(note過去記事)尊厳への意志

(note過去記事です:2018年6月4日公開)

 

自分を誇りたい。

その感情だけで生きているような気がする。

 

自分が自分であるというだけで肯定されたい。
そうすれば少なくとも自分からは死なずに済むと思うからだ。
そうして僕は自分を肯定するものを探し始めて、その答えを他でもない自分の存在に見出した。

自分という存在は様々な要素の複合体だ。これまで会って来た人、別れて来た人、生きている人、死んだ人、全ての存在がそれぞれの割合で自分の中に蓄積されている。
人だけでない。自分の好きなもの、自分の周りにあるもの全てが自分を構成している。自己があっての周囲ではなく、周囲あっての自己。周囲のあらゆるものが一つの身体という形を取った時に現れるのが自分であるのだろうと考えるようになった。

 

そう考えると、何が僕の生存にとって都合が良いか。

それは一つのものさしで自分というものを測ることを無力化することにある。
たとえ僕を成り立たせる一つの要素を切り取って他人のそれと比べたところで、それはあくまで要素に過ぎず、少なくとも僕ではない。
仮にある要素が他人より劣っていようが、そんなのはどうでもいい。なぜならその要素は自分という複雑系の中で有機的に結びつく動的なもので、他の要素と結びついて初めて僕の中で存在するものだからである。
「全体は部分の総和より大きい」という有名な言葉があるが、まさしくそうだろうと思う。人間はそもそも要素に分割しえない。個であり全体、全体であり大袈裟に言うなら一つの宇宙なのだろう。

そんな自己は他と比べることができない真に誇れるものである。そう思いたい。というかそう思わないとやっていられないというのが本音なのであるが。

 

現実の競争社会においてこの言説は社会的には何の効力も持たない。だがこの考えがあれば自分を誇ることができる。僕は生きることができる。生きてもいいと思える。それだけでいい。
自己の尊厳は、生存して自分の中の宇宙を拡張させていくことにあるのだろう。尊厳は生存によって膨張し、尊厳が生存を保つ。

 

何かが自分の心をかき乱して自分という生態系の均衡が崩れた時、人は死ぬのだろう。もっとも、自分の尊厳をかき乱すほどの重大なものを見つけることができた時点で、生きた価値はあったと言えるのかもしれないが。