、それを吟味する必要はあると思います。ただし一方で、武川さんの言動が全て間違っていたかというそうではないため、この反論に基づくと、武川さんのセリフが不適切なものだったかどうかは、受け手の解釈に委ねられるということになります。そうなると、このセリフが不適切だという意見が「それはあなたの解釈ですよね」という個人の感じ方の問題にすり替わってしまい、議論が平行線を辿ってしまう懸念が生じると考えます。(また武川さんのセリフ以外にも似たようなセリフがあったので、ドラマへの批判は成立すると感じます。)

 

3. おっさんずラブリターンズで問題が生じた背景整理

今回のおっさんずラブリターンズで見られた問題が生まれた背景を考える上では、一線を超えた問題が見られなかったと言われる「おっさんずラブ(2018)」と比較することがヒントになると思われる。

単に2018年から時間が経ち、社会の変化に伴って視聴者の意識が高まったから問題視されるようになったという背景もあるだろうが、これまで挙げてきた理論を振り返った時に、2018年版とリターンズでは異なる事情が見えてくる。

 

3-1. 4象限でのプロットと現状整理

先ほど、同化と差異化という軸で男性カップルを描いたドラマをプロットしたが、もう一つ別の縦軸、「恋愛(付き合うまで)を描く↔︎家族・パートナーシップまで描く」を足してみると、以下のようになる。

■同化×家族・パートナーシップまで描く ・おっさんずラブ リターンズ(2024)  ■同化×恋愛(付き合うまで)を描く ・消えた初恋(2021) ・30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい(2020) ・おっさんずラブ(2018) ・あすなろ白書(1993)  ■差異化×家族・パートナーシップまで描く ・きのう何食べた?(2019, 2023) ・隣の家族は青く見える(2018) ・逃げるは恥だが役に立つ新春スペシャル(2021) ・30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい 劇場版(2022)  (中間) ・おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!(2024) ・同窓会(1993)  ■差異化×恋愛(付き合うまで)を描く ・逃げるは恥だが役に立つ(2016)

 

ひとくちに同化的な描き方をするドラマと言っても、BL実写化ブームの後押しも受けて増加したと思われる左下の象限に対して、家族まで描いた左上の象限に該当するドラマはほとんどなく、僕が知る限りではおっさんずラブリターンズが初めてであった。

逆に家族までを描いたドラマは、差異化的な描き方をした右上の象限に集中している。このように、恋愛までを描く場合は同化的に、その後の関係性を描く場合は差異化的にという傾向が見られるわけで、その要因はそのドラマの出自を含めて複数あると思うが、一般的に同性「カップル」が直面する困難というのが、婚姻制度の不平等に伴う病院立会い・相続や、周囲からの関係認知などだとすると右上に集まるのは理解できる。

逆に恋愛においては、本来は出会いの困難や「恋愛市場」の性質の違いがあり、その点は差異化的に描かれてもいいはずなのだが、とりわけ日本でのドラマは左側に集中しているのが現状だと言えるだろう(もちろん同性を好きになることの葛藤などもある程度描かれているのでひとまとめに批判できないのですが、とりわけBLを取り巻くその手の議論はBL批評で長らく議論されているので、そちらをご参照ください)。

 

3-2. 4象限における「おっさんずラブ」シリーズの位置づけ変容

この図においておっさんずラブ(2018)も左下の1つとして位置付けられるわけだが、リターンズになるとそれが左上に転じており、このシフトが冒頭で述べた問題の構造に関連しているのではないかというのが僕の考えになる。以下少し紐解いていきたい。

 

結婚と恋愛という縦軸は繋がっているように見えるが、現実的に考えるとその二つは違うもので、誤解を恐れずにいうと結婚は法的・政治的な制度を必要とするものであり、恋愛はそうではない(よくよく考えると恋愛も法的・政治的な制度の中の一部なのだろうが、その度合いが弱い)。そして、同性カップルを同化的に描こうとするときにも、この2つの違いがクリティカルに影響してくる。

恋愛面においては、もちろん同性カップルゆえの現実的な問題あれども現状恋愛ができないわけではないし、同化的に描くことによって同性カップルに対する偏見を払拭する一助になる効果もある。現におっさんずラブが2018年に社会現象になったことで、同性カップルはおかしなことではないというイメージに繋がったことも過小評価すべきではないと思う。(僕も救われました)

一方で家族まで描くとなると、現代社会を舞台とするならば、大前提として結婚ができずそれに伴う不利益が厳然と存在することは避けて通れない。イメージではどうしようもない不均衡がそこにはある。
つまり、同化しようにも同化できない社会的制約があり、その制約をぼかして描くことは、現にその制約に苦しんでいたり、その制約を取り払おうと活動している人にとっては不誠実だと映る可能性は高い。

前述した「制度としての結婚」には着目せずに「カルチャーとしての結婚」を当てはめるリターンズの描き方はその意味において問題含みであり、その延長線上に「法的保障がなくても十分」というセリフが生まれたのだとすると、それは一線を超えたものだと言える。

 

まとめると、同化傾向を維持しながら(むしろ強めながら)、恋愛から家族へテーマをシフトさせたことが、今回のリターンズが置かれた状況であり、この状況は細心の注意を払わなければ問題が起きやすい環境だったと言えるのではないかということだ。結果として、そこでいくつかの引っ掛かりが生まれてしまった。

 

3-3. 払われるべきだった注意の例

では同性カップルの家族像を描くドラマは同化的に絶対に描けないかというと、おそらくそうではない。

今回のリターンズも、結婚という言葉の意味を明確にした上でフラットに描くことはできたはずだし、武川やちずのセリフをなくすだけでも視聴者の印象は変わってくるような気もする。その結果、同性同士の家族もおかしなことではないというイメージが伝われば、第1弾同様に現実に対してもポジティブな影響が生まれた可能性すらある。(現時点でも一定あると思うのですが)

 

そのほか、例えば現代社会を舞台にせず、同性婚ができる世界線を舞台にすると割り切るだとか、フラットに描きつつも現実社会においては同性婚法制化のためのアクションを行うなどのバランスの取り方もありうる。

また監修をつければいいということではないにせよ、最低限のラインを担保する上では監修の役割は大きいだろう。おっさんずラブでは監修が入っている様子が見られないが、もしも本当に入っていないのだとしたら、今回指摘した2点については監修によって防げた見込みは大きいのではないかと思われる。

 

3-4. 「おっさんずラブ」とは異なる変容をした「チェリまほ」

また最後に、左下の象限から始まったが、続編でおっさんずラブとは別のアプローチをとった参考事例として、「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい(以下「チェリまほ」)」に触れておきたい。

 

※以下ストーリーのネタバレを含みますので、読みたくない方は最後の章までスキップください。

 

「チェリまほ」は、触れた人の心が読めるという設定の主人公と、その主人公に恋愛感情を抱く職場という男性同士の恋愛を描いた物語である。

設定上のファンタジー的要素を生かしつつ、2020年の連続ドラマではとりわけ同性における恋愛の困難などのシリアスな描写を避け、二人が付き合うまでを描くラブコメディの様相を呈していたが、2022年の劇場版では少し描き方に変化が見られた。

劇場版でも世界観自体は変わらないのだが、例えば付き合っているのに周りに知られていないから病院に駆けつけるのが遅くなる、互いの両親へのカミングアウトの難しさを描く(かなりシリアスなトーンで描かれている)など、同性カップル特有の困難を描くようにシフトしていた。

つまり図でいくと左下から右上へのシフトということで、付き合った後直面する困難を描いているという意味ではリアルなのだが、ファンの中では賛否が分かれ、急にLGBT啓発のようになった、急にシリアスになったと戸惑う感想も少なくなかった。
劇場版は、原作者から売り上げの一部をMarriage For Allへ寄付する旨も発信されるなど、同性カップルが付き合う中で直面する課題を描き、それに対してアクションまで行う姿勢を示している点で稀有な作品だと評価できるものだが、ドラマ版との連続性という意味で作品としての”魅力”を損ねたことへの不満も見られているわけである。

 

こう書くと「世界観」を愛するファンと、「リアリティ」を描く作品の間で対立があるように一見見えるが、そもそもそれを二者択一のトレードオフのものだと前提とすること自体がミスリーディングであろう。

世界観のためであれば当事者の課題を軽視していいというのはあまりにナイーブではないかと思うし、リアリティを出しながらもいち作品として世界観を守ることは制作陣の力量が試される部分であって、だからこそそのバランスの取れた作品が賞賛されるわけである。

ここまでの議論を「左下の象限から始まった作品が、付き合って以降の続編においていかに①作品としての一貫性を保ちながら②同性カップルの描き方を変容させるか」という問いに収束させるとすると、おっさんずラブは②での社会の変化に合わせて描き方・台詞をチューニングできず、チェリまほは①での作品として一貫性の受け止められ方について不満が見られたとまとめられるだろう。

 

4. 終わりに 

ここまで、おっさんずラブが同化傾向で描かれており、その中でリターンズは一線を超えた描写をしてしまったこと、それが2018年版とは違う状況において発生してしまったことを述べてきた。

 

なんだか偉そうに述べてきていますが、この記事を執筆している間ずっとリターンズ主題歌の「Lovin' Song」のInstrumental ver.を聴いており、あり得ないほど情緒がめちゃくちゃになっています。

おっさんずラブに対する批判を連ねながらも、同時に救われた記憶が蘇ってくるようなこの寂しい時間をなんという言葉で表現できるのか、それすらわからない。ただ僕はもうおっさんずラブを好きだと胸を張って言えないという確かな感触だけはあり、その確かさがやけに切なく思える。ドラマのセリフにモヤモヤしたかと思えば、春田と牧が愛し合うシーンを見て満足したような気分になってしまう自分のことも、あまり好きではない。

 

春田、牧。二人はテレビで「同性婚は認められない」というニュースを見ている時、どんな言葉を交わすのだろう。一生一緒にいてほしいと願い合う二人が、万が一どちらかの最期に病院での面会を断られてしまったとしたら、どんな気持ちがするのだろう。考えたくもないが、将来のことを考えて貯蓄しつづけた遺産が相続できなくなったら、どんなことを思うのだろう。

大好きな二人の幸せを願うからこそ、同性婚ができないのにその重要性を軽視するような世界観の中で生きる二人を見るのが辛かった。元をただせば不平等な社会が元凶であるし、全ての課題を描けとも、全てに忠実にしろとも思わない。けれど、課題に苦しんでいる/苦しむであろう人がいること、課題解決に向けて闘っている人がいることを軽んじる姿勢にはもう、付いていくことはどうしてもできない。

 

これから、不平等な世界が変わるのが先なのか、おっさんずラブのスタンスが変わるのが先なのかはわからない。

ただ願うのは、春田と牧が、同性同士だからと何かを諦めずに幸せな未来を描ける世界であり、それに寄り添うドラマの世界観である。いつかまた、そんな世界線の「おっさんずラブ」の続編を見たい。何も考えずにファンだと言える日が来たら、その時はまた、春田と牧のいいところを10個どころか1000個書き連ねたブログを投稿させてください。

 

補足①:坂口涼太郎氏のツイート

最終回に出演した坂口涼太郎氏のツイートでは、法的保障について言及をしてくださっています。これがあるからOKということでは全くないのですが、出演者の側からこのような発信をしてくれることの意義はとても大きいと思います。

 

補足②:女性同士のカップルを描いた国内ドラマについて

改めてこの記事を書いていて感じたのが、女性同士のカップルを描いた国内ドラマが、男子同士のものに比べてごく少数ということでした。すでに男性同士でこのような数作品が作られていることの非対称性も忘れてはなりません。

 

補足③:男性同士のカップルを描いた作品のプロット理由

先に載せた各ドラマのプロット図について、おっさんずラブを除く各ドラマのプロット理由を参考までに記載する。

※ネタバレを含むので興味がある方はご覧ください。

 

左(同化)から順番に ・消えた初恋(2021) ・30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい(2020) ・あすなろ白書(1993) ・逃げるは恥だが役に立つ(2016, 2021) ・おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!(2024) ・隣の家族は青く見える(2018) ・きのう何食べた?(2019, 2023) ・同窓会(1993)

 

(図の左「同化」から順に)

・消えた初恋(2021):

クラスで出会った二人のピュアな恋愛を描いたドラマ。途中ホモフォビックな登場人物が出てくるシーンはあるが、セクシュアリティに触れるシーンはほとんどなく、基本的に周りの友人も好意的な点が特徴。

・30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい(2020):

職場の同期同士の恋愛を描いたドラマ。基本的に露骨なホモフォビア描写は少なく、フラットに描かれるが、「ゲイ」を自認する登場人物も出てくる。

あすなろ白書(1993):

1990年代のゲイ・ブームの中で生まれた月9ドラマ。メインプロットではないが、主人公の男性に片想いする同級生が出てくる。同性愛=隠すべきことという圧力がまだまだ強い時代であり、結末も悲惨なものだが、周りの友人の反応は好意的であり、描き方としても恋愛の形の1つという描かれ方をしているため、中間寄りにプロット。

逃げるは恥だが役に立つ(2016, 2021):

ゲイを自認する二人が付き合うまでのストーリーがサブ的に展開される。露骨なホモフォビック描写はなく他のカップルと同じようにフラットに描かれているが、出会い方がゲイアプリ経由である点が特徴的。また続編では「同性カップルは死に目にも立会いが難しい」などの課題にも言及しており、同性カップル特有の社会環境も触れられている。

・おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!(2024):

出会い方も学校での一目惚れであり、カミングアウト時の同級生の反応などもフラットに描かれているが、親へのカミングアウトの難しさやアウティングなどの現実の障壁も具体的に描かれており、差異化にプロット。

・隣の家族は青く見える(2018):

メインの家族4世帯のうち、1つがゲイカップル。ドラマ全体ではフラットに描きながらも、アウティングや、親への紹介の難しさ、差別的言動など現実における障壁を描くとともに、最終的にパートナーシップ宣言を行う点が他に類を見ないドラマとなっており、異性カップルとの違いを明確に描いている。

きのう何食べた?(2019, 2023):

中年のゲイカップルを描いたドラマ。二丁目での出会いのほか、親への紹介の難しさ、差別的言動など現実における障壁を描くとともに、養子縁組での法的保障、同性婚とパートナーシップの違いまで言及するなど、同性カップルを取り巻く特有の社会環境を描くレベルが極めて高い。

・同窓会(1993):1990年代のゲイ・ブームの中で生まれた火10ドラマ。放送当時の世相を反映し、男性同士の恋愛=アンダーグラウント/禁断のものと描く度合いが強い。差別的な言動に加えて二丁目の描写や性愛描写が多く、当時の二丁目界隈のリアリティを目指したように見える。(僕自身は当時を知らないのですが、当事者からの人気も高かったらしい。)

 

 

「おっさんずラブ」に感情を引き裂かれているゲイの断末魔



人には感情を引き裂かれる瞬間というものがある。何かを大事にしたいのに、それを大事にすることが別の何かを傷つけてしまいそうなとき。何かのことがたまらなく好きなのに、それが同時に自分を傷つけてしまう棘を持っているとき。

 

僕にとってそれは「おっさんずラブ」である。

田中圭演じる春田創一と、林遣都演じる牧凌太、そして吉田鋼太郎演じる黒澤部長の三角関係をメインに据えながら、個性豊かな周りの人々を描くラブストーリーで、シーズン1放送時には話題を席巻した超人気作であるところの「おっさんずラブ」。それに僕は、いま、現在進行形で、感情を引き裂かれている。

 

思えば僕がゲイであることを自認し、それを一人で抱え込んでいた数年前、「おっさんずラブ」の存在は大きな光のようなものだった。

 

シーズン1の放送当時、もうなんか・・・春田・・・お前は罪なノンケ野郎・・・牧・・・お前は・・・お前は俺だ・・・(当時僕がノンケに大恋愛をしていたため)部長・・・わかる・・・愛を伝えることは大胆なのに、相手の気持ちを聞くことには臆病になるんだよね・・・ちず・・・あんたは絶対に幸せになりなさいね・・・武川・・・あんたちゃんと悲しんでる?ちゃんと泣いてる?・・・蝶子・・・あんたは「大人じゃない私」でいられる相手と一緒にいなさいね・・・ていうかRevivalとかいう曲良すぎる・・・「君に会いたいな」じゃないんだよ、お前が会いに行くんだよ!!!!!でも会いに行けないから、せめて会いたいなって言葉にするんだよね・・・

などとありえない量の感情が心をかき乱し、何も手をつけられず、、、

 

しかしながら、当時僕はほとんど誰にもカミングアウトをしていなかったため、ゲイバレを恐れて誰にも話すことができず、時たまツイッターで呻き声のようなものをあげては同級生に心配される(しかし呻き声の源泉を話すことはできない)という日々を送っていました。別垢作ればいいじゃんというツッコミはお控えください。

また当時ノンケに永遠に恋をしていた可愛い僕は、このおっさんずラブの牧の姿を見ながら、「だからやめろって言ったじゃん」と「ねえ、ウチもノンケに希望を託してもいいのかな・・・?」の反復横跳びを繰り返しながら、牧という存在が、僕の大恋愛を彩ってくれたのでした。まあ振られましたけどね、本当にいい加減にして

 

続いて2019年の夏、劇場版が公開されると飛ぶように映画館に行き、まずは一人で一回鑑賞し、大号泣。(しかし相変わらず感想を人に話すことはできない。)

あのさ・・・あの橋の上で牧が春田の髪についた芋けんぴとるシーンでさ・・・春田ってキスチャンスだと思って、牧の唇を見てるんだよね・・・・・・・。 急に何?

※2024/1/9 1:58 追記:
芋けんぴ」と書いておりましたが、正しくは「きんぴらゴボウ」でした。訂正しお詫び申し上げます。どこで間違えとんねん

 

で、なんと応援上演にも行ったのです。僕が応援上演に行ってファンの声援を聞いて号泣して話については、なぜか漫画家の伊藤正臣さんが漫画にしてくださっていますのでよろしければご覧下さい。(ほんとうにありがとうございます)

 

 

とにかくさあ!!!!!!!!!牧!!!!!!!お前は幸せになれ!!!!!!!!!僕が幸せにしてやりたいところだが、春田と幸せを作り出すお前を見たいんだよな

 

その後in the skyも見ましたが、なんかずっと「牧がいない・・・・・・・・・・・」という気持ちであまり感情を乗せることができず、もうあの「おっさんずラブ」には戻れないんだろうな・・・と諦めていたその時・・・「おっさんずラブリターンズ」発表。

 

あの牧が帰ってくるの・・・?と放送まで信じられなかったのですが、当日ドラマで「ただいま」という声を聞いた時なんかマジで号泣してしまい、おかえりいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!って叫んだよね。あんたが幸せになるのを見に来たからねウチは・・・・・・てか仕事忙しすぎない?ご飯とかちゃんと食べなさいね・・・

春田と牧を現在進行形で見られる幸せ・・・おっさんずラブのまだ見ていないエピソードがあるという贅沢・・・

 

てか、本当に、リターンズも、良すぎる・・・。

春田・・・お前、牧の前ではそんな声を出すのね・・・牧・・・お前、春田の前ではそんな表情ができるようになったのね・・・黒澤・・・あんた他の人に代行代わってもらえばいいと思うけど、ウチがあんただったら、ウチも続けちゃうと思う・・・ちず・・・あんたの子供は絶対立派に育つよ・・・社会よもっとシングルマザーに優しい社会になりなさいね本当に・・・武川・・・マッチングアプリは複数並行の方がいいから、ウチのオススメのアプリ教えたげるね・・・蝶子・・・あんた、かわいいよ・・・てかLoving songも良すぎる・・・王道ラブソングすぎてこんなのチャゲアスじゃん・・・前奏のメロウで重みのあるメロディーに、二人の愛の重みが出すぎている・・・あと現在進行形なのがいい

あとさァ!!!!!!!!ダブルフードの春田ってなんであんなにかわいいの(ブチギレ)。スタイリストにボーナス200億円あげてください

 

変わらぬ二人の痴話喧嘩のかたわら、僕自身には大きな変化が。誰にも感想を話せなかったシーズン1と違い、僕はもうカミングアウトをして、ツイッターでも感想をたくさん言えるようになったし、こうやってブログも書けている。

春田のことを好きって言えなかった牧が好きだと言えるようになった姿と、おっさんずラブのことを好きって言えなかった自分が好きだと言えるようなった今を重ねて、今もふつうに泣きそうで、誇張なしで、生きていてよかった・・・・・・・・・・・。頑張って生きていると、好きなものを好きって言える日が来るんだよ・・・・・・・・・。

あと昔好きだったノンケとは劇場版とリターンズの間で縁を切りまして、今は彼氏がいるので、おっさんずラブを見る視点も変わっているようで謎の感慨深さを感じています。シーズン1の時の自分に「おっさんずラブの続きが見れるし、その時には彼氏もできてるから・・・あんたは今の恋愛に安心して集中しなさいね・・・振られるけど・・・」て言ってあげたい。

 

もうね、ほんとうに、僕の人生に「おっさんずラブ」があってくれて、ありがとうございます・・・・・・・・・・。

 

・・・・・・。

 

・・・。

 

 

これでこのブログが終わったらどんなに幸せだったことか。

 

そう、引き裂かれていると冒頭に申し上げた通り、「おっさんずラブ」を諸手を挙げて好きと言えない事情がありまして。

むしろ、好きだからこそ、悲しく思ってしまうことがありまして。

 

おっさんずラブのこと、諸手を挙げて好きって思えている人が今いるのであれば、どうかその方にこそ、僕の感じているモヤモヤを聞いて欲しいのです。

そんなの気にせず楽しめばいいじゃんってツッコミはやめてね!!!そんなの僕が一番気にせずに楽しみたいと願っているので!!!!(ハチャメチャな感情)

※あと、特定のファンの方を批判しているわけではありませんので!!!!その辺りはご理解いただけると幸いです・・・・

 

まず「結婚」という言葉について。

僕が一番気にしているのは、直近のシーズン2で使われる「結婚」なるものが何を指しているかが(少なくとも現時点では)定かではないという点です。

コロナなどを経ていることからおそらく現代の日本と同じ状況であると思われますが、おっさんずラブの世界でも同性婚ができている気配はありません。
(ふうふ同姓制度のもとでは、仮に同性婚ができていれば、名字に関する言及などもおそらくあるだろうし・・・多分。) ※記事末に、作中での同性婚可否状況についての言及を追記しておりますので、あわせてご覧ください。

まだまだ男同士の恋愛に対して世間の目を気にしている描写が見られることから、おそらく世間の制約もなくなってはいないであろうと思われます。(春田と牧が手を繋ぐシーンも、決まって周りに人がほとんどいないシーンか、あるいは祭りの混雑の中など世間の目が気にならない場所になっている。)

 

にもかかわらず、春田と牧が同棲を開始したタイミングを「新婚初夜」と表現し、宣伝や記者会見などでも「結婚」の表記が見られている。結婚式や結婚指輪などのモチーフを用いていることからも、結婚を連想させることを意図していると思われます。

あくまでわかりやすさのための表現として「結婚」という言葉を使っているのだ、という擁護がありうるかもしれないが、だとしてもよくない。

個々のカップルによって何を「結婚」とするかはもちろん自由でいい。けれども、「おっさんずラブ」という同性間の恋愛を扱ったドラマで無邪気に「結婚」という言葉を使うことは、現実の同性婚ができない今の状況を不可視化させることに繋がりうるのではなかろうかと思うし、あまりにも現実を無視してしまっている点で不誠実ではないかと思ってしまう。

現実の世界において、どれだけ願っても結婚をすることができない(=法律婚による制度上の恩恵から排除される)カップル(おそらく春田と牧も含む)が多くいる中で、そんなに簡単に「結婚」という言葉を使ってしまっていいんですか、ファンたちに軽率に「結婚」という言葉を使わせていいんですか、とモヤモヤするわけです。

けっして、必ずしも春田と牧の日常を悲しく描けと言っているわけではないし、絶対に同性婚賛成のために何かアクションを起こさないとダメだ!と言っている訳ではありません(やってくれたら嬉しいし、アクションがないと消費だという批判は免れないと思いますが)。ただ、少なくとも結婚ができない現状において、「結婚」という言葉を使うことがあまりにもナイーブすぎるのではないかと・・・申し上げております・・・。

 

春田と牧が幸せそうな姿を見るのは嬉しいはずなのに、たとえば今僕と彼氏が結婚できないこの世界で、なんでこんな風に軽々しく(よりによって公式から)「結婚」という言葉が飛び交っているかがわからなくて悲しい。おっさんずラブに背負わせすぎだという反論もあるかもしれませんが、今の不平等な構造でそこをスルーしてしまえるのって何でなんだろうとわかりかねています。

 

 

そこに繋がる話としてもう一つだけお話しさせてください。

春田を演じる田中圭は以前「おっさんずラブ」の記事の中で、「春田はゲイじゃない。ただ、相手が“牧だから”好きになったんです」と語っています。この発言は、あえてゲイでない、人間どうしの愛なのだと語る点において蔑視とも取れるという批判もありますが、一旦その批判を脇に置くとしても、ある一つの設定上のモヤモヤを感じてしまうのです。

これはあくまで、BLジャンルの描き方において一部で見られていた話なので、おっさんずラブだけで背負うべき話ではないという前提付きなのですが、日本で人気になっているBL作品の多く(主語デカ)はとにかくセクシュアリティに関する言及を避ける。要するに男同士で付き合っているという関係性については言及しても、当人の性的指向については語られない。もっと悪くいうと、関係性や、あくまで関係性の中にいるキャラクターを重視して「消費」しているようにすら見えてしまう。

 

現実世界でも、ヘテロセクシャルを自認していた人があるきっかけで特定の男性のことを好きになることはあるだろうが、男性同士で恋愛している人のほとんどはヘテロセクシャルでない性的指向を自認する人同士がほとんどだと思います。にもかかわらず、なぜかその比率がドラマだと圧倒的に少なくなる。この問題の構造は大変根深いのであまり語れないのですが、この状況をひとことで言うと、日本のBLドラマの一定数が「当事者向け」に作られてはいないということであり、おっさんずラブも例に漏れないということではないか、と。

当事者のためだけにドラマを作れと言うつもりは毛頭ないのですが、この不平等な社会構造の中で、当事者の現実を軽視して男性同士の恋愛を描くことはあまりにもナイーブすぎると思うし、マジョリティによるマイノリティの消費の結果、「結婚」という言葉が軽く使われたりするのかなあと思うと、なんだかモヤモヤした気持ちになるのです。

 

もちろん、上で挙げた批判はおっさんずラブだけが悪いというよりも、結婚できないなどの社会の構造が前提おかしいという話なので、おっさんずラブだけを批判する気持ちもないのですが、せめて不平等な社会の構造の中で、その現実を無視しない姿勢だけでも見たかった。あなたたちと一緒にいるよって、それだけでも言って欲しかった。もしかしたらエピソードが進む中でそんな話も出てくるかもしれないし、おっさんずラブはずっと大事な作品なので、これからも見させていただきます。

愛と批判は絶対に両立すると思っています。だってほら、、、牧も春田のこと大好きだけど「家事ちゃんとして」とかめっちゃ注意してたし・・・・・・・・・・。

 

 

あああああああああああああアアアアアア!!!!

何も考えずに好きって言いたい!!!!!!!!!だってこんなにおっさんずラブのことを愛しているし、こんなにもおっさんずラブに救われている。なのにどうして、こんなにも苦しい。あああ日本の今の不平等な構造が憎い。不平等な構造の中でおっさんずラブは僕の一筋の光だったけれど、ときにその光はどこか眩しすぎて、僕(たち)じゃないどこかを照らしているように見える。

どうか、おっさんずラブの放つ光が、僕たちを正面から温めてくれると思える日が来ますように。そんな心地よい光は何よりも、春田と牧をいちばん温めてくれる光であろうと信じています。

 

 

 

※2024/1/7 2:06追記:

おっさんずラブの光の部分について、今回は僕自身が救われた話を主に書いていますが、現実の性的マイノリティに対する大衆の認知やイメージに大きな影響を与えた点も挙げられます。(その影響には負の側面もあったかもしれませんが、正の側面も大きかったように思います)

その点について改めて大大大感謝をしつつ、けれどもその「大衆化」の一方で、おっさんずラブが光を当て損なった部分があるのではないかという上記の内容自体は変わらないでございます、という考えを備忘として残しておきます。

 

※2024/1/7 23:28追記:

おっさんずラブの世界の中での同性婚の可否について、本作シーズン1で言及があったため補足として記します。シーズン1の第7話(最終話)で春田とその友人ちずの間で以下のやりとりが見られます。

 

(同性同士の結婚式についての話題の中で)

春田「よくよく考えるとさ、同性で結婚ってできんの?できないよな?」

ちず「うーん、でも今はパートナーシップ宣言とか色々あるし。それに式を挙げるのは自由じゃん?」

春田「そっか、そうだよな」

 

このやりとりから、おっさんずラブの世界での同性カップルを取り巻く法整備の状況は放送当時の日本と変わらないステータスであり、同性婚はできないがパートナーシップ宣言はできるという状況だということが見て取れます。(今も同じ状況ですが)

この点で現実に触れてくれているとはいえ、であればなおさらリターンズでの「結婚」が何を示しているかは触れられてしかるべきですし、いずれにせよ同性婚ができない状況で「結婚」という言葉を無邪気に使うことへのモヤモヤは本文で書いている通りです。

 

 

𝙂𝙖𝙮 𝙀𝙣𝙚𝙧𝙜𝙮充電アメリカ旅行記

 

 

待望の劇団四季ウィキッド」のチケットが即売れ切れになり買えなかったとき、脳内でこう聞こえました。「日本で見れないならブロードウェイでウィキッドを見ればいいじゃない。」

「誰?ウィキッドオタクのマリーアントワネット?」

確かにその選択肢には一理あって、今自分の手元にはパスポートがあり、コツコツ貯めてきた貯金があり、溜まり溜まった有給もある。唯一いなかったのは同行者だったが、ビザを取るのに同行者の名前を書く必要はないし、この際一人でもいいかと思って東京-ニューヨークの57日の往復チケットを取ってみた。

 

マリーアントワネットは続けて脳内で語りかける。「この際、LGBTQにまつわるスポットも巡ってきてはどう?」

たしかに。ニューヨークはLGBTQムーブメントが盛んというイメージはあったし、歴史的にターニングポイントになった「ストーンウォールの反乱」があったのもニューヨークだから、回れるところは多そう。(言い忘れていましたがわたしはゲイです)

いそいで「ニューヨーク ゲイ スポット」と検索していたら衝撃の事実にぶち当たる。「ゲイの首都」とインターネット上で呼ばれていたその街はサンフランシスコのカストロという場所だった。ミュージカルがたくさん見れるからニューヨークが「ゲイの首都」だと思ってたら違った。(※ミュージカルが好きではないゲイも多くいます)

 

ただ、サンフランシスコは西海岸でニューヨークは東海岸なのでアメリカの両端になる。また次の機会に行こうかなと思い始めた時、再びマリーアントワネットが脳内で語る。「ニューヨーク滞在中にサンフランシスコにも行けばいいじゃない」

な。そんなバカなと思って試しに航空券を見てみたら、ニューヨーク-サンフランシスコ間は安いもので片道10000円ほどで、所要時間も5時間程度。夜行便も出ているので旅程的にも全く不可能ではなかった。アメリカ国内線の乗り方もわからないままチケットを取って、気づくととんでもないスケジュールの旅程が出来上がっていた。

 

自由の女神メトロポリタン美術館も行かない。僕が行きたいスポットしか並んでいない旅程表。同行者がいないのだから、どこに行ったとて、何をしたとて誰も巻き込まない。僕だけが楽しければそれが答えである。

「ニューヨーク 行くべき」と検索したり、誰が書いたかもわからないおすすめスポット記事を読んだりしないプラン計画は、自分だからこそできる旅行のような気がして、Google mapsでピンを立てる度に自分の輪郭を確かめるような時間だった。(信頼できる友達たちにもたくさん聞きました)

 

この旅行記は、そんなアメリカ一人旅行の記録でございます。一人旅行の寂しさが唯一あるとすれば、それはその旅行を誰かと共有できないということ。ということでどうかみなさま、インターネット越しにわたくしめとこの旅行を共有していただけませんか。人に話さなくても自分の記憶はなくならないけれど、人に話すプロセスを経ることで、それはたしかな思い出になるような気がするのです。

 

注1:今回訪れたハワイ、ニューヨーク、サンフランシスコの3都市は米国の中で比較的LGBTQに寛容的なエリアですが、米国全州でそうだというわけでは決してありません。近年は複数の州でLGBTQに対するバックラッシュが激化しており、直近カナダではLGBTQ当事者の自国民に対して米国の一部の州に渡航することに対して警告を出しているほどです。ということを念頭に置いた上でお読みください。

※注2:記事中の写真はすべて筆者が撮影し、編集加工したものです。

 

【目次】

【各日訪問スポット:21000字あるので目次から気になる日程にジャンプしてね】

  1. ハワイ(乗り換え)
     ・Ala Moana Shopping Center
     ・Waikiki Beach
  2. ニューヨーク1日目
     ・MoMA
     ・Museum of Sex
     ・Times Square
     ・ゲイバー「Ritz
  3. ニューヨーク2日目
     ・Ellens Stardust Diner
     ・Soho
     ・Greenwich Village
     ・Christopher Street
      -ゲイバー「Stonewall Inn
      -ゲイバー「The Duplex
     ・ミュージカル「SIX
  4. サンフランシスコ1日目
     ・Pier39
     ・Fishermans wharf
     ・ケーブルカー
     ・Union Square
     ・Castro地区
      -ゲイバー「Twin peaks
      -イクラブ「LOOKOUT」
  5. サンフランシスコ2日目
     ・Castro地区 
      -GLBT HISTORICAL SOCIETY MUSEUM
      -Welcome Castro
     ・Twin Peaks
  6. ニューヨーク3日目
     ・The High Line
     ・Barns & Noble
     ・Christopher Street
     ・Empire State Building
     ・Central Park
     ・ミュージカル「Wicked
  7. ニューヨーク4日目
     ・Brooklyn
      -Dumbo
      
    -Brooklyn Heights
      -Brooklyn Bridge
     ・Wall Street

 

1. ハワイ(乗り換え)

今回ハワイ乗り継ぎの航空券を取っていたのですが、ハワイに着いたら次の便まで6時間ほど時間があることが判明。もともと予定にはなかったが、せっかくだし!とタクシーをつかまえてアラモアナショッピングセンターへ。ショッピングセンターと書いてある通り、日本のちょっとしたアウトレット的な雰囲気で、思ったより知っている名前のブランドばかりだったので、5分くらいみて退散。

ここからワイキキビーチまでバスで行ってもよかったが、歩いて30分だったので散歩がてら歩くことに。

温暖な気候で道も広く緑も見られてお散歩に最適。こういう場所の方が、その土地の雰囲気の一端を感じられてよい。

街中にはレインボーフラッグを掲げる店もちらほら見られて嬉しい気持ちに。(LGBTQ関連ではないお店でも当たり前に掲げられているのが日本ではあまり見られなくて嬉しい) 調べてみたらハワイは米国の中でもLGBTQフレンドリー度が高い州らしい。

レジの奥にプログレスフラッグが。

そんなこんなでワイキキビーチに到着、予想の5倍くらい海が綺麗!午前中なのに人も多くて、午前から海に来れる暮らしの豊かさに打ちのめされる。

なんだか熱海みたいですね(怒られろ)

一つ思ったのは、日本だと特に、こういうビーチで水着を着ているのって痩せている人や若い人がほとんどな気がするけど、ハワイではどんな体型や年齢の人でも当たり前にそこにいた。人の体型や見た目をジャッジする/されているという考えがないからかもなと思った。

ビーチは自分の体が見られる場所である前に、たんに海の雰囲気を楽しむ場所であって、そこにアクセスするのに自分の見た目は本来関係ない(はず)。ここだけ見て日本とハワイの違いと単純化することはできないけれど、ハワイの暮らしの一部を通して日本の暮らしを振り返る時間は旅の醍醐味だと思う。

 

帰りはバスで空港へ。バスからはワイキキ近辺の有名なゲイバー「Bacchus Bar Waikiki」が見えた。いくつかあるゲイバーの中でも最も有名なものらしいので、また次の機会に。

 

2. ニューヨーク1日目

午前中にJFK空港に到着。小雨が続く中、タクシーに乗り込んでマンハッタンへ。(ニューヨークはマンハッタンを含めた5つの地区から成り立っているが、ニューヨークと聞いて多くの人が思い浮かべる景色があるのがこのマンハッタン。僕がメインで滞在・観光するのもここ。)

45分くらいで到着し、ホテルに荷物を預けて散歩。ニューヨークは街が碁盤のようで常に左右を建物で囲まれており、どこを見ても威圧感とともに絵になる。街自体はゴミも多く大麻の匂いなども至る所でして結構大変なのだが、そういうのも含めてニューヨークなのだと有無を言わさず納得させる凄みがある。

タイムズスクエア〜ブロードウェイ付近

道端の店にもちらほらフラッグが掲げられているほか、歩いていたらふつうに同性同士で手を繋いでいる人も少ないながらいて、ふつうに暮らすってこういうことなのかと思う。

ふと見かけた広告にも目を惹かれる。女性の体毛について投げかけるキャンペーンが広くニューヨークで展開されているようだった。

私たちの10人に6人が女性の脇についてジャッジしていることを認めました。
それを変えよう。というメッセージ。
女性だけを鼓舞するだけでなく「周りの私たち」を変える姿勢が誠実だと感じる。

MoMAニューヨーク近代美術館に到着。とにかく広いので足早に回って好きな作品を見つけては怒られない程度に近づいて見て写真を撮ってと品のない動きを見せる。現代の美術作品が多く社会問題に関連したものも散見され、特に人種や戦争をテーマにした作品も多かった。

MoMAの中ではゴッホの作品が有名で人だかりができていた。有名であることには相応の理由や背景があるが、並んで写真を撮って退散なんてなんだかスタンプラリーのような気もする。例に漏れず僕も写真を撮ったわけですが、個人的に油絵の作品は近づいたり横から見ると絵の具の盛り上がりやこんな色使ってたのかという発見があって面白い。一つひとつ筆を重ねて描いたんだなゴッホが生きていた痕跡に触れることができる。
美術館の良さは二次元媒体でしか見たことのなかった作品を三次元空間で見れることだなと思った。

ゴッホの絵が大人気

MoMAに来たから全部見なきゃと思う必要はなく、目に止まったものだけじっくり見て、そうじゃないものはスキップしてもいい(一人だし)。帰り道、カメラロールが僕の好きな作品だけで埋め尽くされていたのが嬉しい。

 

続いてセックス博物館へ。セックスや性、ジェンダーなどについての展示がある。1階はグッズ売り場で、ディルドやバイブレーター、ローション、ボンディング器具、コンドームなど実用的なものから、靴下やお菓子などのお土産品までさまざま。当然、多様な性を想定したグッズも置いてある。

お土産に買って帰ればよかったものランキング1位

展示の内容としては、性に関する歴史的な道具の展示や、性描写が描かれてきた映像作品、音楽、広告などの歴史の展示、ジェンダーバイアスの可視化などかなりボリューミーな内容。

ピンクが女性に割り当てられがちなことの奇妙さを強調的に打ち出したインスタレーション

性をオープンに語ること自体も重要であるし、性をオープンに語ることで初めて気付ける(たとえば男女間の)不均衡もある。エンタメとしてのセックスとそれを取り巻く政治/社会構造としてのセックスのつながりが見られたのが印象的だった。

最後にはフォトスポットやゲームコーナーがあって、ゲームで周りの人に勝つと「Sex God」の冠がもらえる。わたしはSex Godなので当然勝ちました。

ゲームセンターの入り口。雰囲気が一変する。

 

暗くなってきたのでタイムズスクエアへ。圧倒的な情報量で目眩しそうになるけど同時に目線が上がる場所だ。渋谷と似たようなものだと思っていたが、電光掲示板の量が全く違う。雨だと光が地面にも反射するのでなおさら明るい。

 

1日の最後にヘルズキッチン地区へ。

ヘルズキッチンは最近流行っているオシャレなエリアらしく、若者向けのレストランやバーなどのほか、「イケてるゲイ」が集まる場所とのことでゲイバーやクラブも多かった。

今回は「Ritz」というゲイバーに。ここで僕は一つの課題に直面する。全く話しかけられないのである(今考えると当たり前だが)。

僕以外の客は全員グループ客で、お互い話しているかディープキスをしているため見向きもされない。当たり前だが店主も馴染みの客と話す。全員その場所での暮らしがあるわけで、わざわざ観光客をもてなすボランティア精神はないという当たり前のことに気づいたものの、無力感でお酒を二杯だけ飲んでホテルに帰宅。手痛い学びである。

 

3. ニューヨーク2日目

ニューヨーク2日目、小雨が降り続く中、朝食を食べにエレンズスターダストダイナーへ。

ブロードウェイ地区の中にあり、ブロードウェイで演じることを夢見るミュージカル俳優の卵がミュージカルの楽曲を歌いながらサーブしてくれる有名なレストラン。
ドラマgleeでレイチェルたちが学校の合間バイトをしていたことでも有名で、1時間待つこともザラだと言う。少し高めの値段設定だが、次から次に生歌が聞けて、となりでさっきまで紅茶を運んでいた人は唐突にハモり始めるわ、さっき歌っていた人が給仕してくれるわ、というなんとも豪華な場所だ。

 

30分ほど滞在し、己の無知ゆえなかなか知ってる曲が歌われなかったなー、と思いながらお会計をしようとしたら、MCがこう切り出す。

「次の歌は、女性二人が主演を演じる...」 ん?

「現在も近くの劇場で上演されている...」 もしや

「二人のうち一人は“緑色”ではなく...」 ビンゴ。Wicked確定である。

聞き覚えのある前奏が始まったのに合わせて、急いで追加のドリンクを注文し、劇中歌「Defying Gravity」を堪能。ミュージカルではエルファバが空中にリフトするSo if you care to find me…♪のパートでは、シンガーに送風機で風を送るスタッフも登場、客の盛り上がりも相まって完全にミュージカルの気分。生きているとこういう幸運もある。

 

続いてソーホー地区へ。ソーホー地区は石畳のおしゃれな雰囲気で、ここにはアメリカで唯一のクィアを常設テーマにした「レスリー・ロフマン美術館」がある。芸術とLGBTQのつながりは挙げればキリがないほど深く、このような美術館が常に開かれていることは、社会的意義の他にもクィアアーティストがアーティストとして生計を立てて生きていく上で重要であると感じる。

僕が行ったときはグループ展示と個人にフォーカスを当てた展示が開催されていた。

グループ展示のテーマは「Home」。クィアの人々が感じる「Home」に対する希求などを作品を通して感じることができる。

一方個人展示はゲイ写真家のクリスチャン・ウォーカーの人生を知られざる人生を追った展示だった。すでに知られているアーティストも多くいるが、まだまだ知られていないアーティストを発掘し光を当てる上でこのような美術館の果たす役割は非常に大きい。持続可能なクィアカルチャーのために、これからもずっと続いてほしい。

 

お隣のグリニッジビレッジも、昔からアーティストが住んでいた街として有名で、おしゃれなレストランやカフェ、ショップが並ぶ街だった。

どの道を選んでも楽しくて、地図を見ずにどっちの道に進もうか考えたり、後戻りしたり、立ち止まって写真を撮ったりする時間を通して満たされていくのを感じる。
自分の直感を信じて身を任せることや自分がやりたいと思ったことを否定せずにやってあげるという小さな積み重ねが、自分と自分の間の信頼関係につながっていくというのは当たり前のことなのに、日本での日常生活でそれができていなかったことを気づくために、わざわざニューヨークまで来てしまった。

思わず立ち止まったオシャレな花屋さん

グリニッジビレッジを通るクリストファー通りには、アメリカのゲイ解放運動のターニングポイントと言われるストーンウォールの反乱があった「ストーンウォールイン」という現役のバーや、記念公園などがある。

工事中のストーンウォール・イン。(後日再訪した時の写真なので晴れている)

記念像や記念碑がある、ストーンウォール・インの目の前の公園。

歴史を振り返るパネルが公園の周りに貼られている

そのため辺りには記念碑があったり、ゲイバーやクラブが数店舗あったり、フラッグを掲げたレストランなどがある(金融機関もレインボーになっていたりする)。

 

とはいえグリニッジビレッジ一帯はそこまでレインボーではなかったりするのだが、これはおそらく「そう見えないだけ」というのが正しい。

例えばその辺りの住宅街にはかつて運動に貢献した当事者やアーティストがもともと住んでいた家や、かつて当事者が集まるバーだった場所が多くある他、10分ほど歩くとLGBTQのコミュニティセンター(有名なGLAADACT UPなどの団体もここから生まれたそう)やAIDSに関するモニュメントがあったりと、数え切れないほどのスポットがあったりする(僕は見逃してしまっていたのだが!!!!)。

また近くのワシントンスクエアアーチ公園も当時、当事者の集会や溜まり場になっていたらしい。

とりわけLGBTQコミュニティはエイズ危機や社会の弾圧などの時代を経たが故に、過去にはそうだったが今は痕跡すら見えない場所も多くある。そういった見えなくなった過去の史跡も含めてマッピングするプロジェクトがニューヨークでまさに行われているので、ぜひ参考にしてみてね。

 

通りを歩いていて思ったこと。僕自身ゲイであることがようやく板についてきたのは、間違いなく過去の先人たちが反旗を翻し権力に立ち向かってくれたからだ。わざわざ「プライド」と声高に言うまでもないという声も最近散見される中だが、先人たちが「プライド」を持てなかった時代からシンボルとして掲げ、一種のアンブレラタームとして機能し続けてきたこの言葉に敬意を払いたい。

また一連の運動の中には当然ゲイだけでなくレズビアンバイセクシャルトランスジェンダーなど様々なセクシュアリティの人々が多大な貢献を果たしてきた。昨今言われる「LGBT」という言葉に括られたくないという言説の意味も一定理解できる一方で、今多少なりとも僕がゲイとして生きていけている土台の下には、数えきれないほどのコミュニティの力があったことを忘れたくない。

 

この地区のゲイバーは昼からやっていることも多く、ひとまずストーンウォールインに入ることに。中はレインボーの電飾があって気分が高まる他、各種プライドフラッグの意味やストーンウォールについて学べるボードもあり、楽しいバーだけではない歴史的な文脈を感じることができる。

歴史的な場所を前にして、これまで生き続けてきたすべての先人たちへの感謝と連帯、そして僕がこうしてこの場に来れたことを祝うための乾杯をしたい気分になり、誰かいないかなと見回す。

一人で来た風の人がちょうど近くに座ったので、昨晩の失敗を活かして、ビールを流し込んで勇気を出し「乾杯してくれませんか」と声をかける。

その人はブラジルから一人で来た旅行客で、これまでのお互いの旅行の話、アメリカのファーレンハイト表記の温度が分からんという不満、お互いの国で同性婚ができるか、カミングアウトどんな感じでしているかなど1時間くらい話をした。

日本から見て地球の裏にある人が同じような悩みや喜びを感じて今このストーンウォールで分かり合えているというこの状況が嬉しくて、連絡先を交換して、ハグをして別れた。

 

続いて、隣に立っている「デュプレックス」というバーに移動した。このバーの見どころはなんといってもピアノの弾き語りを聞きながら気軽にお酒が飲めるところである。何もゲイだからずっとクラブミュージックが聞いていたいわけではなく、穏やかなピアノの音に身を任せながらgaynessを感じたいこともある。

こういう場所が日本にもできるといいなと思う。

 

1日の締めくくりはミュージカル「SIX」鑑賞。英ヘンリー8世の妻6人が蘇りコンサートで互いに競い合うという面白い設定で、歌が上手いのはもちろんなのだが、王道なミュージカルというよりはむしろコンサートに近く観客が踊ったりノったりと新鮮な鑑賞体験だった。

プロットとしても男性を取り巻く女性同士の競い合いという旧来的なものから、終盤にかけて女性同士の連帯にシフトしていくのが救いがあってよかったです。

 

本筋とは関係ないけど、開演直前に男子トイレに行ったら男性の個室トイレを女性も使えるようにスタッフが仕切っていた。「開演を間に合わせるための方法だよ」と言っていたが、小便器の周りには簡易のカーテンを付けておりプライバシーが保てるようになっており、スタッフも「男性もちゃんとプライバシーを守ってるから安心してね」と言ってくれていた。

当たり前のことに聞こえるかもしれないが、小さい頃から男性として生きている中で、周囲から見られることのプライバシーが尊重されない場面もあったように感じられた中で(体育の時間男子はその辺で着替えて、とか)、スタッフから投げかけられたその言葉は不意に自分の心に安心を与えてくれるもので、嬉しかった。
(”男性”の身体に対する社会的な眼差しと”女性”の身体に対する社会的な眼差しの性質が違うというのは前提として。)

 

4. サンフランシスコ1日目

早朝タクシーを捕まえて空港に向かい、数時間でサンフランシスコに到着。アラスカ航空を利用したが、人種差別をなくす企業の試みについてのリーフレットが座席に置いてあったのが印象的だった。

サンフランシスコはLGBTQの人口がアメリカで一番多い都市だという情報を前から知っていたのだが、空港の「ようこそ」の段階から思いっきりレインボーの写真が。街中で普通に見かけるフラッグの数もニューヨークよりかなり多い印象だ。

道端のタトゥーショップでは、ガラスに様々な差別への反対を表明する紙が貼ってあり、
その中に「No Homophobia」とある。

 

サンフランシスコに住んでる友達と遊ぶ約束をしていたため、待ち合わせ場所のピア39という海沿いの商業施設へ。

アシカを見られることで有名な場所

とにかくサンフランシスコは太陽があったかいのに湿度がそこまでなく、おまけに風は涼しいと気候が完璧なところ。

プリクラを撮って名物クラムチャウダーを食べて、歩いてフィッシャーマンズワーフへ。海沿いは風も涼しいし雰囲気ものどかな雰囲気。日本に喩えるのも野暮だが、強いていうと函館にかなり近い。

 

友達と一旦別れてケーブルカーに。サンフランシスコはとんでもないアップダウンがある地形をしており、そのアップダウンをケーブルカーに乗って移動するのが観光の名物になっている。外に乗り出して乗ることもできるのでスリル満点。

ケーブルカーはオープンエアの車両とガラスに囲まれた車両の2つが繋がっており、
今回は前者に乗ることに

ケーブルカーからの景色。衝撃的な坂がどこを歩いても延々と続く。

僕の隣に立っていた男性二人が時折スキンシップをしていたの見て、たしかにサンフランシスコはもとよりLGBTQの人口が多いが、その事実がさらにLGBTQの人を呼ぶという構図になっているんだろうなと感じた。(僕もですね)

 

その後はサンフランシスコの中心街を散策。最近サンフランシスコは治安が悪化しているようで、強盗も多発しており、中心街の近くのデパートも撤退を余儀なくされているなど厳しい状況が続いているそう。大麻中毒者が集まる地域も中心街のすぐそばにあるとのことで、ある側面では良くとも、完全に理想と言える場所はやはりないのだと受け止める。

 

そしてお待ちかねのカストロ地区へ。サンフランシスコ全体がLGBTQに寛容な街だとはいえ、その中でもカストロ地区は聖地である。駅に降りた瞬間、エスカレーターがすでに虹色で、広告も性的マイノリティを想定した内容になっている。(※特にプライド月間などは行われていません)

マッチングアプリの広告

駅を出ると一面がレインボーで、Emerald Cityに来たエルファバみたいな表情になった。もっというとレインボーだけでなくプログレスフレッグも普通に掲げてあるのが、あまりに日本では見かけない景色である。

すでに暗くなっていたので、散策は明日に回してひとまずゲイバーへ。カストロ随一の歴史を誇るバー「TWIN PEAKS」は少しレトロな雰囲気で、カウンターで一人お酒を飲んでいたら隣にいた常連客から話しかけられた。

この方は多分ボランティア精神が旺盛で、やさしく「どこから来たの?」とか「どこに行くの?」みたいなことを聞いてくれた。その人は昔ベトナム戦争に行っていてすでに仕事を引退した方らしく、今はペットの犬と一緒にこの地に住んでいるらしい。御年90歳近いという。

これまで行った旅行先などについて小一時間話し、別れ際に「次旅行行くとしたらどこ行きたい?」と聞いたら真顔で「Heaven」と返ってきたときだけ気まずかったけど、それ以外は和気藹々と過ごし、またいつか会おうねと言って別れた。

 

その後ふたたび友だちと合流し、「LOOKOUT」というクラブへ。(平日なこともあって空いてるクラブが少なめだった)。カストロの中心部の通りから少しだけ離れた場所にあるこのクラブ(バー?)は、普段がどんな雰囲気かはわからないが、僕が行った時は各々が自由にカラオケを楽しみ、それを聞いて過ごすスタイル。ベランダもあり、各々が楽しみたいように楽しめる場所で居心地が良かった。

窓の奥に見えるプライドフラッグがうれしい

ちょうど日付が変わるくらいだったので、中心部に戻ってそのままUberでホテルに帰宅。

HOPE WILL NEVER BE SILENT

 

自分がやりたいことをするぞと一人旅行を決行したことと、この日友人と回ったことは矛盾しているように見えて、実は矛盾していないのだと気づく。

ピア39で海外にしかないプリクラを撮ったのも、カストロ地区で夜遅くまでバーやクラブに行ったのも、ひとりだときっと、「やりたかったけどやらなかったこと」になってしまっていたような気がする。

同行者のために自分のやりたいことを捻じ曲げる旅行は好きではないけれど、自分がやりたいが一人では届かないいわば「延長線上の欲望」を後押ししてくれる同行者がいる旅行は、ときに自分一人でいる時よりも「自分」であれる。

自分ができないと思っていたことや、自分はやらないと思っていた方向に人生が進んでいく感覚も、自分の人生を豊かにするためのスパイスであって、ひとりの時間も誰かとの時間もどちらも自分のためには必要なのだと思えた。

 

5. サンフランシスコ2日目

翌朝、ホテルの清掃の係員から起こされるほどの寝坊をかましたのち、昼のカストロ地区へ。

カストロ地区の中心地はこの交差点だが、いわゆるレインボーカラーはどの辺りまで続いているのだろうか。

レストランやショップなどが中心地に集まっており、そこから徐々に外側の住宅街に近づくほどレインボーの色味は少なくなっていく。ただ住宅街にもフラッグが掲げられていたりと、明確なボーダーラインが引かれている印象はなかった。端から端までは歩いて10分強というところだろうか。

 

散策していて気づいたのは、カストロにはいわゆるゲイバーやクラブ以外の飲食店や店(当然ほとんどすべてにフラッグが掲げられている)が多く、昼から空いているレストランやスーパー、美容室、ベーカリー、本屋などもあったりするため、住んでも生活には困らなさそう。

ふつうの酒屋さんが、アメリカで禁止の対象になった本の展示をしていたりする

本屋「Fabulosa Books」はLGBTQ関連の書籍を取り扱った書店で、店内にはエッセイや学術書から漫画などフィクション、写真集や雑誌まで多くのジャンルを置いていた。日本に比べてやはり、様々なセクシュアリティについて網羅性も高く、量も格段に多い。

英語圏ではここまで多くの本が出されていることに驚き、日本国内でもいろんな本が出て来ているとはいえ、日本語ではまだまだ生きていく上での物語や言葉が少ない状況にあることを痛感。(翻訳者ならびに日本語で執筆してくださっている方々誠にありがとうございます。)

 

その他、後述するLGBTQに関する博物館のほか、道端に先人たちのパネルがあったり、ハーヴェイミルクのポスターやイラストがあったりと、かなり政治的・教育的な色彩も濃く見える。ニューヨーク同様にサンフランシスコも抵抗の思想が刻まれており、特にカストロ地区は政治家ハーヴェイ・ミルクの活動の本拠地でもあったため、LGBTQにまつわるライフスタイルと人権・政治のつながりがひときわ強いのだろうと思われた。

道には大きな貢献を果たした活動家や著名人のパネルが十数人分埋め込まれている

平たくゲイタウンとまとめても、おそらく国や地域、時代によって特性は様々で、日本のゲイタウンの成り立ちについても調べてみたくなった。

あと、これは絶対に聞き間違いではないのですが、散策していたら一人の男性が電話しながら「yeah, its a chosen family」と明確に発音しており、感動しました。

 

 

お昼ご飯を食べたあとは、GLBT博物館へ。こじんまりとした博物館ではあるが、いくつかの企画展に加えて、サンフランシスコのLGBTQに関する歴史を常設展示する、アメリカ初のLGBTQに特化した博物館である。

性的指向を理由に軍隊から除隊された人がサンフランシスコでコミュニティを形成したなどの歴史から始まり、実は日系の移民がコミュニティに影響を与えていたという話や、BDSMカルチャーの発展、エイズ危機、ハーヴェイ・ミルクの活動と暗殺などについて、豊富な史料や映像とともに見ることができる。特にお気に入りだったのは冒頭のいわゆる「ごあいさつ」で、雄弁に過去を振り返ることの価値を語っている。

History might appear to be a dusty relic irrelevant to the present or a machine of the elite, manufacturing stories told only by the"winners." Yet, those left outside of traditional history have for centuries preserved and shared stories that have empowered and inspired younger generations.

歴史というと、現在とは関係のないホコリかぶった過去の遺物か、あるいは「勝者」によってのみ語られる物語を作り出す、上流階級に都合のいい道具に見えるかもしれない。しかしながら、伝統的な歴史から置き去りにされた者たちは何世紀にも渡って、次世代を力づけ鼓舞するような物語を大事に守り、共有してきたのだ。(拙訳)

その他、カウンターには担当者の代名詞が書いてあったりと、あらゆる人への敬意が当たり前に払われている雰囲気を感じた。

 

再び外に出て、お土産を物色。ディルドや際どい下着などを売っているショップもあるのだが、もう少し普段使いできる(別にディルドを普段使いしている人もいるだろうが)ものが欲しいと思ったところ、「Welcome CASTRO」という今風のショップを発見。

単なるレインボーだけでなく、レズビアンバイセクシャルトランスジェンダーカラーはもちろん、アセクシャルパンセクシャル、ポリセクシャルカラーなどまでグッズを取り揃えており、感動。僕はメッセージ入り缶バッジと、日本で同性婚ができるようになった時用のメッセージカードを買いました。

当事者が経験しそうな嫌な言葉についてNOを突きつけるバッジ

カストロ地区を歩いている時、最初こそ感動に包まれていたのだが、後半になるとその感動も薄れてきて、ただただ「シスヘテロ規範や恋愛至上主義による違和感を感じない」という心境に至った。僕が求めていたのはこれだった。目に入る商品や、広告、行き交う人々、場所のあり方が自分を想定している、それが何よりも嬉しかった。

僕は、ゲイであることによって殊更に感動をしたいわけではなく、ゲイであることによって社会からの疎外を受けたくないだけなのだ。自分が想定されていない場所で自分を肯定することはあまりに難しく、日々少しずつ小さな傷がたまってゆく。道ゆくすべてが、「あなたのような人間がこの場にいることを知っているよ」と語りかけてくれるこの街は、わざとらしくなく、それでいて何より自分が傷つかずにいられる場所だった。

日本にこの街そのものを持ち帰ることはもちろんできない。けれども、この街で肯定された記憶は、問題は自分ではなく周りの環境なのだということを、これから何度も僕に思い出させてくれるはずだ。

別に、カストロ地区のように全てを我々向けにしてほしいわけではない。我々向けのもの「も」あると思える場所がもっと増えてほしいし、自分にできることを考えたい。
(これまで述べてきたことはLGBTQに限った話ではなく、特定の場所で誰かが想定されていないと感じるあらゆる属性について言えることです)

 

最後はTwin Peaksというサンフランシスコが一望できる丘へ。カストロから歩いていける距離と聞いて歩いてみたものの、勾配が完全にイカれており、ブチ切れながら坂を登る。やけに青いサンフランシスコの空が目の前に開けて、少し天国みたいだった。

 

息を切らしながら登頂。やたらと達成感がある。

真ん中のあたり、直線の道が曲がっている折れ目がカストロ
(レインボーフラッグが小さく映っている)

高いところってやっぱり楽しい!!というか、街の全体を一望した後でないと、旅行の全体像がぼやけるのだ(僕は地図が読めないので)。これまで訪れたスポットを確認しようやく、点だった旅行が線で結ばれた。

満足し、ニューヨーク行きの夜行便に向かう。

 

6. ニューヨーク3日目

早朝ニューヨークに到着。ついに晴れた。

晴れたら行こうと思っていた場所すべてに向かう。

ハイラインはマンハッタン南西部を南北に走る遊歩道で、廃線を活用した緑溢れる散歩スポットになっている。

 

その後ユニオンスクエアに向かい、Barns & Nobleという書店を訪ねた。HEARTSTOPPERのニックの部屋の再現空間を作っていたほどリベラルな書店という前情報をもとに向かったが、トランスやフェミニズムに関する本が平積みにされている他、PRIDEの棚がつくられていたり、逆にYoung Adultというオープンな棚に普通に同性同士の物語やHEARTSTOPPER作者の作品が置かれている状況が嬉しかった。

トランスジェンダーにまつわる本も山積みにされている

その後、2日目に行ったクリストファー通りを再訪。レインボーフラッグは晴れてる時に見たくね?という気持ちだけで向かったが、大満足(彼氏にもビデオ通話で見せた)。

その後ニューヨークをフェリーから眺めたくなって、マンハッタンの東端へ移動しベーグルを食べたり散歩したりと時間を過ごす。ニューヨークは中央部こそ碁盤の目になっているが、端の方に行くとニューヨークっぽくない景色も意外と見られる。

その後フェリーに乗船。
マンハッタンは島のような地形になっていて、三方が2本の川(ハドソン川イースト川)と湾に囲まれている。フェリーに乗って街の景色を見ていると、世界の中枢と言われるマンハッタンがこの島に集積している密度に驚く。調べるとマンハッタン地区はおよそ80平方キロメートルほどで、東京でいうと山手線内と同じくらいの面積らしい。

 

その後、エンパイアステートビルディングというタワーへ向かった。エンパイアステートビルディングの写真はいま手元にないのですが、新宿のドコモタワーみたいな形のビルです(喩えの順番が逆ですよ)。ちなみにエンパイアステートというのはニューヨークの異名らしい。

上層部に登る前には建物についてのちょっとしたミュージアムがあるのだが、443mの高さで、1929年の着工から竣工までわずか2年というから驚いた。

ベーシックなチケットで行ける展望台は80階と86階で、86階は格子策に囲まれたオープンエアの展望台になっている。86階といっても高さは320mと高く、風も強いのでかなりヒヤヒヤする作りになっているが、そのぶん街を一望することができるため、ニューヨーク観光の締めくくりにふさわしいだろうと思えた。

またエンパイアステートビルディングはプライド月間にレインボーにライトアップされることでも有名のようで、またいつか来て見たい。

マンハッタンの南を臨む。高層ビルが集積しているエリアがウォール街
ちなみに右の川に浮かぶ島に自由の女神像が小さく写っています。

 

その後セントラルパークに移動して散歩。gleeの「New York State of Mind」を聴こうと思ってイヤホンを取り出そうとしたら、イヤホンを紛失していることに気づいた。

セントラルパーク自体LGBTQのスポットという印象こそないが、ニューヨーク最初のプライドマーチは先に述べたグリニッジビレッジからセントラルパークへのルートだったとのことで、少し背筋が伸びる。

セントラルパークのベンチには寄付者のメッセージが埋め込まれている

ホテルに戻り、お昼に買ったサーモンベーグルの残りを食べてお待ちかねのWicked鑑賞へ。劇場は思ったよりも今風の建物。

せっかくならと会場でいくつかグッズを購入。(お目当のプライドモデルのグッズ「Friend of Elphaba」は売り切れで残念)

 

開演。内容は言わずもがな完璧。エルファバはAlyssa Fox、グリンダはMcKenzie Kurtzが演じる。特にMcKenzie Kurtzの前評判が良かったので楽しみにしていたが、確かにオリジナルキャストのKristin Chenowethへのリスペクトがありつつ、自分なりのグリンダ像を体全体で演じており、歴代でも最上位レベルのグリンダだったな〜としみじみ。

Alyssa Foxも迫ってくるような声量のコントロールが上手な方で、特に終盤のエルファバのキャラクターによく合っていたように思う。

↓ちょうど"Tiny Desk Concert"で2人の歌う映像が公開されていたので、興味のある方はぜひご覧になってください。(Defying Gravity ~ Popular ~ I'm not that girl ~ For Goodという曲目で、伴奏は作曲・作詞をしたStephen Schwartzという豪華版。)

youtu.be

数年前にロンドンのウェストエンドでWickedを見たことがあったが、その時は2階からで、今回は1階から。見え方が全く違う。特にDefying Gravityのエルファバのリフトシーンは、1階から見ると文字通り上にリフトして見上げる形になるため、より一層迫力というか信念の強さが伝わってきて、背景から差し込む緑のスポットライトの眩しさに神々しさすら感じる。

 

一幕目が終了。二幕目が始まったとき、なにやらお腹に異変が。

先ほど食べたサーモンベーグルの残りに(多分)当たったのである。なんでこのタイミングで!??!?!と思いながら客席で青ざめていたが、やがてピークが過ぎ、目当ての「For Good」やフィナーレの時にはなんとか耐えられるレベルになっていたため、運がいいのか悪いのかわからない結果に。

観劇前に数時間放置した生ものを食べる僕の落ち度でしかないため、皆さまは同じ轍を踏まぬようによろしくお願いいたします。

劇場の出入り口もWicked仕様になっていて余韻に浸ることができる

何はともあれ無事に楽しむことができたわけだが、一つ心に残ったシーンが。

説明のために簡単にWickedの登場人物の詳細を書くが、主人公の一人であるエルファバは生まれながらに肌の色が緑色で、それゆえに周囲や家族から疎まれてきた。(途中、エルファバが町中緑色の街を訪れて感銘を受けるシーンなどがあるが、このような設定・プロットを踏まえてWickedという作品は人種差別の文脈で読解をされることがしばしばある。)一方、エルファバの妹ネッサローズは肌が緑色ではなく、肌の色で周囲から不当な扱いを受けることなく過ごしているという設定になっている。

今回ネッサローズを演じたのはKimber Elayne Spwawlという黒人の俳優で、Wickedの歴史上、黒人俳優がネッサローズを演じたのはこれが初めてだった。特にアイコニックだった台詞として、序盤エルファバが以下のように言うシーンがある。

This is my younger sister, Nessarose. As you can see, she is a perfectly normal color.

こちらは妹のネッサローズ。見てわかる通り、彼女の肌は完全にふつうの色。

現実の世界ではまだまだ人種差別があり、黒人差別も今なお見られる。一方Wickedの世界では、不当な差別を受ける対象は緑色の肌となっており、肌の色が黒であろうと白であろうと「ふつう」の肌になる。

Wickedの世界でも肌の色が差別の対象になっている時点で全くユートピアとは言えないものの、黒人俳優が演じる役に対して「perfectly normal color」と語られるシーンは、フィクションとノンフィクションのはざまで勇気を与えるような光景ではないかと感じられた。

話は変わるが、プライドに絡めたWickedのポスターがブロードウェイに。

 

そんなこんなでWickedの余韻に浸りながらホテルへ帰る。翌日は朝10時に発つ飛行機に乗らなければならないので、夜ご飯を食べて目覚ましをかけて眠りについた。

 

7. ニューヨーク4日目

起床。よく寝たな〜と思って窓を見ると、なぜか外が明るい。時計を見ると9:30だった。

 

 

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人が絶望の淵に追いやられた時にできることは口を半開きにすることだけだということを知った。もともとキャンセルも変更も不可だったし、すでに打つ手なし。

唯一の幸いとして、帰りの日が遅れる分には特には問題がなかったので、取り急ぎ直近の別の便を検索したが時間がかかりすぎる乗り継ぎ便しかないし、その上乗り継ぎ先のビザ申請が必要なケースもあるようで、「もう、とにかく、安らかな気持ちで、日本に帰りたい」という一心で、翌深夜にJFKを発つANAの直行便のチケットを購入。

航空会社への申し訳なさと、もともと取っていた往復のチケット代の合計よりも高い片道のチケットを買うことになった悲しさと、アメリカに来てまで寝坊した情けなさと、自分で立てた約束を守れなかったことに対する申し訳なさがないまぜになって、しばらく虚空を眺めた。ここはニューヨーク。ニューヨークで虚空を眺める人生もなかなかない。

ま、まあ、もうしょうがないし、、、と思うものの何も気が乗らず、すべてのことに絶望を感じる。しかしながらこの寝坊のせいでアメリカ旅行が嫌な記憶になるのだけは避けたい。過去に幸せだった記憶を、幸せなままに放っておくのは、現在の自分の、過去の自分に対する最低限の責任なのだと自分を必死に鼓舞。

 

---ここからやたら語り始めます---

ここで、旅行の日程が何かおじゃんになったわけではない、むしろ観光する時間が増えたのだからポジティブに捉えよう、と思おうとして、「いや」とふと立ち止まる。

こういうとき、ついつい「飛行機代のもとを取れるほど楽しもう」と考えてしまうが、楽しむことを自分自身に課してうまくいった試しがない。こないだ不本意なことがあったとき、周りから「ポジティブに捉えよう」と言われたことがあったが、その時間が心底嫌いだった。人からあるべき感情を押し付けられるのでさえ嫌いなのに、それを押し付けるのが自分自身だなんてそんな悲しいことはない。

悲しいなら、まずは一度とことん悲しめばいいし、一度底に沈んでしまえば、自分なら次第に浮き上がってこれるだろうと思えるくらいには自分のことを信用していたい。

無理に自分の感情を管理しようとする人よりも、自分の感情が最終的に大丈夫になることを待つことができる人の方が、よっぽどうまく自分と付き合えている人だと思ってしまうのだ。(当然、他人と一緒にいるときは、表面上だけでも自分の感情を管理する必要があります。)

失ったもの(お金)は戻ってこないのだと言われても、すぐには気持ちを切り替えられないように僕の心はできている。それでも地下鉄に乗って次の目的地に向かうから尊いのだ。引きずるのは悪いことだと言われるけれど、前に動いていなかったら引きずることすらできない。何かを引きずりながらそれでも歩く人は尊いし、歩くうちに自然と引きずる重さも軽くなっていくものだ。

---飛行機を逃したことだけでよく喋りましたねわたし---

 

ということで、昨日行くのを諦めていたブルックリン地区へ地下鉄で移動。ふとよぎるネガティヴ感情を受け止めつつも、少しずつ楽しめる気分になってきた。

ブルックリンはマンハッタンの東に位置しており、ロングアイランド島という島の一番左に位置する地区である。まずはダンボ地区へ。マンハッタンとブルックリンをつなぐ橋の一つである「マンハッタン橋」が綺麗に見える有名スポットがあるとストーンウォールで出会った人に聞いたので、そこへ向かう。

そりゃ有名にもなるわなという完成された構図で思わず息を飲む光景。観光客も多く集まっているスポットだ。

その後周辺を散歩していたら、透明な建物にメリーゴーランドだけが入っている謎のスポットを見つけ、面白かったので写真を撮った。後日調べて見たら、gleeメルセデスが「A Natural Woman」を歌っていたスポットだということが判明。判明した後見てもあまり意味がわからなくて最高。

 

市街地を少し歩くとちらほらフラッグも。その他、保健センターのような建物ではPrEP(HIV予防の薬)のポスターがオープンに貼ってあったりと、HIV感染リスクの高い人に対する医療アクセスを担保する姿勢が見られたのが印象的だった。

右側にLGBTの文字が


ブルックリン自体はマンハッタンに比べるとLGBTQにまつわる有名スポットは少ないのだが、過去に活動家や著名人たちが住んでいた場所や運動の起点となったスポットもあり、先述のサイトにまとめられている。今回は記載の多かった、ブルックリンハイツという住宅エリアを散策。

 

マンハッタンの以外で最初に結成された同性愛者のアライアンスGay Alliance of BrooklynはこのSpencer Memorial Churchを拠点に1971年から1973年まで活動していたようだ。この教会は当時寛容な聖職者がいたとのこと。

 

次の建物は、今となっては見る影もないが、Brooklyn Heights Pressのオフィスだったとのこと。(調べたら左に見切れている建物の方だったかもしれないのでリンクを貼っておきます)もともとは同性愛嫌悪的な内容だったがストーンウォールの反乱以降の運動の中で、LGBTQの権利を主張する内容を伝えるように転換したらしい。

 

川沿いのブルックリンハイツプロムナードは現在、マンハッタンを臨む散歩スポットとして人気だが、1950年代から80年代まではゲイ男性が集まるスポットとしても有名だったらしい。

 

散策を終え、ブルックリン橋を渡って再びマンハッタンの南部エリアへ。ものすごい数の観光客が行き交っており、ニューヨークで数ある橋の中でも最も有名なものになっている。橋を支えるワイヤーの構造が美しく、歩いていても造形美が楽しめる。

 

30分ほど歩くとマンハッタンに到着。すぐに近くがウォール街というオフィス地区になっている。ビジネスの中心地として有名なエリアだが、かつてのエイズ危機の際には、ACT UPという団体が製薬企業に対して正当なリサーチを求めるデモを行っていた場所とのこと。

 

辺りが暗くなって来た頃、最後に再び地下鉄でブルックリンへ移動し、川越しのマンハッタンの夜景を眺めた。山手線の中に収まるこの街にはあまりに多くの情報が詰め込まれていて、長いようで短かったニューヨークの記憶が思い出される。

 

深夜便だから寝坊の心配はほとんど要らないものの、全てに細心の注意をはらいながらJFK空港へ。

無事に搭乗し日本に到着したのですが、税関でキャリーバッグの中を見られた際、一番上に置いてあったのがMuseum of Sexでお土産に買ったペニスの形の飴で過去一気まずい雰囲気に。アメリカにはペニスの形をした飴があります。(日本にもあるかもしれません)

 

終わりに

波乱に満ちたアメリカ旅行が幕を下ろしたわけですが、感じたことを3つほど最後にまとめます。

まず一人旅行にして間違いなく成功だったということ。今回は同行者がいないという事情により一人旅行を始めたわけだけど、誰と一緒でもなくそれでもなお楽しかったという事実は、自分が自分として生きてきたことを何よりも肯定してくれるものだった。(当然、自分が男性であることによって比較的安全に一人旅行ができたという事実は忘れてはならないし、一人であることが危険であることにつながる社会は間違っている)

自分がやりたいと思ったことをさせてあげて、自分が進みたいと思った路地に進ませてあげる。自分が自分であることに疲れた時にはすぐに、そういう時間で自分を満たしてあげることができる人間でありたい。自分のやりたいことといっても、何も大きな夢やビジョンでなくてよくて、見たいと思っていたミュージカルをちゃんと自分に見せてあげるとか、今日の夜食べたいものを自分に食べさせてあげるとか、起きると決めた時間に起きるとか、そういうことで本来十分なのだと思う。そうやって自分との約束を守ってあげることが、自分に優しくするということなのかもしれない。もしも寝坊をして自分との約束を破った時には、何もできずに無駄にする数時間や数日があったっていい。

 

次に、LGBTQに関するスポットを巡れたことも、自分にとって宝物のような時間になった。アメリカのすべてが理想とは全く言えない。しかしながら、声をあげ、世界のLGBTQムーブメントを動かしてきたこの場所に来れたこと、今はもう見えなくなったけれどもかつて息をしていた人や場所の痕跡を辿れたことは、自分が今立っているこの場所が、(日本人を含む)多くの先人たちによって作られてきたことを思い出させてくれた。LGBTQ以外の社会運動でも同じことが言えるだろう。

すぐに社会は変わらないし、すぐに差別がなくなることはない。けれど少なくとも今僕がこのような内容を書いて、あなたが今これを読めているのは、誰かが社会を変えてくれたからだ。自分もその列に加わりたいし、自分が周りから見えなくなったあとの社会でも、そのバトンが繋がっていくといい。

 

一方で、最後に思ったこととして、何かを理想化することはよくないということがある。アメリカに来て感動したことは多くあるけれど、治安の悪さに怯えた瞬間も多くあった。地下鉄や道も汚いし、物価も高い。アジア人差別を含む人種差別はまだまだ多く、ヘイトクライムが発生することもまだ珍しくはない。僕に見えていないものもきっと多くあるだろう。

簡単に日本と海外を比較できないし、するつもりもない。けれど日本で感じることがあまりない感動や不満を忘れずに持ち帰って、自分たちの環境を心地よいものにするきっかけになればいい。

 

***

日本に帰ってアメリカ旅行のことを、カミングアウトしていない人に話すとき、LGBTQにまつわるスポットの話をそぎ落として話すことが多かった。自分が感動したことを話せないという状況は、自分の思い出を肯定することをひどく妨げるし、自分の思い出を肯定することと自分を肯定することは限りなく近いことにように思う。

いつか、自分の感じた感動を話すことを、躊躇わなくて済む日が来るといい。

その日が、いくら遠いとしても、必ず来るということを、先人たちが語りかけてくれている。

 

 

推しのアーティストのカミングアウトを受けてのゲイのファンの随筆

思い出を振り返ると、そこにはいつもAAAと與真司郎がいた。

 

(ここから数行の間めっちゃ喋るのでオタク以外には読めないインクで書いています)

高校の頃、友だちとカラオケに行くたびに「wake up!」を歌い、毎晩寝る前は「さよならの前に」を聞いた。「恋音と雨空」は定番すぎて逆に聞かなくていいなどとツウぶったり、ドライブに行くと決まって「winter lander!」を大音量で流して踊っていた。悲しいときは「wonderful life」を聴いて心を慰めたし、楽しいときは「good day」を聴いた。冬の街角では、肩を震わせながらきまって「perfect」を聴いたし、夏の日差しを感じた時には「love is in the air」をかけた。ノンケに片想いしてたときは「lil infinity」を聴いて愛することの素晴らしさを痛感したし、ノンケに振られた翌日は「day by day」を聴いて少しずつ大丈夫になっていった。あと最後のコンサートの札幌公演の「さよならの前に」の與さんのパートでぐちゃぐちゃになるほど泣いた。ちなみにあれって円盤化まだですか?10万までなら積めます。

與さんとインスタライブしてる気分になりたくて合成した写真を作っていた過去があります。

 

(ここから以下はちゃんと読んでね絶対ね)

 

7/26、夜にTwitter(Xとか言ってる場合ではない)のタイムラインを眺めていたら、とある投稿が目に入る。

その投稿には「與真司郎」と「ゲイ」という2つの単語が入っていて、僕の中であまりにもかけ離れていたそのふたつの言葉は、けれども同時にあるべき場所にあるように、雄弁に、同じひとつの文の中に同居していた。

「AAAの與真司郎、同性愛者だと公表」。呼吸を忘れるほどにひとしきり驚いて、けれども同時にすごく嬉しかったし、感謝の気持ちでいっぱいになった。(手紙全文はここから。是非読んでみてください。)

 

なぜ嬉しいのかはまだよくわからない。

同じゲイだからって、僕が嬉しくなる必要なんか別にないわけで、多分ほんとに勝手に、なんだか仲間だと思えて嬉しかったんだと思う。(とか言いながら高校時代の友人に数年ぶりにLINEして「與真司郎と付き合える可能性出てきたってこと????!?!」と伝えました、付き合えるわけねえだろうが!!!いい加減にしなさいねホントに。)

違う世界にいると思っていたアイドルと、急に自分の深い部分で繋がった感覚。ずっと好きだなと思って推していたアーティストが自分と同じセクシュアリティで、むしろ自分と同じセクシュアリティであること以外は何も重なることはないのに、ただその重なった部分が温かくて、誇らしかった。

例えば僕が苦しいとき、悲しいとき、孤独を感じたとき、與さんも同じ気持ちを経験したことがあるのかもしれないと思うと、それだけで、大きなものに包まれている気がした。

けれど同時に、與さんも「大きなもの」なんかではなく一人の葛藤を抱えた人間だということを知って、はじめて面と向かって、対等に、與さんのことを考えた。

 

與さん、これは僕の想像でしかないけど、きっと、きっと、幸せだったと同時につらかったこともあっただろうな。

他の芸能人でも未だにあるけれど、インタビューやファンクラブのQ&Aコーナーの恋愛に関する質問は異性愛者前提の質問ばかりで、それに楽しそうに答える與さんを見ていたとき、彼が同性愛者だとは全く思いもかけなかった。

その上AAAというグループは男女混同ということもあって、男女のカップリング文化がファンの間やときには公式においても有名だった。(ただ同時に、メンバー間では男と女というよりも、仲良しな家族・仲間のようで、それが僕にとっては心地よかったこともとても重要で、男と女が恋愛以外の形でつながる姿を見て、勇気をもらえたことも忘れたくない。)

さらに、與さん含む男男のカップリングもファンの間では有名で、実際のMCでも男同士で少しイチャつくような素振りを見せたり、それに対してファンが乗っかっているような場面がいくつもあった。
しかしこれらはあくまで「冗談」だからこそ成り立っている側面があり、あくまで両者が異性愛者であることを前提した上での「鉄板ネタ」の域を出なかったように思う。(おそらくあのとき、與さんが「本当に」同性愛者であると思いながら見ていた人はごくわずかだっただろうし)

それ以外にも、僕が気づかない場面で、自分の気持ちに蓋をしなければならなかったことはきっとたくさんあっただろうし、どんな気持ちだったかなんて、もはや想像すらできない。

手紙の中で「カミングアウトを決意する前は、2つの道だけしかないと思っていました。一つめは本来の自分を受け入れることなく、エンターテインメントの世界に居続けること。もうもう一つエンターテインメントの世界から退いて世間から隠れてひっそりと暮らすことでした。」と書いてくれた通り、どっちに行っても暗闇に迷いこんでしまう感覚がきっとあったんだと思う。

 

だからこそ、AAAという場所が與さんにとって心から安全だと思える場所だったかと思うと、想像だけど、おそらく、たぶん、きっとそんなことはないし、自分がファンの一人として(少なくとも)與さんに安全な場所を提供できていたかと訊かれると、答えに窮してしまって、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

ファンのせいやAAAのせいにするつもりも、する必要もないと思うし、この問題は日本の社会全体の問題だから、特定の誰かがこの問題の責任を背負う必要も実はないのかもしれない(逆に、全員が背負う必要があるということでもあるよ)。

けれど、この問題から生まれた痛みを與さんがその一身に背負うことになってしまっていたと思うと、胸が痛む。
謝って欲しいなんて與さんが言っていない以上、僕がこうやって謝り続けるのもエゴでしかないから、今できることは與さんの言葉を一言ひとこと受け止めて、打ち明けてくれたことに感謝して、応援し続けることしかないんだろうな、と書いていてようやく思えてきた。

 

 

與さん、いろんなものを背負いながらここまで生き延びてくれて、ファンに向かって誠実に打ち明けてくれてありがとう。

今日も「みんな驚かせてごめんね。オレは世間からバッシングされるのはよくて、みんなが…友だちとかにいろいろ言われたりとか。」って言ってくれたけど、どうかお願いだから、謝らないで。今まで與さんだけに背負わせていた荷物、僕たちも一緒に背負わせてよ。

バッシングされてもいいなんか、言わなくていいんだよ。これまでもずっと自分との闘いがあったのに、やっとカミングアウトしたら世間との闘いがあるなんて、そんなの世間の方が全部間違ってるよ。一緒に闘うから、だからどうか、そんなこと言わないで。

何ができるかわからないけれど、ずっと応援するからね。僕が自分のセクシュアリティに気づいてどん底に沈んでいたとき、ノンケに振られて自暴自棄になりかけたとき、AAAや與さんの歌で救われたこと、ずっと忘れません。

(※あくまで僕の言葉であって、受け止めるのに時間がかかる人もきっといるはずだと思うので、これが正しい姿だと言うつもりはありません。)

 

まだまだLGBTQ+の人権保障がどうなるかもわからない日本の中で、(ロサンゼルスを拠点にして考えを深めてきたとはいえ)與さんのような人がカミングアウトしてくれたこと。それ自体が大きな光ではあるけど、與さんだけに光の役割を押し付けてはいけないから、僕も自分にできることをやります。

とりあえずクローゼットの奥からAAAのライブ用公式ペンライトを引っ張り出したら電池が切れていたけれど、新しい電池を入れたらまた、メンバーカラーの虹色に光り始めました。

 

 

偉大なる参考文献集(学術書編)

 

はじめに

同性ふたり暮らし宣言」という、大きく出たタイトルのブログを読んでくださった皆様、誠にありがとうございました。

いただいたコメントなどもとても温かく、書いてよかったなあと改めて思っています。

 

この記事で言いたいことは、とにかく「僕たちには言葉が足りない」ということでした。

そしてまた、「言葉が足りない」という状況が単に私的な悩みではなく、それをすくい取る言語体系を社会が用意していないという意味で、既存の社会規範に接続する問題であるということも、最も書きたいことの一つでした。

 

いただいたコメントの中に「自分のモヤモヤを言語化してくれてありがとう」というものがありました。

僕個人としてはまだ、あの文章を書いただけで今の僕の気持ちや、社会の有り様を記述しきれたわけではないという心残りがありますし、ましてや既存の言語体系や社会規範から抜け出せたとも到底思っていません(し、むしろある側面においては既存の体制をさらに再生産してしまったというところも否定できません)。

しかしながら、僕が自分の気持ちを、暫定的にであれ文章にできるようになるまでのおよそ2年間のあいだに、それを書くのに必要だった言葉や考え方、知識や世界を教えてくれた数々の先人たちがいました。というか、僕の文章よりも、ずっとずっと精緻に言語化してくれている本が山ほどあり、僕はそのような巨人の肩に乗っかっているだけに過ぎません。

僕のブログを読んで共感してくれた方々こそ、きっとそのような言葉を必要としているのではないかと思い、一度振り返りも兼ねて、この期間のあいだに読んできたものの一部をまとめてみたいと思います。いわば先日のブログの参考文献集のようなものです(その割に引用などが雑ですみません)。

ここに載せている以外のもの、例えば別の本だったり、景色だったり、TLに流れてきた一文だったり、友人のふとした言葉だったりが、知らず知らずのうちに僕の世界を大きく広げてくれたこともあると大いに思いますが、手元にある文献だけの紹介になってしまうこと、お許しください。

 

今回は、学術書の話をします。

そして今回は学術書や新書に絞った紹介となります。
(他ジャンルのものはまた後日改めて・・・。
書いていてボリューム満点になり、力尽きました・・・。
気長にお待ちいただけると・・・。)

日常の生活が、学問と接続するというと少し不思議な気もする方もいるかと思いますが、何よりフェミニズムクィアスタディーズをはじめとする学問こそが、社会に存在する既存の権力を指摘し、それに抵抗する手がかりを多く残してくれています。

もちろん読むのに骨が折れるものも多くあり、これらに大きな抵抗なくトライしようと思えたという時点で、僕自身がある種の特権に恵まれていたことも事実です。

ただやはり、僕の世界を広げてくれたのは学問だったなという確信が捨てきれないので、こちらに記しておきます。
アカデミアで働くプロフェッショナルではない僕が果たしてこんなものを書いていいのかという葛藤もありましたが、学問は何もアカデミアに閉じたものではなく僕たち一人ひとりに力を与えてくれるものだと信じていますし、これが誰かにとっての参考になればと思っております。

(※頑張って向き合ってきたつもりではありますが、所々の理解が甘いところもあると思います。すみませんが、参考までにご覧ください。また、載せている文献のあらゆる部分に同意している訳ではありません。

※念のためにAmazonリンクを貼っておりますが、このリンクから飛んだからと言って僕にお金が入ってくるといったことはありません。)

 

セクシュアリティについて

森山至貴『LGBTを読みとく』

この後、セクシュアリティについての基礎知識を要する本が出てくるかと思いますが、僕はこの本を通して、その基礎知識を一通りインストールすることができたかなと思います。

基本的な「LGBT」なるものの適切な説明から、その歴史や現在地、そしてクィアスタディーズまで一貫してわかりやすく論じているとてもありがたい本です。

巻末には読書案内もついており、まずこの本から入るというので間違い無いのではとさえ思えるような一冊でした。

 

河口和也『クィアスタディーズ』

前の本を読んで、クィアスタディーズについてより詳しく知りたいと思い、こちらを読みました。「思考のフロンティア」というシリーズは、とても重要な学術テーマに関する内容を著名な学者がコンパクトにまとめてくださっているので、とてもオススメできます。

LGBTの運動の歴史もかなり詳しく書かれており、さらに考えを深めることができました。次に紹介するフーコーに関する著作との出会いになったのもこの本でした。

 

M・ハルプリン『聖フーコー』(村山敏勝訳)

とにかく大好きな本です。

フーコーは誰よりも、我々の日常や生の中に権力構造を見出し、それに抵抗してきた哲学者だったと思います。原著がこれまた難解なので初心者向けの解説書(僕は中山元『フーコー入門』を読みました)を読み、チャレンジしました。

フーコーは年代によって論じるテーマが(つながりながらも)かなり移り変わっていく学者だと思われるのですが、晩年の『性の歴史』という著作がクィア理論の中では特に引用される傾向にあると思います。

そこにおいて出てくる「自己への配慮」という倫理のあり方があり、この考え方が僕はとても好きでして、それは(ものすごく雑ですが、)社会の規範の中にありながら、それでもなお常に自分を変容させ、自分の生の様式を作り上げていく倫理のあり方というふうに理解しています。

そのような中で、フーコークィアアイデンティティに触れながら、以下のように述べます。

クィアー・アイデンティティはとはいえば、なにか実証的な真理とか確固とした現実とかに基づく必要は全くない。(中略)それは、規範に対して対立関係にあることによって意味を持つ。正常な、正統的な、支配的なものとぶつかるならなんでも、定義上クィアーである。クィアーは、なにか特定のものを指ししめすとは限らない。それは本質なきアイデンティティである。(中略)それが記述するのは、原理上、その正確な範囲と多様な広がりを、前もっては規定できないような可能性の地平なのである。(中略)権力と真理と欲望との関係を新たに構造化するさまざまな可能性を思い描くことが可能だとしたら、それはクィアーな主体が占めるこのエクセントリックな位置からだろう。

同書92-93ページより

フーコーは誰よりも権力に敏感であったからこそ、晩年においてそのような権力構造の中でいかに生きていくかを真摯に言葉にしてくれていたのだろうか・・・と(超勝手にですが)思うと、とても勇気が湧いてきます。

 

竹村和子『愛について』

何を隠そうこの本、僕がブログを書く直前に読んでいた本でして、とてつもない感銘を受けて筆を走らせていたので、一番影響を受けた本は何かと訊かれると真っ先にこれを挙げると思います。

社会の権力が日常の言語体系の中に埋め込まれており、それゆえに抵抗できるという話は、この本をはじめとするクィア理論の蓄積の受け売りといっても過言ではありません。クィア理論についてはジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』などが著名な文献とされていますが、竹村氏はそれらの著作の訳者としても名を馳せており、この方の世界への貢献は計り知れません。

本文の内容紹介として、裏表紙の紹介文を引用しておきます。

「わたしたちは集合的な物語─《言語》と呼ばれたり《法》と呼ばれるもの━と、まったくかけ離れた個別的な物語を語ることはできない」。セクシュアリティをはじめとし、私的領域の深奥に秘匿されてきた事柄を鋭く分析する本書は、境界を撹乱し、「語りえぬもの」に声を与える政治と倫理の新たな地平を切り拓いた。精緻な理論でフェミニズム批評を牽引しつづけた著者の代表作。

ただこちら、なんとなく紹介文を読んでも分かる通り、理解するのがかなり難解です。この本を正しく理解するために読まなければならない本がものすごい量あり、はじめての本としてこれを選ぶのはおそらく不適切な気もします。何を隠そう僕自身、理解しきれていない部分が多々あるので、その点でもよろしくないのですが、どうしても紹介したいと思った次第です。(理解できずとも、この本が紡ぐ言葉の連鎖に身を委ねるのはいい時間になります)

 

D・カメロン/D・クーリック『ことばとセクシュアリティ』(中村桃子/熊谷滋子/佐藤響子/クレア・マリィ訳)

こちらもとても影響を受けた本です。
セクシュアルマイノリティをめぐる運動の歴史や現在地を理解する上でもとても有益な本ですし、ことばや名付けと、セクシュアリティアイデンティティの関係性をとても丁寧に記述しています。

一部本文を引用します。

言語は、おそらく、人間が利用できるもっとも強力な定義的や表象的な媒体であり、セックスやセクシュアリティにかかわって私たちがしていること(そしてすべきこと)をどのように理解するのかを作り上げている。特定の時や場でセックスやセクシュアリティを表象するために利用する言語が、何が可能なことで、何が「正常」で、何が望ましいかという理解に大きな影響を及ぼしている。

同書38ページより

これまた分厚い本ですが、根気強く読み進めることで新しい見方が立ち上がってくるなと感じました。

 

 

家族・恋愛について

岩間暁子・大和礼子・田間泰子『問いからはじめる家族社会学

「近代家族」なる規範的な型がどのような形で作られてきたのかということを取り扱った概説書です。
(有斐閣ステゥディアもとてもわかりやすく示唆に富む入門書を多数出しているので、とても信頼しています。)

今の規範的な家族像は「愛」「性」「生殖」「生活保障」といった共通の特徴を持ち、なおかつそれらが国家の主導する政治イデオロギーおよび経済システムと結託しながら、社会的になおかつジェンダーにおいて非対称的に構築されてきたこと、そしてそれらが巧妙なレトリックや「愛」という概念を用いて「自然化」されてきたこと、そのような「近代家族」も、経済の停滞や社会システムの同様、科学技術の進展、さらには寿命の延長などでかなり限界がきていることなどが、色々なトピックにまたがって平易にまとめられていました。

 

特に救われたのが8章「個人・家族・親密性のゆくえ」でした。

そこでの議論においては、新たな親密な関係性、「親密圏」のあり方として「お互いに対する愛を基調とした民主的で対等な関係の男女カップルや夫婦」(ここに関してはギデンズ『親密圏の変容』が詳しいです)なども挙がってくるわけですが、異性間カップルや夫婦だけでなく、同性間のカップル/夫婦(日本ではまだ存在できないことになっていますが)、友人同士の共同体、自助グループなど、「家族ではない関係性」も「親密圏」の射程と捉えられる可能性も示唆されており、「親密圏」というタームが僕にとって非常に重要であるということに気づくきっかけにもなりました。

 

牟田和恵編『家族を超える社会学

こちらの本の狙いは以下です。引用します。

…現在そしてこれからの私たちの生きる基盤となりうる、新たなかたちの「家族」はいかなるものでありうるのかと、論を進めたい。自明とされてきた家族のすがた、つまり「一対一の男女の対の関係(とのその子ども)」という核家族的関係には閉じない、人々の新たなつながりから築きうる「家族」の可能性とはどのようなものか、と。

同書「序」ⅱページより

このような狙いのもとで前半に「近代家族」の構築のされ方とその限界に関する論が展開されたのち、後半は具体的に、シェアハウスで生活する人々、同性カップルステップファミリーなど、「近代家族」から漏れ出るが、しかし「親密圏」の新たな可能性になりうる関係性に焦点を当てて、それぞれの実際の暮らしが描かれていきます。

その中でいくつかメモしておきたい部分を引用します。

欧米の研究では、「(従来の)家族から」見放されたレズビアン/ゲイが友人ネットワークやコミュニティのなかで、家族の「代用」となる関係性を築いてきたことが指摘され、血のつながりや婚姻、場合によっては一対一に限らない親密関係が観察されている(Nardi 1992; Weinstock & Rothblum 1996)。血縁家族は、与えられた選択できない関係であるのに対し、友人ネットワークや同性パートナーとの関係は「選びとる家族」としてとらえられる(Weston 1991; Nardi 1992)。

同書153-154ページより

「選びとる家族」というのは近年"chosen family"という英表記で少しずつ知名度が上がってきた言葉だと思います。

我々には言葉が足りないという話をしていたかと思いますが、重要なのはそれが「日本語という言語の中において」ということです。多くの言語に共通してみられる権力はあるにせよ、他の言語に目を移すことで、自分の存在にしっくりくる言葉を見つけることができることもある、というのは、他言語を学ぶとても重要な側面だと思います。

 

齋藤純一『政治と複数性』

公共性や民主制に関する論文集で、基本的には、現在の権力体制や政治体制、新自由主義に基づく自己責任論、「確固たる自己」をもとにしたアイデンティティ政治などの問題点を明快に指摘していく構成ですが、第7章で「親密圏」に関する文章が出てきます。

齋藤氏は「親密圏」を「具体的な他者の生/生命──とくにその不安や困難──に対する関心/配慮を媒体とする、ある程度持続的な関係性を指すもの」だと定義しながら、「近代家族」中心主義を批判し、そうでない形の親密圏の意義やそこでのケアの重要性をとても流麗に書き記しています。

とりわけ好きな箇所を引用します。

結婚は、限られた性愛のかたちを正当化し、それに種々の特権・特典を与える制度である─言いかえれば、特権・特典を誘因として正常とされる親密圏のあり方を特定のものに限定する制度である━ことに変わりはない。近代の社会秩序は、その根幹の一つをなす家族秩序に制度的な限定を加えることを通じて、人びとの生━「ヰタ・セクスアリス」を当然含むがそれだけではない━のいわば無限の質的な異なりを狭隘な幅のなかに圧縮してきたと言える。

本書219ページ

 

第7章だけを読んでもある程度は理解できるのですが、それより前の数章(第1章や第5~6章など)にも目を通すことで、齋藤氏の議論においてなぜ「親密圏」が重要であるかをより理解することができるだろうと思いました。ここでの議論は最初にあげた竹村氏の『愛について』とも交差していきます。

ちなみに、齋藤氏の前半の議論については、齋藤氏の著した「思考のフロンティア」シリーズの『公共性』を読むことで、少し理解しやすくなると思いました。

 

現代思想 第49巻第10号「〈恋愛〉の現在」

現代社会における「恋愛」を取り巻く数多くのトピックについて、多くの研究者の方によって寄稿されている論文集です。比較的読みやすいものも多く、これまで「恋愛」にしっくりこなかった人がこれを読むと、きっとどこかに自分のことを見つけられるんじゃないかと希望を持てました。

特に目次「何が語られてこなかったか」に属する5つの論文は、既存の恋愛の言説では取りこぼされる「愛」のあり方を真摯に綴っており、個人的にとてもありがたかったです。

ぜひ目次だけでも見てみると、何か興味が湧いてくるのではないかと思いました。

 

A・ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ

上の『現代思想』において、従来の規範にとらわれない関係性を論じるにあたり頻繁にギデンズ氏の「純粋な関係性」が引用されていました。そこでその内実が気になり、引用元にあたってみました(一部しか読めていないのですが)。

「純粋な関係性」については文庫版であれば149ページから168ページにわたって論じられますが、無礼を承知で雑にまとめると、現代において、社会にあらかじめ敷かれたレールに乗ることができない非規範的な関係性(そして現代ではそのレールが綻びつつあるので、規範的だとされた関係性においても免れない)においては、人々を縛り付けておく外的な圧力が働きにくいゆえに、お互いがコミットメントを継続していくことではじめて関係性が続いていく、という話かなと理解しました。まさにそうだなと思い、たくさん引用されているのも頷けました。

ギデンズは社会の大きな枠組みの変容を捉えながら、それによってミクロな関係性がどのように変化していくのかということを他の著作も含め随所で論じているので、もう少し読んでみねばと改めて思っている次第です。

 

松村圭一郎/中川理/石井美保編『文化人類学の思考法』

文化人類学という学問の視点から様々なトピックを論じる本です。

文化人類学というのはおよそ、フィールドワークなどを通して「他者」を観察し記述する学問だとされますが、単に他者を規定して終わりという姿勢はむしろ不適切であって、「他者」を知ることを通じて自分自身を知り、そして自分の持っている「当たり前」や、そのような自分が生まれ育った社会の「当たり前」を問い直す姿勢こそが大切だと本書は述べます。
その意味で、文化人類学という営みは既存の社会に対する抵抗や変化の起点にもなり得るのではないかという姿勢が、この本では一貫して示されます。

そんな文脈の中で、第11章「親族と名前」(髙橋絵里香氏)では、「近代家族」の当たり前が問い直されていきます。一部引用します。

生きること、生活を続けていくことを支える行為を広義の「ケア」と呼ぶのだとすれば、ケアという行為もまた相手の身体に働きかけることで身体の状態そのものに干渉する実践である。それは誰かを家族へと包摂し、誰かを親戚だとみなし、誰かを他人として排除することにつながっている。つまり、ケアをつうじて人びとは親族という関係性を醸成しているのだ。

同書162ページ

血縁や婚姻などによって「家族である」のではなく、むしろケアをつうじて「家族になる」という考え方は、まさに近代家族の「当たり前」を問い直す上での重要な視点だと思います。

 

ケア規範について

村上靖彦『ケアとは何か』

そもそもケアってなんだろう?というところを考える上で、わかりやすく、なおかつ心に留めておきたい文がいくつもある本でした。

基本的には看護や福祉のシーンにおける「ケア」に絞って論を進めていますが、これらの話は僕たちの日常生活の中で、いかにして他者とともにあるか?いかにして「弱さ」とともにあるか?「弱さ」を抱えながら、いかにして生を肯定できるか?という問いに対しても大きなヒントを与えてくれています。

表紙裏の紹介文から抜粋して引用します。

やがて訪れる死や衰弱は、誰にも避けられない。自分や親しい人が苦境に立たされたとき、私たちは「独りでは生きていけない」と痛感する。ケアとは、そうした人間の弱さを前提とした上で、生を肯定し、支える営みである。

 

J・C・トロント/岡野八代『ケアするのは誰か?』(岡野八代訳)

ジェンダーや権力の構造の中でケアが不当に配分され、かつケアが社会において過小評価されている、という問題とその解決策を思索する上で、とても重要な本だと思います。

大きな社会の構造を捉えつつ、同時に僕たちが今からできることを探るという構成で、その接続の可能性に希望を持ちました。

市民としてわたしたちは、いかにケア活動は編成されるべきか、といった一般的な条件について決定する必要があります。すべてのひとがケアワークのすべてに従事する必要はありませんし、ケア活動のすべての詳細が政府によって組織化される必要もありません。しかしながら、ケアに関する責任を一般的にいかに配分するかは政治的な問題であり、政治を通じてわたしたちが応えるべき問題なのです。

同書41ページ

 

小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』

ジェンダーによって不当に配分されたケア規範を問い直し、すべての人々が模索していく(べき)「ケアの倫理」について、文学作品批評を通して接近していく本です。

様々な文献をたどりながら、「自律的で閉じた自己」ではなく「多孔的な自己」へと自分を開いていくこと、他者の感情と向き合っていく中で、わかった気にならず、わからないままにとどまっておける力(「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼ばれます)を持つことなど、非常に示唆に富むキーワードをいくつも提示してくれています。

例によって、心に留めたい一文を引用します。

他者をケアするとき、そこにはどうしてもルールや規範が介在する、あるいは介在してほしい、よけいな迷いは時間や労力をも増やしてしまうという気持ちが生まれる。人間が道徳規範に頼る根本的な原因は、言葉の創造性の欠如にあるのかもしれない。

同書117ページ

 

G・ペリー『男らしさの終焉』(小磯洋光訳)

ジェンダーの社会構造の中で、女性に不当に「ケア」が割り当てられている、というケア規範があるということを上で書きましたが、その規範の裏返しとして男性にもまた「男らしさ」の呪いがかけられている、ということを述べている本です。(男性に現時点で社会的な特権があるというのは、決して忘れてはならないと思いつつ。)

イギリス社会の例が多く出てくるので、固有名詞などが身近でなく少しわかりにくいところもありつつ、学術書というよりはエッセイに近いので、かなりスラスラと読めるものでした。(学術書というより、と言っていますが、「男性学」の一部とも言えるかもと思い、一旦ここに・・・。)

男性学の本は他にも少しずつ出てきていると思うのですが、僕がまだこの本しか読めておらず・・・。もう少し手を伸ばしてみねばとこれを書いていて痛感しております。

男らしさの終焉

 

 

おわりに

ハァ・・・、ハァ・・・。(息切れ)
こんなにもボリューミーな内容で・・・ここまでたどり着いたでしょうか・・・。

ここに挙げたもの以外にもとても重要な文献や勇気付けられた言葉は数え切れないほどありますし、もっというと、これまで挙げてきた文献もまた、それ以前にあった学問の蓄積の上に成り立っているのだと思います。

全てピックアップすることはできませんが、長い長い歴史の中で、多くの戦いや抵抗があったことはこれからも決して忘れないようにしたいです。

もしも皆様のオススメの本や、僕の記述の中での誤りなどがあれば、ぜひコメントなどで教えていただけると幸いです。

 

全ての先人たちに心からの愛と敬意と感謝をこめて、結びといたします。

 

同性ふたり暮らし宣言

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歩幅を揃える

一週間後、同性の友人との二人暮らしが始まる。

いま僕は新居でひとり、数日遅れて入居してくる彼を待っている。苦労して見つけた二人用の家は、僕一人で住むには少し広い。
 

二人で一緒に暮らそうと決めてから、もうすぐで丸二年が経つ。二人の就職のタイミングの都合により同居開始まで二年間の空白期間があり、その間僕たちは週末同居という形で、二人暮らしをするための「テスト期間」を設けていた。

水回りの水滴はきちんと拭くとか、洗濯物はこう畳むとか、味噌汁の味付けはこれくらいの濃さがいいとか、そういう暮らしの足並みを二年間かけて少しずつ揃えてきた。

僕たちはお互いだけを強く求め合う関係だとか、二人さえいれば全て問題解決というふうに思えるような関係にはないので、より一層冷静に、これまで二人が積み重ねてきた生活のリズムを互いに確認し、「二人でいること」と「僕たち一人ひとりが自分自身であること」とが矛盾しないようにチューニングする必要があった。

 

二年間の中で、これまでバラバラの生活をしてきた二人の歩調や足取りが似ていくのは面白かったし、二年間かけても揃わない部分は、それはそれとして互いの聖域として土足で踏み荒らさないようにする、という距離感を取れるようにもなってきた。

僕たちはゼロ距離でもなければ、輪郭が溶け出すような官能的な瞬間も訪れないけれど、二人のあいだの距離感は簡単には再現できないものだと思う。僕は彼と近づいていく過程を経ることで、近づくだけが親密さではないのだと信じられるようになった。

 

そうして晴れて「テスト期間」を突破した僕たちは、同じ家で暮らし始める。

 

言葉のすき間にすべり落ちる

「友達と暮らす」と周りに言うと、「結婚する前の今の時期しかできないもんね」と返ってきたり、ここまで直接的でなくとも「結婚というゴールがある前の友人との暮らしの期間」という考え方を前提にして話されることが多い。

けれど僕にとって彼は、世間が「友達」という言葉に対して書き加えてきた意味合いからはみ出る存在だと感じる。問題なければずっと一緒に暮らしていけたらいいと思っているし、互いに体重を預け合って、その重みと体温を受け止めながら生きていければいいと思う。


「友達」という言葉は僕たちにとって常にどこか不足していて、そこから漏れ出る二人の質感は、手持ちの言語ではうまく掬い取ることができない。けれどそれは確かに僕たち二人の間にあって、温かい。

かといって、より重要性が伝わるように「パートナー」などの言葉を用いると、これもまた世間が書き加えてきたイメージに照らして、聞き手は我々の関係を「恋愛関係」などと読み違えてしまうかもしれない。「恋人・パートナー」という言葉は僕たちにとって常にどこか過剰でありながら、同時にどこか不足している。

(ちなみに、同性婚の権利が保障されていないこの国で言う必要もないかもしれないが、彼は僕の「夫」にもなりえない。)

 

こう考えてみると、重要な人間関係を表す言葉の体系がいかに恋愛/婚姻関係至上主義の影響を受けているかがわかる。

僕たちには言葉が足りていない。恋愛関係を経由せずに重大な人間関係であることを示す言葉が。自分が重要だと思っているものを、世間にも即座に重要だとわかってもらうための言葉が。

そう考え始めると、もしもそのような言葉があればもっと大切にできたであろう「友人」たちの顔がぼんやりと思い浮かんでは、そのままどこかに消えていく。

 

「ふつう」に馴染めない/馴染まない

世間と価値観のズレが起きたままで生きていくことは、思ったよりもしんどいし、面倒くさい。ならばそんなことはやめて「恋愛至上主義」や「婚姻(やそれに基づく家族)至上主義」の規範をインストールすればいいと思ったのだが、僕にはあまり向かなかった。彼もまた、理由は違えどそうだった。

 

「ふつうの恋愛のあり方」に馴染めない/馴染まない

まず恋愛至上主義について。僕は同性を好きになる指向を持っているけれど、同性愛者が生きていく中で「恋愛」の占める度合いや存在感は少し複雑だと、個人的に感じている。(少し長くなるけど大事な話だからよかったら付いて来てね)

 

出会いの場が限られているという点で恋愛へのアクセスが困難であることや、世の中の恋愛のイメージに用いられるのが異性カップルばかりであるという事実を踏まえると、一見、同性愛者たちは(少なくとも異性間)恋愛至上主義と距離を置かれているようにも見える。

しかしながら、同性愛者が「同性に恋愛志向をもつ者」だと定義され、社会的マイノリティとして印づけられている以上、僕という一人の人間を定義するのに「恋愛」の要素が色濃く入り込んでくることになる感覚を覚える。(一方で恋愛対象が異性である人の多くは、自分のことを「異性愛者」だと意識すらせずに生きていけるのではないかと想像する。)

 

重要なのは、同性を好きになる指向性を持つということと、恋愛を重要視することは全くの別問題だということである。
しかし、「同性愛者」として生きることがすなわち、その人にとって「恋愛」が重要な地位を持つということに結びつけられる傾向があることも否定できない。

事実として、恋愛をしていない同性愛者が出てくるドラマや漫画、映画は国内だと限りなく少ない(これはBL文化という特殊な事情も背景にあるが)。けれど恋愛をしていない/重視しない同性愛者や、恋愛関係ではない人と親密さを育む同性愛者がいたっていいはずだし、実際に生きているのだと思う。

当然、恋愛相手の性別が同性であるという理由だけで不当に差別を受ける世の中は一刻も早く是正されるべきであるし、同性を愛する者のいわば「恋愛する自由」を保障することは何よりも急務である。そしてまた、真に平等な世の中が訪れた暁には、偏った同性愛者の描かれ方もおのずと減っていくだろう。ただ、「恋愛する自由」を求める動きと同時に、「恋愛(関係)至上主義」に異を唱える動きがあってもいいと、そう思っている。

 

長くなったけれど要は、同性愛者である僕も、恋愛至上主義の重力圏にあるということだ。

ただ僕は、恋愛対象として他者を眼差し、恋愛対象として自分が眼差されること、そしてそのようなロマンティックな結びつき(だけ)が取り立てて称揚される世の流れに、なんとなくしっくりこなかった。(もっというと、「友情」と「恋愛感情」とを明確に区別するという考え方も、僕にとってはどこか不自然だった。)
現実世界で出会いが少ないゆえにマッチングアプリなどの"恋愛用の場所"を利用しなければならないという状況もまた、上記の違和感にさらに拍車をかけたように思える。

そうして次第に、生活する上でのパートナーを見つけるのに恋愛を介する道しかないことに、息のしにくさを感じるようになっていった。かくいう僕も恋バナはむしろ好きだし、彼氏自体も欲しくないわけじゃないけれど、一緒に生きていく人の選択肢は、人の数だけあっていいと思った。

そんな中で今、自分が、世間のいうところの「恋愛関係」にない人間と固有であたたかな関係性を交わせているという事実が、何より僕自身を救ってくれているように感じる。彼と一緒にいる時は、いつもより少しだけ深く息を吸える気がする。

 

「ふつうの家族」に馴染めない/馴染まない

「(異性間の)結婚や血縁に基づく家族関係のあり方」や、そのような家族関係を至上とする考え方にもまた、うまく馴染めなかった。というより、同性婚ができない社会で同性愛者として自認しながら育ってきたために、「結婚」やそれに基づく「家族」制度から一方的に締め出されていたと言った方が正確かもしれない。
同性婚ができない今も、僕たちは「家族」制度から完全に締め出されている(とはいえ、同性婚ができたところで実際に結婚するかどうかはわからない)。

けれど、少なくとも僕にとって、彼は「家族のオルタナティブ」だと思う。
世間の想定する「家族像」には当てはまらないままで、それでも、ちゃんと(家族のことを愛している人が家族を愛する度合いと同じくらい)彼のことを大事な「家族」だなと思えるようになってきた手応えがあるし、これからもなっていくだろうと思えるのが嬉しい。

 

言うまでもないけれどこれは、そのような二人組の法的保障を認めなくてもいいという言い訳にはならない。
性別関係なく、あるいは結婚の有無にかかわらず「家族」になれるのであればそれでいいねと美談にするのではなく、むしろ、性別や結婚の有無関係なく「家族」になれるのにもかかわらず、法や社会が承認する家族とそうでない「家族」が確かに区別されているという不均衡を捉え返さなくてはならない。
(これは、異性同士の二人組は承認されているのに同性同士の二人組は承認されていないという視点と、婚姻関係にある二人組は承認されているのに婚姻関係にない二人組は承認されていないという視点の、少なくとも二つを含む。)

 

「ふつうの男二人」に馴染めない/馴染まない

世間の想定する「家族像」と言えば。

これまでフェミニズムの歴史の中で、男女の不平等なケア規範が指摘されてきた。
ごく簡単にいうと、女性を「ケアする性」、男性を「ケアされる性」と措定して、家事や育児などのケア労働が女性に偏って配分されているということで、これは長い間女性の社会参加を阻害し、その状況を正当化する言説となってきた。おかしな話だと思うし、是正されるべきだと思う。

 

そのほか(上記の裏返しにも近い形の)ジェンダー規範として、男は強くあるべきだという言説もまた根強く存在してきた。
男性同士の関係性はしばしば「男らしさ=屈強であること・女性を恋愛対象とし、かつ女性の上に立つこと・同性愛を排除しようとすること」を深め、誇示し、場合によっては競い合う関係性だと指摘され(その土台となる「男らしさ」はtoxic masculinityとも呼ばれる)、実際にそのような関係性も今なお見られる。

「男」あるいは「男同士の関係性」という既存の言葉には、そのように、「弱さ」や「傷つきやすさ」に関するイメージが(意図的に)書き加えられてこなかった。
男であるゆえに、自分の弱さを引き受けることや、他者の弱さとともにあることが免除され、そのしわ寄せが女性に向かっていること。また「免除」という言葉を「禁止」に置き換えると、それは男性に対して強くはたらく呪いにも転じる。

けれど、僕たち人間の生は実際のところ他者に依存しているし、弱い。すぐに傷つく。一度ついた傷はすぐには癒えてはくれない。常に強くあることはできない。
だから、強くあらねばならないという呪いを、一つずつ解きほぐしていきたい。それがより公平な世の中に繋がっていくことを願って、「男二人」で。

 

実際、僕たちが日頃話すことといえば、最近こういうことが好きという話の他に、こういうことに悩んでいるだの、昔の古傷を今も引きずっているだの、そういう話も多い。
彼の前で弱くいられるのが嬉しい。そうして弱くいられる人の中にあって、それでも消えない灯火のことを、強さと呼びたい。そういう灯火を、雨風から凌げるような家で暮らしたい。

 

暮らしが抵抗になる

こんな風に書くと、随分と大げさに見えるかもしれない。つまり、単に男二人で住むという私的な事柄が、なぜ恋愛/結婚関係至上主義だの、ケア規範だのに接続するのかと問いたくなる人がいるかもしれない。

 

しかし、社会の規範は僕たちの日常のただ中で、常に再生産されている。それは制度上の不平等だけでなく、多くは具体的で日常的な言説や言語の形をとりながら。(当然、この文章も例外ではない。)

だから例えば、社会の規範に乗り切れない僕たちの関係性をうまく掬い上げる言葉は、社会によってあらかじめ用意されていないし、きっとこれからも日常において、小さいかもしれないが多くの困難に直面する。

しかしだからこそ、二人が言葉を探し続けること、既存の言語から抜け出そうとして時には挫折すること、その中で既存の言語に新しい意味やイメージを書き加えること、何でもない日常を送っていくことが、ひるがえって常に社会への抵抗の起点になるかもしれない。

 

既存の文化や権力を含みこむ言語の網の目の中で生き、その規範の一部に乗り切れない僕にとって、そのようなすでに言語化された(すなわち権力によって舗装された)言葉の上に身を置こうとするよりも、むしろ言葉にならない「余剰」の中に拠り所を求める方が、僕自身であることと矛盾しないのだ、という強がりも今なら言える気がする。

 

ふたりから始まる

僕たちは、「付き合わない」ままで一体どこまで突き抜けることができるんだろう。

 

僕たちが向かっていく先に何があるかはわからない。おそらく簡単な道ではない。大きなレールから外れる。でも僕たちははじめから、レールになんて上手に乗れていなかった。

手持ちの言葉はすでに社会によっておびただしく意味を書き加えられ、そうでない生き方を想像できる場所は極めて少ない。だから実際に、二人で生きる。生きて二人ぶんの足跡を作る。

そうしていつのまにか、どこか風通しのよい場所に、見晴らしのよい地平にたどり着いていることを願う(たどり着いた時には一人かもしれないし、別の二人かもしれないし、三人以上かもしれない)。

その轍が、誰かにとっての道標になることを夢見ながら。その痕跡が、誰かにとっては足枷となることを引き受けながら。

 

規範の網の目をすり抜けた先に見える、「ふつう」であれば見過ごされ、なかったことにされるはずだった情愛、戸惑い、かがやき。

そんな綺麗事めいたことを言えるような社会ではないし、実際のところはこんなに毎日意気込んで生きていくわけでもないけれど、新たに広い野原に踏み出す二人の門出は、このくらいきらびやかでちょうどいいのかもしれない。
これは意気揚々とした選手宣誓みたいなもので、この後は、二人のふつうの生活がただ続いていくだけだ。

しかしきっと、その「ふつうの生活」こそが、僕たちも知らないうちに、新しい空気を招き入れてくれるような予感がする。それがどんな空気かは、まだわからないけれど。

 

なんて大きなことを空想しながら、この東京の片隅の小さな部屋で、キーボードを叩く。
この家で、同居が始まる。この家から、ふたりが始まる。

 

 

【追記 2022.2.4】

この記事を書くにあたり必要だった言葉や知識を、僕に与えてくれた数々の先人たちがいました。

それらの文献を部分的ですがこちらの記事にまとめましたので、必要な方々に届くと嬉しいです。

 

(note過去記事)ゲイやバイセクシャル同士のカップルを描いた恋愛ドラマ見たすぎ

(note過去記事:2021年12月12日公開)

 

クィアのみんな〜〜〜!!アンタ最近どんな感じ?ちゃんと野菜とか食べてる?

クィアじゃないのにこのタイトル見てきてくれたそこのアンタ本当ありがとね マジ全員LINE交換しよわら

ちょっと今から唐突に男性同士の恋愛ドラマの話をしますので、最後まで話聞いてってよ、ほら、ここ座んなさい 

 

※重要
以降、男性同士の恋愛を描いたドラマに関するボヤキが続きますが、LGBTQ+全体の視点で見たとき、他の性に比べて、(まだまだ少ないとはいえ)男性同士のカップルを描いた作品が群を抜いて多いという現状も忘れてはなりません。
男性同士のカップルの描かれ方に問題がある、という話以前にそもそも、女性同士のカップルやトランスジェンダーの方を含むカップルをはじめとして、その存在がドラマなどの中で描かれていないケースが数多くあります。
男性-女性、シスジェンダー-非シスジェンダー、恋愛や性愛をする-恋愛や性愛をしない、などのように、LGBTQ+という括りの中にもさらに多くの社会的格差があるという事実と自分の特権性を噛み締めながら、書きます。

 

ゲイ(バイセクシャル)とゲイ(バイセクシャル)が付き合うドラマ日本にほとんどないかも・・・。

いやいや、男性と男性が付き合う話なんて最近増えてきたでしょ?

数年前も『おっさんずラブ』社会現象にまでなってたし、『チェリまほ』なんかも人気だったし、最近は『消えた初恋』なんてジャニーズが主演してるドラマも増えてきてて、もうホントすごい勢いだよね。あと、あんまり知られてないけど『Life 線上の僕ら』も評価高いみたいだし。

と思ったそこのアンタ!!!!

 

うん、うん、確かにね。確かに、確かに、と・・・。

確かに本当におかげさまでドラマ増えてきてて嬉しいんだけど、上に挙げた4つのドラマに共通すること何だかわかる人いる?じゃあ、今日は12日だから、出席番号12番の鈴木!

ん〜、ちょっと自信ないんすけど・・・。

あれっすかね、両人物(少なくとも片方)が最初から同性が恋愛対象であるということを設定上明らかにすることなく(むしろ異性愛者的な描写を含むこともありうる)ドラマがスタートし、「男性として」ではなく「人間として」魅力的であるという思考を一度経由したのちに、二人の恋愛が進展していく点でしょうか。

それに関連して、多くの現実世界のゲイやバイセクシャルは、職場や学校などで恋人を見つけることが非常に困難であるためにネット上やマッチングアプリ、ゲイバーなどを介して出会いの場を探求せざるを得ないにもかかわらず、これらのドラマでは、そのような困難がなかったかのように、まるでよくある男女カップル恋愛ドラマのように「自然」な出会い方をしています。

こんな感じでどっすか。

 

正解です。

 

ほぼ鈴木くんが答え言っちゃいましたが、ここから僕も一応話します。

いや!!!ね!!!いいんですよ!?!!セクシュアリティは流動的だもの!!!!性ってグラデーションだから、100%なんて決めるのも変だし!!!!本当にそれはそう。
いやでもね!?!?!!一旦ちょっと待って。この世の男性同士のカップルってどう考えてもゲイやバイだと自認してる人同士の恋愛が多いと思うんですけど違うんですか!?!? 
この世の男性同士のカップルの大半がまさかのノンケ落ちスタートなんて・・・そんなの・・・。そんなの・・・あったらすごい

 

いわゆる男女のカップルドラマって異性愛者(と自認している人)と異性愛者(と自認している人)が付き合ってるのがほとんどだと思うし、誰もそこ疑ってすらないと思うのよ。なのになぜ男性同士のカップルになるとそれが自然に作られないワケ・・・。 

さっきも言ったように、そういうカップルも現実にいると思うし、そういうカップルを描いたドラマがあっても全く構わないんだけど、順番と比率がちょっと不自然な気がするんだよね。こういうイメージが先行してしまうと、現実とは異なるように社会が受容してしまうケースが多くなると思うのよ。


今から僕の話します。

当時、異性愛者男性に淡い恋心を持っていた僕は、日々の苦痛を耐え忍ぶために、『おっさんずラブ』から勇気をもらっていました。ああ!今は辛いけど、これからも好きでいつづけたら、異性愛者の彼ももしかしたら僕に振り向いてくれるかもしれない!諦めるな自分!愛は最後には勝つのだ!と、泣いては励まされ、泣いては励まされ、という日々を送ってたワケ。まじ健気じゃない?

が、現実はそんな甘くはなく、まあね、盛大に振られましたよね・・・。
あはは・・・。あれ待って・・・涙で・・・画面が見えない・・・。ウチって笑顔の時が一番かわいいのに・・・。あでも泣き顔もよく見たらかわいいかも!
はい。 でね、ふと思ったワケです。もちろん『おっさんずラブ』はありがとう。おかげさまで大恋愛ができました。最高の思い出になった!
でももしもあの当時、ゲイと自認する男性同士の恋愛を描いてくれるドラマがあったら、違った形で人生に希望を見いだすことができたのではないかと・・・。無理に自分をすり減らさずに人を愛することができたのではないかと・・・。そう思ったの・・・。ちょっと苔ちゃん泣かせたの誰ーーーーッ?!??!?!?!?

 

僕の話しちゃったけど、これらのドラマはきっと社会の側の男性同士の恋愛に対するイメージにも多かれ少なかれ影響を与えているはずで、その点が少し心配になってしまう。もしも、ゲイ自認の二人が幸せそうに恋愛するドラマがあれば、きっと『おっさんずラブ』のことももっと心置き無く愛せただろうなあとか、そう思うわけであります。

 

なんでこういう状況なのか、ちょっと考えよう

ゲイ自認のカップルが出てこない話はおそらく、これらのドラマの多くが「BL漫画」を原作としている点に深い関わりがあるような気がしております。

これまでのBL漫画では、上で述べたような、異性愛者が(多くは)ゲイに迫られて次第に惹かれながら付き合う、あるいは異性愛者同士が次第に惹かれ合う、というパターンが「王道ルート」のひとつになっているような傾向がある気がするワケ。それでこそ純愛だ!的な。

実際BLに関しては、女性のファンタジーが過度に投影されているという批判や、実際のゲイの恋愛のあり方が描かれていないという批判が近年少しずつなされるようになってきたわけですが(そうじゃないものも勿論あります)、それらのBL漫画が当事者以外を多く含むファン層からの支持を獲得する中で人気になり、次々とドラマ化されるようになった結果、このような状況になっているんじゃないかね、ということです。

 

基本的にテレビドラマって、テレビ局オリジナルのものか、人気の既存原作をドラマ化するっていう2パターンがあると思うんだけど、後者に関しては現状売れている漫画がそのような「王道」なBL漫画であり、前者に関してはきっとリアルさを含んだドラマ企画が採用されにくい環境(あるいは視聴率が取れないのではないかという懸念)なのが背景だったりするのかなあ〜とか思ったりね。

いい原作〜〜〜〜!!!!!あるいは最高なテレビ局社員〜〜〜〜!!!それに広告つけてくれるアゲなスポンサ〜〜〜!!!!ほんまよろしく頼むよ〜〜〜〜!!!

 

これらをどんどん掘り下げていくと、大変恐ろしい結論にたどり着きます。

テレビドラマになれるのは「異性愛者向けの同性カップル」(言葉を選ばず言うと「異性愛者が見ても大丈夫な」同性カップル)のみではないのか、と疑念です。

 

男性同士の恋愛自体や、男性に欲望を抱く男性という存在に抵抗があるという視聴者に対して、これまで述べたようにはじめからゲイやバイセクシャル設定ではない描き方をしてきた他、しばしば「〇〇が人間として好きなんだ」といった形の言い訳が用いられてきましたし、これらのドラマの広告でも「性別を超えた恋愛」といった謳い文句がくどいほどに付けられてきました。
そんなの(性別を超えてるはずの)異性間カップルのドラマでは言われないのにね。アハハ。

職場や学校で自然と出会うという設定も、既存の異性間恋愛ドラマが踏襲してきた受け入れやすい枠組みの中で描いているという意味では、万人受けしやすくするための設定というふうに言えるかもしれない。(これに関しては、異性間恋愛ドラマでもマッチングアプリスタートのカップルがもっと見てみたいです。)

また、ここまであえて触れてきていなかったけど、『きのう何食べた?』は両者がゲイであることを明かしていたり、いわゆるゲイらしい出会い方をしている点で非常に貴重でありがたい作品です。

しかしながらこれも、あえてスキンシップや性描写(セックスやキスシーン)を避けてほのぼのとした生活を前面に押しているという点においては、同性愛に抵抗がある人でも「受け入れやすい」ドラマとして受け止められているのではないかという疑念を拭うことができなくて悲しい。(本当にいい漫画なのにね)

 

ウチらって異性愛者に認められたくて恋愛してるワケじゃないのにな〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!

てか今気づいたんだけど、恋愛してないゲイを描いてるドラマもめっちゃ少なくない?!?!?!?!何??!!?恋愛してないゲイは存在しないってこと??!?!!じゃあ今ここでキーボード打ってる恋愛してないゲイって一体何??!?!?!!!??!!?妖精!??!?!?!?!

妖精だったら意外と悪くないかも

 

いやあのほんとにありがとうございますって言いたい

これ何度も言いたいんだけど、いやほんとにこれまでのドラマには感謝の気持ちでいっぱいなの・・・。原作書いた人も、それをテレビ局の会議室でやりましょうって最初に声あげた人も、それに賛同した人も、そこから脚本考えた人も、セット作ってくれた人も、役者さんも、みなさま本当にありがとうございます。ボーナス上げてあげてほしい。

これらのドラマのおかげで、実際「LGBT」の認知率が大きく高まったと思うし、何はともあれ男性同士のカップルが存在するという事実に対する抵抗感も少しずつ減っていってる気がしている。

そしてきっと、今この瞬間、テレビ局の中でたくさんもがきながら「いやいやこんなドラマじゃ視聴率取れないから」なんて言葉に苦しめられている社員さんもいるに違いない、そう信じさせて〜〜!!ほんと・・・リアルになればなるほどターゲットが狭まってしまうから視聴率って下がっていくんだろうな・・・。

でもやっぱり多大な影響力を持つドラマだからこそ、男性同士カップルの中でも「認められるカップル」と「そうでないカップル」(あるいはLGBTQ+の中でも「認められる人間関係」と「そうでない人間関係」)とを分断してしまいかねない今の状況が超悔しいワケ。

別にドラマだからって必ずしも100%現実に即しているべきだとは思わないけど、テレビドラマの社会に対する影響力を考えると、現在逆境に立たされている社会的マイノリティを描く際にはその点考慮されて然るべきじゃないかなあって思うのよ。
しかも、現状基本的な人権が保障されていない中でドラマだけ見てると、「僕たちってただの金儲けのためだけに消費されてんのかな・・・」とかも不安になってきちゃうわけよ・・・。

 

こういうことボヤきたくなっちゃうような、未だ不平等な社会構造と、これまでのドラマの蓄積のなさが憎いッ!!!あたしゃ憎いよッ!!!ウワ〜〜ッ!!絶対いつかみんなで気持ちよくドラマを見たいよ〜〜ッ!!!そしてみんなでノンフィクションの世界に希望を持ちたいよ〜〜ッ!!

 

おわりに

クィアのみんな〜〜〜!!!!みんなは人に認められる前から、そのままで存在していていいんだよ〜〜〜!!!そういう風には思えない日々が続くけど、それでもやっぱりそのままで存在していていいんだよ〜〜〜!!!てか、ウチらって、ウチらのままでしかいられんじゃん?

 

いつか、よりリアルな男性同士カップルのドラマが見られることを願いながら、そして何より、シスジェンダーゲイ男性同士カップル以外のクィアの人々を描いたドラマがもっと世の中に増えることを祈りながら、僕は今からネトフリの海外クィアドラマに逃げ込んできます。