同性ふたり暮らし宣言

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歩幅を揃える

一週間後、同性の友人との二人暮らしが始まる。

いま僕は新居でひとり、数日遅れて入居してくる彼を待っている。苦労して見つけた二人用の家は、僕一人で住むには少し広い。
 

二人で一緒に暮らそうと決めてから、もうすぐで丸二年が経つ。二人の就職のタイミングの都合により同居開始まで二年間の空白期間があり、その間僕たちは週末同居という形で、二人暮らしをするための「テスト期間」を設けていた。

水回りの水滴はきちんと拭くとか、洗濯物はこう畳むとか、味噌汁の味付けはこれくらいの濃さがいいとか、そういう暮らしの足並みを二年間かけて少しずつ揃えてきた。

僕たちはお互いだけを強く求め合う関係だとか、二人さえいれば全て問題解決というふうに思えるような関係にはないので、より一層冷静に、これまで二人が積み重ねてきた生活のリズムを互いに確認し、「二人でいること」と「僕たち一人ひとりが自分自身であること」とが矛盾しないようにチューニングする必要があった。

 

二年間の中で、これまでバラバラの生活をしてきた二人の歩調や足取りが似ていくのは面白かったし、二年間かけても揃わない部分は、それはそれとして互いの聖域として土足で踏み荒らさないようにする、という距離感を取れるようにもなってきた。

僕たちはゼロ距離でもなければ、輪郭が溶け出すような官能的な瞬間も訪れないけれど、二人のあいだの距離感は簡単には再現できないものだと思う。僕は彼と近づいていく過程を経ることで、近づくだけが親密さではないのだと信じられるようになった。

 

そうして晴れて「テスト期間」を突破した僕たちは、同じ家で暮らし始める。

 

言葉のすき間にすべり落ちる

「友達と暮らす」と周りに言うと、「結婚する前の今の時期しかできないもんね」と返ってきたり、ここまで直接的でなくとも「結婚というゴールがある前の友人との暮らしの期間」という考え方を前提にして話されることが多い。

けれど僕にとって彼は、世間が「友達」という言葉に対して書き加えてきた意味合いからはみ出る存在だと感じる。問題なければずっと一緒に暮らしていけたらいいと思っているし、互いに体重を預け合って、その重みと体温を受け止めながら生きていければいいと思う。


「友達」という言葉は僕たちにとって常にどこか不足していて、そこから漏れ出る二人の質感は、手持ちの言語ではうまく掬い取ることができない。けれどそれは確かに僕たち二人の間にあって、温かい。

かといって、より重要性が伝わるように「パートナー」などの言葉を用いると、これもまた世間が書き加えてきたイメージに照らして、聞き手は我々の関係を「恋愛関係」などと読み違えてしまうかもしれない。「恋人・パートナー」という言葉は僕たちにとって常にどこか過剰でありながら、同時にどこか不足している。

(ちなみに、同性婚の権利が保障されていないこの国で言う必要もないかもしれないが、彼は僕の「夫」にもなりえない。)

 

こう考えてみると、重要な人間関係を表す言葉の体系がいかに恋愛/婚姻関係至上主義の影響を受けているかがわかる。

僕たちには言葉が足りていない。恋愛関係を経由せずに重大な人間関係であることを示す言葉が。自分が重要だと思っているものを、世間にも即座に重要だとわかってもらうための言葉が。

そう考え始めると、もしもそのような言葉があればもっと大切にできたであろう「友人」たちの顔がぼんやりと思い浮かんでは、そのままどこかに消えていく。

 

「ふつう」に馴染めない/馴染まない

世間と価値観のズレが起きたままで生きていくことは、思ったよりもしんどいし、面倒くさい。ならばそんなことはやめて「恋愛至上主義」や「婚姻(やそれに基づく家族)至上主義」の規範をインストールすればいいと思ったのだが、僕にはあまり向かなかった。彼もまた、理由は違えどそうだった。

 

「ふつうの恋愛のあり方」に馴染めない/馴染まない

まず恋愛至上主義について。僕は同性を好きになる指向を持っているけれど、同性愛者が生きていく中で「恋愛」の占める度合いや存在感は少し複雑だと、個人的に感じている。(少し長くなるけど大事な話だからよかったら付いて来てね)

 

出会いの場が限られているという点で恋愛へのアクセスが困難であることや、世の中の恋愛のイメージに用いられるのが異性カップルばかりであるという事実を踏まえると、一見、同性愛者たちは(少なくとも異性間)恋愛至上主義と距離を置かれているようにも見える。

しかしながら、同性愛者が「同性に恋愛志向をもつ者」だと定義され、社会的マイノリティとして印づけられている以上、僕という一人の人間を定義するのに「恋愛」の要素が色濃く入り込んでくることになる感覚を覚える。(一方で恋愛対象が異性である人の多くは、自分のことを「異性愛者」だと意識すらせずに生きていけるのではないかと想像する。)

 

重要なのは、同性を好きになる指向性を持つということと、恋愛を重要視することは全くの別問題だということである。
しかし、「同性愛者」として生きることがすなわち、その人にとって「恋愛」が重要な地位を持つということに結びつけられる傾向があることも否定できない。

事実として、恋愛をしていない同性愛者が出てくるドラマや漫画、映画は国内だと限りなく少ない(これはBL文化という特殊な事情も背景にあるが)。けれど恋愛をしていない/重視しない同性愛者や、恋愛関係ではない人と親密さを育む同性愛者がいたっていいはずだし、実際に生きているのだと思う。

当然、恋愛相手の性別が同性であるという理由だけで不当に差別を受ける世の中は一刻も早く是正されるべきであるし、同性を愛する者のいわば「恋愛する自由」を保障することは何よりも急務である。そしてまた、真に平等な世の中が訪れた暁には、偏った同性愛者の描かれ方もおのずと減っていくだろう。ただ、「恋愛する自由」を求める動きと同時に、「恋愛(関係)至上主義」に異を唱える動きがあってもいいと、そう思っている。

 

長くなったけれど要は、同性愛者である僕も、恋愛至上主義の重力圏にあるということだ。

ただ僕は、恋愛対象として他者を眼差し、恋愛対象として自分が眼差されること、そしてそのようなロマンティックな結びつき(だけ)が取り立てて称揚される世の流れに、なんとなくしっくりこなかった。(もっというと、「友情」と「恋愛感情」とを明確に区別するという考え方も、僕にとってはどこか不自然だった。)
現実世界で出会いが少ないゆえにマッチングアプリなどの"恋愛用の場所"を利用しなければならないという状況もまた、上記の違和感にさらに拍車をかけたように思える。

そうして次第に、生活する上でのパートナーを見つけるのに恋愛を介する道しかないことに、息のしにくさを感じるようになっていった。かくいう僕も恋バナはむしろ好きだし、彼氏自体も欲しくないわけじゃないけれど、一緒に生きていく人の選択肢は、人の数だけあっていいと思った。

そんな中で今、自分が、世間のいうところの「恋愛関係」にない人間と固有であたたかな関係性を交わせているという事実が、何より僕自身を救ってくれているように感じる。彼と一緒にいる時は、いつもより少しだけ深く息を吸える気がする。

 

「ふつうの家族」に馴染めない/馴染まない

「(異性間の)結婚や血縁に基づく家族関係のあり方」や、そのような家族関係を至上とする考え方にもまた、うまく馴染めなかった。というより、同性婚ができない社会で同性愛者として自認しながら育ってきたために、「結婚」やそれに基づく「家族」制度から一方的に締め出されていたと言った方が正確かもしれない。
同性婚ができない今も、僕たちは「家族」制度から完全に締め出されている(とはいえ、同性婚ができたところで実際に結婚するかどうかはわからない)。

けれど、少なくとも僕にとって、彼は「家族のオルタナティブ」だと思う。
世間の想定する「家族像」には当てはまらないままで、それでも、ちゃんと(家族のことを愛している人が家族を愛する度合いと同じくらい)彼のことを大事な「家族」だなと思えるようになってきた手応えがあるし、これからもなっていくだろうと思えるのが嬉しい。

 

言うまでもないけれどこれは、そのような二人組の法的保障を認めなくてもいいという言い訳にはならない。
性別関係なく、あるいは結婚の有無にかかわらず「家族」になれるのであればそれでいいねと美談にするのではなく、むしろ、性別や結婚の有無関係なく「家族」になれるのにもかかわらず、法や社会が承認する家族とそうでない「家族」が確かに区別されているという不均衡を捉え返さなくてはならない。
(これは、異性同士の二人組は承認されているのに同性同士の二人組は承認されていないという視点と、婚姻関係にある二人組は承認されているのに婚姻関係にない二人組は承認されていないという視点の、少なくとも二つを含む。)

 

「ふつうの男二人」に馴染めない/馴染まない

世間の想定する「家族像」と言えば。

これまでフェミニズムの歴史の中で、男女の不平等なケア規範が指摘されてきた。
ごく簡単にいうと、女性を「ケアする性」、男性を「ケアされる性」と措定して、家事や育児などのケア労働が女性に偏って配分されているということで、これは長い間女性の社会参加を阻害し、その状況を正当化する言説となってきた。おかしな話だと思うし、是正されるべきだと思う。

 

そのほか(上記の裏返しにも近い形の)ジェンダー規範として、男は強くあるべきだという言説もまた根強く存在してきた。
男性同士の関係性はしばしば「男らしさ=屈強であること・女性を恋愛対象とし、かつ女性の上に立つこと・同性愛を排除しようとすること」を深め、誇示し、場合によっては競い合う関係性だと指摘され(その土台となる「男らしさ」はtoxic masculinityとも呼ばれる)、実際にそのような関係性も今なお見られる。

「男」あるいは「男同士の関係性」という既存の言葉には、そのように、「弱さ」や「傷つきやすさ」に関するイメージが(意図的に)書き加えられてこなかった。
男であるゆえに、自分の弱さを引き受けることや、他者の弱さとともにあることが免除され、そのしわ寄せが女性に向かっていること。また「免除」という言葉を「禁止」に置き換えると、それは男性に対して強くはたらく呪いにも転じる。

けれど、僕たち人間の生は実際のところ他者に依存しているし、弱い。すぐに傷つく。一度ついた傷はすぐには癒えてはくれない。常に強くあることはできない。
だから、強くあらねばならないという呪いを、一つずつ解きほぐしていきたい。それがより公平な世の中に繋がっていくことを願って、「男二人」で。

 

実際、僕たちが日頃話すことといえば、最近こういうことが好きという話の他に、こういうことに悩んでいるだの、昔の古傷を今も引きずっているだの、そういう話も多い。
彼の前で弱くいられるのが嬉しい。そうして弱くいられる人の中にあって、それでも消えない灯火のことを、強さと呼びたい。そういう灯火を、雨風から凌げるような家で暮らしたい。

 

暮らしが抵抗になる

こんな風に書くと、随分と大げさに見えるかもしれない。つまり、単に男二人で住むという私的な事柄が、なぜ恋愛/結婚関係至上主義だの、ケア規範だのに接続するのかと問いたくなる人がいるかもしれない。

 

しかし、社会の規範は僕たちの日常のただ中で、常に再生産されている。それは制度上の不平等だけでなく、多くは具体的で日常的な言説や言語の形をとりながら。(当然、この文章も例外ではない。)

だから例えば、社会の規範に乗り切れない僕たちの関係性をうまく掬い上げる言葉は、社会によってあらかじめ用意されていないし、きっとこれからも日常において、小さいかもしれないが多くの困難に直面する。

しかしだからこそ、二人が言葉を探し続けること、既存の言語から抜け出そうとして時には挫折すること、その中で既存の言語に新しい意味やイメージを書き加えること、何でもない日常を送っていくことが、ひるがえって常に社会への抵抗の起点になるかもしれない。

 

既存の文化や権力を含みこむ言語の網の目の中で生き、その規範の一部に乗り切れない僕にとって、そのようなすでに言語化された(すなわち権力によって舗装された)言葉の上に身を置こうとするよりも、むしろ言葉にならない「余剰」の中に拠り所を求める方が、僕自身であることと矛盾しないのだ、という強がりも今なら言える気がする。

 

ふたりから始まる

僕たちは、「付き合わない」ままで一体どこまで突き抜けることができるんだろう。

 

僕たちが向かっていく先に何があるかはわからない。おそらく簡単な道ではない。大きなレールから外れる。でも僕たちははじめから、レールになんて上手に乗れていなかった。

手持ちの言葉はすでに社会によっておびただしく意味を書き加えられ、そうでない生き方を想像できる場所は極めて少ない。だから実際に、二人で生きる。生きて二人ぶんの足跡を作る。

そうしていつのまにか、どこか風通しのよい場所に、見晴らしのよい地平にたどり着いていることを願う(たどり着いた時には一人かもしれないし、別の二人かもしれないし、三人以上かもしれない)。

その轍が、誰かにとっての道標になることを夢見ながら。その痕跡が、誰かにとっては足枷となることを引き受けながら。

 

規範の網の目をすり抜けた先に見える、「ふつう」であれば見過ごされ、なかったことにされるはずだった情愛、戸惑い、かがやき。

そんな綺麗事めいたことを言えるような社会ではないし、実際のところはこんなに毎日意気込んで生きていくわけでもないけれど、新たに広い野原に踏み出す二人の門出は、このくらいきらびやかでちょうどいいのかもしれない。
これは意気揚々とした選手宣誓みたいなもので、この後は、二人のふつうの生活がただ続いていくだけだ。

しかしきっと、その「ふつうの生活」こそが、僕たちも知らないうちに、新しい空気を招き入れてくれるような予感がする。それがどんな空気かは、まだわからないけれど。

 

なんて大きなことを空想しながら、この東京の片隅の小さな部屋で、キーボードを叩く。
この家で、同居が始まる。この家から、ふたりが始まる。

 

 

【追記 2022.2.4】

この記事を書くにあたり必要だった言葉や知識を、僕に与えてくれた数々の先人たちがいました。

それらの文献を部分的ですがこちらの記事にまとめましたので、必要な方々に届くと嬉しいです。