(note過去記事)同性愛に関する議論を、どうやって前に進めるか。

(note過去記事:2020年10月11日)

 

はじめに

「足立区が滅びる」という言葉や記事で話題になっている足立区議会の白石区議について、どうしたら彼の言葉を受けて自分が前を向けるか、ということを考えながらこの文章を書き始めました。

僕は、同性愛者の権利の擁護に賛成という立場でこの文章を書いています。

この文章はあくまで僕個人の意見であって、これが絶対というわけでは決してありませんし、むしろ結論のようなものは出せていません。ただ、議論を提示したのみです。

彼の発言を受けて個人的に不服な思いをしましたが、僕は前に進まないといけない、そのためには、
意見の異なる相手に暴言を吐いて終わるのではなく、
未来に進むための燃料として、そして未来を考える上での思考材料として、彼の発言を捉えたいと思いました。

この先に何も答えはありません。それでもよろしければ、一緒に考えましょう。

 

以下では、今回の記事を受けての、特に同性愛に関する僕なりの考えや疑問点を6つほど、ギュッとまとめて述べていきます。(この6つ以外に意見がないという意味ではありません。)

直接は記事に関係しない内容も含まれていますが、未来のために重要ではないかと思われる問いを投げかけているつもりです。

なお、自分でも手探り状態で書いているので、何かご指摘やご意見などあれば、教えて頂けると嬉しいです。これがよりよい未来のきっかけになれば嬉しいと思っています。

 

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①同性愛を認めることと少子化を止めることは両立不可能なのか

全世界の人が全員同性愛者になることはないので、「同性愛者を法律で保護したらみんな同性婚するから人口が減って世界が滅びる」という事に関する議論は必要ないでしょう。
しかしその代わりに、「同性愛者のための施策を整えたら、少子化を止められなくなる」という主張について考えたらどうなるでしょうか。

まず、このような「AしようとすればBが達成されなくなる」という命題を目に前にしたときに考えなければならないことは、AとBが本当に関連しているのか、そしてAとBは本当に両立不可能なのか、ということを吟味することでしょう。

まず関連性について。すでに多くの人によって指摘されている通り、少子化の原因は同性愛(だけ)には帰されません。もしかすると、同性愛が少子化の一因になる可能性が万が一あるにしても、それは子育ての際の環境や金銭的援助などの他の要因により強く起因します。そのため、同性愛と少子化を同じ議論に上げること自体がそもそもナンセンスということになります。

しかし、現実の行政というフィールドにおいては、地区全体の予算や労力をどのような配分で投資するかということが重要な問題になると思います。
すなわち、「同性愛者向けの施策のためにお金や労力をかけるよりも、より”喫緊”の問題である少子化を食い止めるためにリソースを割くべきである」、という主張が成り立つことになります。これは議論に値する主張ではないでしょうか。

しかしこれは再び、どちらかが1になればどちらかが0になるという極端な考えを有しています。本当にこの2つは両立不可能なのか?
そうして次に生まれるべき議論が「同性愛者向け施策成立のためにかけるリソースと少子化対策を止めるためにかけるリソース、そして他の数々の問題に対応するためにかけるリソースをどのような比率で分配するべきか」であり、これこそが国会や区議会の考えることになっていることではないかなと感じました。
そうすることで初めて、少子化を食い止めるための施策を行いながら、LGBTの方々の権利を保証するための議論ができるようになるのではないでしょうか。本当は両立可能な選択肢をあたかも相反する二項対立かのように見せることは、思考停止の始まりだと思います。

 

②「社会的弱者」の権利を擁護することは特別扱いなのか

記事中の白石区議の発言の中に、「一般的でない生き方を特別に擁護する必要ないでしょう」という発言がありました。
しかし、今回同性愛者の方々が求めているのは、何も特別な擁護ではない、というのが僕の考えです。
まず、僕の考えは、国民はみんな基本的人権を尊重されるべきであるという憲法の内容を前提にしています。なので、異性愛者も同性愛者も変わらず、(完全に同じでなくとも)相当するような基本的人権を得られるべきだ、ということになります。

この前提に立ったときに、同性愛を認めることはなにも特別な擁護ではないということになると考えます。なぜなら、同性愛者が求めているのは、「異性愛者が享受できているような」パートナーとの関係を認めてもらう権利であるからです。すなわち、これによって到達するところは「同じ」場所、ということです。
それなのになぜ、同性愛者の権利を養護することが「特別な擁護」であるように見えるのでしょうか。

同性愛を認めることが、同性愛者にしか有利に働かないからでしょうか。同性愛者が少数者だからでしょうか。
とすればこれは、施策をするだけの甲斐があるか、すなわち施策のコストパフォーマンスの問題ということにもなるでしょう。施策のコスパは、どれほどの人の利益に貢献できるかで決まる、というわけです。

日本は民主主義で多数決でものが決まるから、これは当然だ、考える方もいらっしゃるかもしれませんが、それだけでは不十分だと僕は考えます。それは先ほども述べたように、日本は立憲主義を採っているからです。
立憲主義は、多数派だけの考え方だけが採用されていく流れを阻止し、少数者の人権も保証されるための防波堤という側面を有しています。予算などの配分の問題、その他の説明可能なコストによって、同性婚にはどうしてもリソースを割けない、という結論に至るならしょうがないかもしれませんが、そうでない限りは、立憲主義の観点で考えるとやはり、同性愛者の権利を保障するという方向性自体は決して特別扱いではないという結論に至ります。

なお、どれくらいの「コスト」が妥当か、ということに関しては、現時点では考えを持ち合わせていないので、何かご存知の方いらっしゃいましたら教えていただけると幸いです。

 

③どの「社会的弱者」の権利が保障されるべきか

しかし②の内容は、なぜそもそも「同性愛者」の人権の擁護が叫ばれるようになったか、そしてなぜ「同性愛者」だけが現在議論に上っている社会的弱者なのか?という観点が抜けています。
すなわち、「行政によって(比較的)救われるべき社会的弱者」と「(比較的)そうでない社会的弱者」がいるのではないか?もしくは、「社会的弱者」の中にも優先順位が付いているのはないか?ということです。
今回の白石区議の発言に直接は関係しませんが、一考の価値はあると思います。

叩き台ですが、どのような「社会的弱者」が行政によって対応されやすいか、ということを考える上で、重要な軸になりそうな要素を四つほど挙げてみました。

1. 社会における認知率
:残酷なように見えますが、それぞれの行政区域の中で、その「社会的弱者」がどれくらい認知されているか?というのは重要でしょう。「発見」されていない「社会的弱者」は擁護することは難しいからです。近年SNSで多くの声が聞こえるになったことで人権意識が高まっていることもこれに関係します。

2.その「社会的弱者」の苦痛の規模
:その「社会的弱者」のもつ苦しみが、社会全体の中でどれほど大きいか、(イメージとしては、人数×一人ひとりの抱える問題の大きさ)ということです。先ほど、施策のコスパによって施策が作られるかどうかは決まらないと述べたばかりなのですが、その考えが支持を得たり、行政全体の予算を分配する上で、実際問題では重要になりそうです。
しかしながら、その苦しみがどれくらいの大きさになれば擁護の対象になるかどうか、ということに関しては全くわかっていません。

3. その人たちの権利を擁護することによって生じるコスト
:これも、実際の政治の場では重要になるでしょう。いくら「社会的弱者」だからといっても、その人権の擁護のために人々の間での衝突や、大きすぎるコストが発生する場合は、「調整」が行われることになります。(例えばですが、万が一仮に小児愛者が小児と結婚するために、人が結婚できる年齢を下げてほしいと要求した場合、生じるコストや小児の人権などの観点から何らかの「調整」が行われることになるでしょう)

4. 個人でのどうしようもなさ
:その問題は個人(や民間企業の力)ではどうしようもない、ということです。例えば、薬などの服用によって対応が可能な場合は、その人たちに対する公の援助に関しては更なる議論が必要になるかもしれません。(決して、薬があるなら擁護する必要はない、といっているわけではありません)

少なくともこの四つの要素に関しては、同性愛者の方々は社会的な擁護を受けやすい状況にある、ということになるでしょうか。

もちろん、この軸が間違っていたり、これ以外にも要素があることもはずです。これについて何か知識や考えがある方は教えてください。

 

④「自分の周りにいないから理解のしようがない」は通用するのか

白石区議は、TVや記事中で「(LGBTは)私のまわりにいないから(理解のしようがない)」という旨を述べています。これについて考えてみます。

これはまず、一般的な人に関していえば、わからなくはありません。僕も今、自分のまわりの外側のどこかで苦しんでいる人のことがいるということが、完全には理解できていません。

しかしここで重要なことは、「周りにいない(ように見える)」ことを、自分が理解を怠るための言い訳にしてはならない、ということでしょう。
近くにいない(ように見える)から気づけないのは仕方がないにしても、だからこそ想像力を働かせることや、できるならばインターネットなどを使って「遠く」の人の情報を収集する、ということが望まれると思います。

ましてや、区全体の行政についての決定権を持つ区議である方が、「近くにいない(ように見える)」からと言って己の無知や無理解を正当化、開き直ることはあってはならないのではないか、と感じます。

さらに問題であるのは、「理解できない」と言っているにも関わらず、記事中などで自らLGBTについて語っている点です。(理解できていないので事実誤認が見られる)
自分が理解できていないと思うのであれば、せめて偏見に基づく発言をしないでいただきたい、と思うのです。

 

⑤区議会議員は、誰の代表であるべきか

白石区議に対する意見を見てみると、「こんな人は区議であってはならない」という意見の他にも、「こういう人は上の世代にはいっぱいいる」といった意見も見られました。

これらを見ていると、一つの疑問が浮かび上がります。果たして区議会議員は、誰の代表をしているのか、という問いです。「社会的弱者」の権利擁護を謳う「理想の区民」の代表なのか、それとも、自分を支持した人の代表なのか。

(特に以下、政治における代表制に明るくないため、指摘などあればたくさんしていただけると嬉しいです。)

Twitterを見る限りは、おそらく前者であるべきということなのでしょうが、一方で以下のような考え方もあるでしょう。すなわち、それぞれの区民が自分の政治的信条に基づいて区議を選出することで、区議会には、区民の政治的信条の構成比率と(理論的には)同じ比率の区議会議員が選出され、そこで議論が行われるべきである、というものです。

いくら自分を支持した層の代表だからといって、公の場所で事実でないことを言ったり、偏見を促進するような言動をしたりすることは許されないとは思いますが、後者の考え方に基づく場合少なくとも白石区議は、白石区議を支援する足立区民の代表として、政治に参加していることになります。
つまり、今回のような物言いや態度などは不適切であるということは重々踏まえた上で、それでも「子育てが一番大事だ」と考える保守的な足立区民の代表として、白石区議の保守的な考え方それ自体は間違っていないということになります。
これもまた間接性民主主義の根幹であるように思います。

となると、気になるのは、白石区議の発言が区議会全体でどのように対応され、区議会全体でどのような結論に至ったかどうか、です。(ここでの結論が、理論上足立区民の結論に近似すると考えられるため)
今回、この点があまり言及されなかったことに対して少し違和感を覚えました。その辺りの今後の動きもチェックしなければ、と思います。

 

⑥全ての人のもつ「普通」は尊重されるべきか

これまでの流れを踏んでいくと、最終的には、この問いにぶつかることになるでしょう。

僕と白石区議の考える「普通」は違います。もちろん今読んでいるあなたと僕の「普通」も違います。もしかすると、一つの「普通」なんてないんじゃないかと思います。

だからこそ、自分の「普通」を他の人に押し付けたり、他人の「普通」を軽んじて偏見に基づいた言動をしたり、強制的に他者の発言権を封じることはしてはいけないと思います。

その代わり、自分の「普通」について他者と話す機会を持ったり、自分の「普通」が脅かされたときは適切な方法で行動を起こしたり、他者を適切に批判して、対話を続けていくしかないと思います。

きっと大事なことは、意見の合わない他者の方だけを睨み続けることではなく、常に未来へ目を向け続けることです。
今自分ができる全ての主張や対話が何らかの形で未来につながっていくことを願いながら、どちらが前かも分からないこの世の中で、前だと信じる方向に向かって歩みを止めないことです。
今の僕にできることは、このnoteで声を上げることでした。

 

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ここまでお読みいただきありがとうございました。
たくさんのご意見やご教授、お待ちしております。