(note過去記事)ツイートがバズりました

(note過去記事:2019年4月14日公開)

 

4月12日、金曜日。東大の入学式で上野千鶴子氏が述べた祝辞について以下のようなツイートをしたところ、バズりました。

 

このツイートをした当初は、ただ文章を貼っただけなので、どこか自分には関係がない、自分はただ情報を提供しただけ、と思っていました。

しかし、このようなリプライを見つけた時、自分の持っていた「単なる情報の貼り付け」という認識が一気に変わることになりました。

 

 

一つ目のリプライを最初に読んだ時、正直こう思いました。

そういうリプライを想定してわざわざ全文のURLを載せたんだよ。と。

 

僕はあくまで、スクショ部分は自分が特に気に入ったところを見せるための一つのやり方としか思っていませんでしたし、裏を返せば、このツイートを見た人はみんな最終的にURLをクリックしてくれるだろうと、どこか期待していた部分もあったと思います。

しかし、実際にツイートアクティビティを見てみると、このスクショ画像をクリックした回数が412,533回だったのに対し、URLをクリックした回数は58,155回となっていました。(4/14 20:31現在)

ということはつまり、(画像は一枚だったので)単純計算でいくと、35万人以上の人が全文を読むことなくスクショ部分だけを読んだということになります。

この時僕は初めて、自分が行ったことの重大さに気づき、その瞬間、このツイートが途端に「自分ごと」化したように感じました。

このスクショだけを読んだ人は、祝辞に関して「良い部分」だけを知ることになります。前半部分の首をかしげたくなってしまうような部分は捨象され、今回の祝辞が過度に賞賛されます。また、このような「良い部分」しか知らない人は、全文を読んで今回の祝辞を批判をしている人に対して、批判的な態度をとったり発言をしたりするようになります。
(一つの文章の中には、往往にして賛成できる部分と賛成できない部分があるため、ある部分については賛成or反対、他の部分については賛成or反対という議論をしないと建設的なものにはなりません。今回の場合についていうと、スクショ部分だけを見て「賛成」した人と、前半の部分もしくは全文を読んで「批判」した人の間で建設的な議論が成り立つはずがありません。)

この流れは完全に悪循環ですが、この悪循環は僕が作り出した部分も大きいと思います。この社会の中で、「スクショだけ見て満足するな」と言って35万人の人のせいにするのは無理があるでしょう。

単なるお気に入りの部分の紹介のつもりが、このような形で、今回の祝辞に対する35万人の捉え方をある意味、歪めてしまうことに繋がってしまった。これは僕の中で大きな衝撃でした。35万人という自分の想像の範囲を超える数の人々に、自分が与えることになった影響の大きさは、到底僕一人で背負い切れるものではないという恐怖、ままならなさも感じました。

 

しかしこの話は、「スクショ部分を読んだだけで、全文を読んでいないであろう35万人」についてだけでは終わりません。僕のツイートは、「スクショを読んだ後に全文を読んだであろう6万人」にも影響を与えてしまったのだと思います。

人間には、先入観というものがあります。あらかじめ「良い」という情報を得てからそのものをみると、バイアスがかかり全体が良いかのように捉えられる、ということは誰しも常にしていることです。(自分の持つ「良い」という先入観に合うような情報のみに注目してしまう、ということでもあると思います。)逆もまた然り。

今回、僕のスクショを読んでから全文を読んだ人の多くは、多かれ少なかれ「今回の祝辞は素晴らしいことを言っている」というイメージを持った上で、全文を読み始めたはずです。

そうして、前半部分の首肯できない部分はあまり注目されず、結果として「全体」として素晴らしい名文だ!という感想ばかりが目立つようになったのではないでしょうか。(文章全体の良さ-悪さの差という意味では、僕自身も確かに全体として良い文章だと思いましたが、それはある文章を評価する上で必ずしも適切なやり方とは言えないでしょう。)

このようにして生じた過度の賞賛についても、全部というわけではないですが、かなりの部分が僕の導いたことであると思います。

僕はあくまで「スクショの部分が良かった」とのみツイートしただけで、全体として瑕疵がないとは言っていないのですが、そんな言外の意味を読み手に期待するのは野暮というものでしょう。

結果として僕は、このツイートをすることによって、このスクショを見た40万人ほどの人に、そのような偏った印象を与えてしまったわけです。(スクショもURLも開かずにこのツイートを目にした人にも、偏った影響を与えることになってしまったと思います。)

 

この「切り取り」という行為、そしてそれによる「歪み」は、ある情報をそのまま伝えるべきだという倫理に照らすと、良いこととは言えません。常に「正しい」事実を伝えるべき機関や状況はあります。しかし一方で、情報をそのまま伝えることが常に至上の価値であるようにも、僕は思えません。

人間の目の視野角は、120度と言われています。世界を認識すること自体が、そもそも切り取るというということを前提にしているのであり、もっというと、世界は切り取って初めて認識されるのではないかと思います。人は違った視角の中で、そして違った価値観や信条の中で生きています。その中で物事を表現するというのは、自分の世界を表象することであり、また、願いを込めることでもあります。

今回のツイートも、僕がこれまでの人生の蓄積で拙いながらも育んできた価値観に照らした上で、スクショの部分がもっと多くの人に知られてほしい、これによって世界が少しでも優しくなればいい、そういった願いを込めて、タイムラインに放流したつもりです。

偏りのない状態で祝辞全文を読むことの大事さと、僕の願いの強さを天秤にかけた時、どちらに傾く「べき」であったかは、正直なところわかりません。今この瞬間、自分が偏りを生み出してしまったことへの後悔がある一方で、このツイートを読んで少しでも多くの人が優しくなれたらいいなという願いを捨て切れません。

そして実際に、「偏りを生む切り取り方をするな」というリプライと同じくらい、「読む機会をくれてありがとう」というリプライが、僕の心の中で熱を帯びています。

願いを持つことが免罪符になると思っているわけではありませんし、そもそも偏りを持つことは避けられないのだからしょうがないと正当化したいとも思っていません。でも、そういう危ういバランスの上で、それぞれの人は尽きなく、それぞれの世界を持ちながら、何かの願いを込めて現実世界に働きかけている。それはまぎれもない事実であり、真実であるように思います。

 

きっと僕たちに必要なのは、自分が常に、自分の世界の中で物事を見ていることに自覚的になることと、他人の持つ世界を尊重することだと思います。加工前の情報(加工前の情報というのが世界に存在するかはわかりませんが、今回の例でいくと祝辞本文というテキスト)にできるだけ真摯に向き合った上で、それを切り取った自分の発言(願い)がどのように偏っているのかを意識すること。そして、自分の周りの他者が、それぞれ固有の世界を持つ人間だということを踏まえ、その世界を想像し、尊重すること。

 

特定の部分を「切り取る」という行為の持つ政治性は、現代社会の中でますます増していくように思います。
その政治性に自覚的になりながら、常に自己を相対化し、互いの世界を尊重した上で、願いを託して自分の世界を現実世界に向けて表象すること。これは今回の祝辞に込められた一つの重要なテーマであるようにも感じました。

 

この文章も、私の世界の表象であり、そして願いであること。

この文章を読んであなたが考えたことも、あなたの世界を反映したものであり、それが幾分の願いを含んでいること。

この1つの世界に、70億の世界がひしめきあっていること。

 

最後に岸政彦『断片的なものの社会学』の一節を紹介して終わります。

「私たちは、私たちの言葉や、私たちが思っている正しさや良いもの、美しいものが、どうか誰かに届きますようにと祈る。社会がそれを聞き届けてくれるかどうかはわからない。しかし私たちは、社会にむけて言葉を発し続けるしかない。それしかできることがない。

あるいは、少なくともそれだけはできる。」