(note過去記事)撮影済みの36枚フィルムを失くした

(note過去記事:2018年7月13日公開)

 

撮影済みの36枚フィルムを失くした。

ない。ない。

どこを探しても出てくる気配がしない。
どこかへ捨ててしまったんだろうか。
とにかく、ない。
そのフィルムに刻まれた友達の笑顔や何気ない風景をもう一度見ることはできない。

何だか取り返しのつかないようなことをした気がして、感傷的になった。

 

さっきから何のために写真を撮るんだろうということを考えている。

記録するため?では何のために記録するのか?

本当にその場にいたことを後で確かめるため?
写真なんて撮らなくても僕がそこにいたという事実には何の変わりもない。写真は事実の複製だから、事実には何の影響も与えない。

いつまでも形にして保存しておくため?
別に写真で保存しなくたって心の中にはその思い出が残り続ける。
思い出せなくなったって、忘れるわけじゃない。

写真は僕の一瞬の視界の一部であって、時間的にもサイズ的にもおそらく僕の視界の部分集合にすぎない。それを何でわざわざ残す必要があるのか。

答えは単純である、きっとその瞬間が好きだからだ。
好きなものだけ眺めたい時に写真はうってつけである。
その気持ちが今も持続しているかはさておき、全ての写真はこれまでに僕が「好き」だと感じた一瞬を切り取っている。そういう気持ちでシャッターを切っている。

好きなものが奪われるのは誰だって悲しい。
もう元には戻らないのだといらぬ喪失感に駆られる。

だけど写真は宝石と違ってそれ自体複製だ。
ものすごく「好き」の濃度を圧縮した複製。
写真がなくなったところで、文脈から切り離された一瞬の風景が本来の時間の流れの中に帰っていくだけである。
思い出せなくなるかもしれないけど、なくなるわけじゃない。

誰にも奪えない思い出を背負って生きる僕たちは無敵だ。
みんながそれぞれ無敵なのだ、そう思う。

写真はその無敵さを補強してくれるけど、別になくなっていい。
ない方がいいとは言わないけれど、なくたっていい。

 

こうして僕はフィルムをなくした心の傷を、
虚栄だらけの言葉の絆創膏でそっと保護してやる。