(note過去記事)安静にしてます

(note過去記事:2020年8月9日公開)

 

安静にする、ということの中に「noteを書く」が含まれているかわからないけど、感情は新鮮なうちにしたためるべきだと会社の上司から習ったので、書きます。

 

今熱は37.5度で、咳はなく、Twitterに流れてきた面白そうな記事のリンク元に飛べるくらいには元気です。

しかし、やはりこのご時世、朝起きて体温計が37.2度を示していたとき、「今日からの旅行は行けないだろうな」と直感的に思いました。というか、倫理的に思うべきラインですね。
それから一緒に行くはずだった友達に連絡して、「やはり今回は難しいね」ということになり、旅館にキャンセルの連絡をして、今ベッドで寝ています。

 

一緒に行くはずだった友達とは、大学時代長期休みのたびに二人で旅に出かけていたような間柄だったけれど、今は離れ離れのところに住んでいるから、今日のこの旅行をお互い、少なくとも僕は、心から楽しみにしていました。

その証拠に、今僕が寝ているベッドの隣には、今日の旅行のために買いに行った服の紙袋が転がっています。昨日の夜のうちから枕の隣に用意しておいた洋服一式は、キャンセルの電話をした後にタンスにしまいました。

 

****

 

今朝、発熱していることがわかったとき、まず最初に「なんでよりによって今日?」と思いました。だって昨日の夜まであんなに元気だったのに。
でも、「なんでよりによって今日?」なんて問いに答えは出るわけがなく、それは結局自分が悲しみに酔うための道具にすぎないとも思うし。

 

考えてみると、人生は「なんでよりによってこの日?」「なんで自分/我が子に限ってそんなことに」なんてことだらけだし、それが生きるか死ぬかを分けることもあります。僕の故郷の長崎県に原爆が落とされてから、今日で75年経ちました。

人類学の本(多分レヴィ=ストロースだったと思う)を読んでいた時、「科学はなぜ/どのようにその事象が発生したかを教えてくれるけど、なぜその事象が他でもなくこの私の身に降りかかったのか、ということは宗教や呪術しか教えてくれない」みたいなことが書かれていました。
僕に引きつけて言えば、発熱のメカニズムや原因は科学的に多分わかるけど、なぜそれが今日この日だったのかは、超自然的なもの以外誰にもわからないということです。

 

最近、人間ってあんまり合理的なものではないよな、と思います。
そりゃあ、昔に比べたら「合理的・理性的」になってるかもしれないと思うけど、でもそれって今そういう思考の枠組みが普及しているからであって、人間それ自体は平安時代や戦国時代、そして第二次世界大戦の頃からそんなに変わっていないよな〜って思います。

考えても考えても答えがわからないことを考えることとか、科学的に証明されていないことを信じることは、客観的に見ると多分、合理的ではない。
でも、合理的に割り切ったり、納得することが難しい時もあって、色々考えてしまうし、考えていい。
その人の中で、それが大事ならば、それが全てなんだと思うし、こちらから「そんなこと考えてもしょうがないよ」とか「そんなこと客観的に考えたらおかしいよ」なんていうのはおそらく野暮。

他人にできることは、「そうなんだね」と言って、その人の中の真実を否定しないことしかないんじゃないかと、最近思います。(もちろん、その人の真実が公共の福祉に反していたら、それは規制されるようになっているし、規制されるべきだ、と思います。)
これが冷たい放任なのか、温かい気遣いなのかは、僕もまだわかっていません。

 

****

 

それにしても、キャンセルって辛い。過去に一度でも、その未来が想像できていたということが、あまりにも暴力的。

友達とのLINEを見返したら、昨日は楽しそうに「明日〇〇持ってくるの忘れないでね」ってメッセージ送ってるし、スマホのメモには今日の旅程が事細かに記されているし、カメラロールには「この時間に行くね」と言って貼った乗り換え案内アプリの画面のスクショが残っている。

だから、ベッドにいても「今頃本当だったらチェックインしてたな」とか「今頃部屋を出て食事処に向かってたな」とか、考えてしまう。考えるだけ無駄なんですけど、そういうことを考えても誰にも怒られないから別に考えていい。

キャンセルの怖いところは、たくさんの亡霊をこの世に生み出してしまうところだと思う。それは旅行だけじゃなくて、例えば誰かにある想いを告げるのをやめるとか、一緒に未来のことを考えていた相手が突然いなくなるとか、ある未来を具体的に想像していたのにその未来が突然失われてしまうこと全てに言えることだと思います。

 


〇〇したかったという気持ちを完全に忘れてしまうか、その気持ちが何らかの形で供養されるまで、その亡霊はこの世に居座って、折に触れてその人のほうを見てくる。

コロナでたくさんの人の旅行の計画が取り消しになってしまって、今の世界では、〇〇するはずだったという数多くの想いが、亡霊の形を取ってその辺を歩き回っているなあと思います。
もしもそれが取り返しがつくものだったらいいけど、修学旅行も、大学生の余裕ある旅行(こんなこと言いたくないですが、社会人になると大学生の時ほど長い休みを取って友達と旅に出ることはかなり難しくなる)も、期間限定のものばかりで、なくなるとどうしようもなく悲しい。

 

そもそも、「取り返しのつくもの」なんてなくて、厳密には「その人にとって取り返しがつくと思えるもの」にすぎないと思う。たった一泊二日の旅行でも、取り返しがつかないと思いたくなる場合だってあるし。

その意味で、これを書くことは、僕にとっての供養です。旅行のキャンセルが、ただのキャンセルで終わらずに、自分の思考を整理する機会になったら嬉しいし、なんだかキャンセルの元が取れた気がしてくる。
僕は宗教も呪術も信じていないから、こうやって、卑しくて現実的な供養の仕方しかできません。

 

****

 

8月9日、11時2分。
僕は今日のこの時間、寝てしまっていたけれど、まだ遅くないと思うから、黙祷を捧げます。彼ら彼女らの「あり得たはずの未来」が供養されることを祈って、東京から。