社会的マジョリティへの異議申し立てドラマ『ひだまりが聴こえる』

左:航平、右:太一 の構図で外で弁当を食べているシーン

※このブログはネタバレを含みます。
※このブログ内で使用されている画像は全て公式HPのギャラリー内のものです。

 

 

2024年7月から9月までテレビ東京にて放送されていたドラマ『ひだまりが聴こえる』。

深夜放送枠でありながらもそのクオリティが話題を呼び、クランクイン!が発表した「2024年7月期『面白かった夏ドラマ』ランキング」ではその他ドラマを抑えて堂々の1位を獲得。

さらに、W主演を演じた中沢元紀と小林虎之介が、同メディア発表の「2024年夏ドラマ『演技が光っていた主演俳優』ランキング」でワンツーフィニッシュを決めるなど、各所で話題になりまくっている作品となっております。

 

あらすじを公式HPより抜粋。

難聴によっていつしか人と距離を置くことが当たり前になってしまった大学生の航平と、明るくまっすぐな性格の同級生・太一。正反対な性格の2人を繋いだのは、聴覚に障がいのある生徒に講義内容をリアルタイムで伝えるボランティア“ノートテイク”だった。不器⽤な2人の⼼を繊細に描いた、切なくも儚いヒューマンラブストーリー。

この作品は、オリジナルBLアンソロジーCanna」で連載中の文乃ゆきによる同名作の実写化となっており、ドラマ自体も男性同士の恋愛を描いたBL作品となっています。

※このドラマのストーリーやセリフはかなり原作に忠実なので、ここから述べていくポイントは大部分が原作にも当てはまります。文乃先生、誠にありがとうございます。

 

僕がこのドラマについて感想を書きたいと思ったのは、単純にドラマが面白かっただとか、小林虎之介のいでたちが個人的にタイプだったからという理由(だけ)ではなく、男性同士の恋愛というマイノリティ性と、難聴というマイノリティ性、その2つのマイノリティ性が交差するこのドラマが、広く社会的マイノリティを取り巻く社会問題に対して非常に示唆を与える作品になっているためです。

これまでにも聴覚障害をもつ人物が登場する、優れたBL作品は多くありますが、その中でも特に『ひだまりが聴こえる』が社会に対してもつ姿勢は一貫しているといえます。

 

話が長くなるので、ここからいくつかの章に分けて、論を展開していきます。

まず第一章ではこのドラマが一貫して「社会モデル」の立場から難聴を描いていることを指摘し、ドラマ内で映される社会に対する異議申し立ての例をピックアップします。

第二章では、その「社会モデル」を前提としながら、ドラマ内で難聴というマイノリティ性と同性を好きになるというマイノリティ性が重なり合うように描かれている構成について指摘し、続く第三章では、その重なり合いの中で、太一が自分の恋愛感情に気づくのに時間がかかってしまったことに言及していきます。

第四章では、ここまでの議論の先に、難聴の有無、そして異性愛/同性愛という2つの重ね合わされる〈境界線〉を飛び越える存在としての「太一」を描き出していきます。

最後に第五章では派生して、そうした太一と航平の関係性が、難聴という障害に閉じない形での様々な「マイノリティ性」の開示や捉え直しの中で変化し、深まっていく様子を描きます。

 

日本語の文章でしか届けられないのですが、届くべき人に届くと嬉しいです。

 

 

第一章「聴こえないのは、お前のせいじゃないだろ。」

太一「聴こえないときはそう言えよ。何回でも聴き返せよ。なんでお前の方が遠慮してんだよ。聴こえないのは、お前のせいじゃないだろ。」

第一話より

 

あらすじに書かれている通り、航平は突発性難聴による中途難聴(後天的に難聴になること)によって周りの音が聞こえにくく、日常生活において多くの不便を強いられています。

学生の当然の権利である授業を受ける権利を保障するために、大学側ではノートテイカーという授業の内容をメモにとる学生を募集しているのですが、ひょんな事から太一が航平のノートテイクを引き受ける、というところから2人の関係性は始まります。

ある日授業を終えて2人が食堂に向かうと、航平は他の生徒からやっかみを受けて取り囲まれるのですが、それを見た太一がその生徒に殴りかかります。

その後航平がなぜ自分を助けてくれたのか、どうせ何か言われても自分は難聴で聞こえないのだから、と尋ねた時、冒頭のセリフが太一の口から発せられます。

 

喧嘩で怪我をした太一の傷を手当てする航平

 

「難聴者が、周りの声が聞こえにくいのはなぜか?」と訊かれたとき、多くの人は「聴覚に障がいがあるから」と答えるのではないでしょうか。つまり、当人がもつ障害があるから、声が聞こえないのであるという説明の仕方です。

ただし太一は、周りの声が聞こえないのは難聴者自身のせいではなく、周りが問題なのである(だから何回でも聴き返すのは当然の権利である)とごく当たり前に主張します。

 

この太一の主張は、障害者の社会運動において主張されてきた「障害の社会モデル」に非常に近いものだと言えます。

研究者の松波めぐみ氏(2024)は、「障害のある人が制限や不利益を受けるのはその人の心身の損傷(機能障害)が原因である」とする「個人モデル」に対して、社会モデルを、「障害のある人が制限や不利益を受けるのは多数派に合わせて社会がつくられてきたために、様々な社会的障壁(社会のバリア)があるから」と説明していますが、まさに太一の言っている内容と重なる部分があります。この考え方は2011年の「改正障害者基本法」でも示されているものです。

※近年人に対して「害」という文字を当てはめるのが不適切であるという理由で「障がい」という表記が普及していますが、社会モデルに立つと、その人自身が不利益を受けるのは「(人ではなく)社会側に障害がある」ということになるので、「障害」という表記でも問題ないということが言われています。このブログではその考えに則り、漢字で表記します。

 

このような姿勢は、このシーン以外にもドラマ内で一貫して描かれており、いくつか紹介します。

第二話、太一が哲学の授業でノートテイクが間に合わず、教授が話している途中で「先生!ゆっくり!もうちょっとゆっくり話してください!」と声高に申し立てるシーンは、太一がノートテイクの初心者であることや航平の難聴とは状況が違うことを踏まえても、「聞く側」の理解の難しさは「話す側」に由来しているということを暗に示しています。

 

また第四話の航平が医師と話しているシーンでは、医師が以下のセリフを発します。

ストレスを溜めるのが一番(耳に)良くないですから。もっとも、聴こえる人に合わせて作られたこの社会の中で生活するのは、それが何より難しい事かもしれませんが。

このセリフもまた明確に、聴覚障害者の生きにくさや不便さが、聴こえる人に合わせて作られている社会の側に由来することを示すものでしょう。

 

他にも多くありますが最後に、第十一話において、航平と同じく中途難聴で普段周りに合わせようと苦労するマヤと太一のやりとりもまた、このドラマのハイライトになっています。

マヤ(手前)に話しかける太一

マヤ「私が頑張ればいいんでしょ。私がもっと努力して聞こえてるフリしなくて済むようになれば。私がもっともっと頑張れば。」

太一「そんなのおかしいだろ。なんでお前ばっかり頑張んなきゃいけねえんだよ。お前はもう十分頑張ってんだろ。」

障害を「個人モデル」で捉えようとすると、聞こえないのは難聴者が原因なのだから、努力するのは当人であるという思考に陥りがちですが、太一はその状況を「おかしい」と断言します。これもまた、変わるべきは当人ではなく周りであるという社会モデルの考え方を、わかりやすく反映したやりとりだと言えるのではないでしょうか。

 

 

また「個人モデル」の視点から障害を持つ人を描く場合、社会の中で懸命に努力する「健気」な性格として描かれることが多いかもしれませんが(参考:渡辺一史『なぜ人と人は支え合うのか』)、それ自体が好意的に見えてステレオタイプ化した描き方であるということにも、このドラマは踏み込んでいると感じられます。

第三話、(難聴であることを知らずに)航平に好意を抱いた美穂という女性が、航平のことを知ろうと太一を呼び出し、会話するシーンです。

太一(左)と美穂(右)が机を隔てて向かい合って話している

美穂「えっ…杉原くん耳聴こえないの?」

太一「いやいや、全然聴こえないわけじゃないんだけどね。」

美穂「ウソ…。やばい!この小説と同じ!主人公の女の子が耳の聴こえない男の子と出会って恋する話なんだけど、私今超ハマってて!かわいそうな彼のために尽くす主人公がマジで泣けんのね。私手話で会話とか憧れてたんだけど、今まで周りにそういう人いなかったし。なんか物語の中の人って感じ!」

太一「(机を拳で叩きつけて)何言ってんだよ。アイツは手話だって使わねえし、全く聴こえないわけじゃねえし、かわいそうだなんて勝手に決めつけんなよ!(※) それに、アンタにとっては物語の中の話でも、アイツにとっては現実なんだぞ!」

※注:最後のセリフは原作では、「アイツは手話で会話しねーし、全く聴こえないわけじゃねーし、自分のことは何でも自分でやってる。勝手にそんな小説と同じにすんなよ!」となっています。ドラマ版では全く聴こえないわけじゃないからかわいそうではない、というある種ろう者に対する偏見が含まれる論理のように見えますが、原作ではいつも助けを必要とする受動的でかわいそうな存在という偏見に対して、(できる範囲で)自分のことを自分でやる主体であるという論理が展開されていきます。

 

難聴であることを本人の許可なく伝えていいのかという点は重要な指摘ですが、ここで太一は画一的で偏見混じりな「聴覚障害者」に対するイメージを明確に批判しています。(ちなみにこのあと美穂は反省し、考えを改めてまた太一航平と友達になります)

 

加えて、先ほど言及したマヤは、いい面だけでなく、かなり性格がきつい人物としても描かれています。ただし、障害を持っているからと言って、性格が良いわけでも健気なわけでもないはずです(当然、障害があるからと言って性格が悪いわけでもない)。

人間、性格が悪い部分(とき)もあれば、いい部分(とき)もある。それは聴こえる人も聴こえない人も変わらない。難聴を抱える1人のただの人間としてマヤが描かれていることが、この作品の誠実さの一側面なのかもしれません。

マヤの写真

 

ちなみにドラマ本編以外でも、例えば各種SNSでの動画はすべて字幕をつけているなどの合理的配慮がある他、製作時には俳優自らも難聴の人々に話を聞く機会を持ったことや、監修の方をつけているなど、誠実に社会に届ける上で必要なことをきちんと行なっている点も評価できるポイントだと感じています。(Xでの画像へのALT付記などは今後行われるといいなと思いつつ…)

 

ここまで述べてきたように、このドラマ、そして太一は一貫して、難聴による生きにくさを本人のせいではなく、社会のせいであると異議申し立てる姿勢を取っています。
この「社会モデル」の考え方が、同性を好きになるマイノリティ性の議論においても重要になります。

 

 

第二章「太一も、向こう側の住人なんだから。」

航平「期待しちゃいけない。太一も、向こう側の住人なんだから。俺がいけない場所にいて、そこに仲間もいるんだ。」

第二話より

 

この章では、このドラマのもう一つのテーマである、男性同士のラブストーリーの要素に射程を広げながら、難聴によるマイノリティ性と、同性を好きになるマイノリティ性の2つがどのように重なり合っているかについて述べていきます。

この二つの重なりが明確に示されているシーンがあるというよりは、ゲイである自分が、難聴者であるがゆえの困難に対して共感できる描かれ方を(あえて)されているのではないか、という提起に近い話なので、僕自身の解釈でしかないことあらかじめご了承ください。

ここで重要な指摘として、(ゲイでありながらも聴者である僕が)二つのマイノリティ性を簡単に重ね合わせて、共感しても良いのかということがあります。その二つを重ね合わせる背景は後述しますが、僕自身の知識不足や無自覚な偏見による物言いがあるかもしれないので、もしお気付きの方がいればご指摘ください。

 

第二話、打ち解けてきたかのように見えた航平と太一は、航平の一方的な「引け目」によって、一時わだかまりができてしまいます。

体育の授業中、自分が難聴であることで不要な「特別扱い」をされた航平は、自分(=難聴者)と、太一を含む周り(=聴者)の間の埋まらない距離を痛感し、冒頭のセリフをひとり、胸の内で発します。

体育館の壁にもたれて虚空を眺める航平

 

「"向こう側の住人"だから期待してはいけない」という表現は、おそらく様々な立場の人からの共感に耐えうる言い回しであり、その中には異性愛者に見える同性に片想いをする人も含みます(現に、侮蔑表現として「ソッチ系」という言葉があるほど)。

航平がどのタイミングから太一に恋愛感情を持ち始めたかは不明ですが、2〜3話で、少なくとも特別な想いを持ち始めたことが描かれていると読み取れるシーンも多く、その前提に立つならば、「聴者に対する感情」と「異性愛者に見える同性に対する感情」があえて混同されている表現だと読み解くこともできるのではないかということです。

 

この解釈をさらに深めるシーンが、第四話で見られます。

ここで航平は、自分の聴力が落ちているという診断、そして太一と美穂が何やら「いい感じ」であるという噂を同じタイミングで知らされます。これは航平にとって、聴者としての太一との距離がますます大きくなるという意味でも、異性愛者としての太一が女性と付き合って遠くに行ってしまうという意味でも、二重の意味で太一との壁を痛感させられるシーンとなっており、この後航平は一方的に太一に対して距離を置くようになります。

つまり、航平にとって太一は、聴者という意味でも、そして異性愛者の同性という意味でも「向こう側」であったと読み取れるように、このドラマが作られていると言えるのではないでしょうか。

 

その他にも、難聴によるマイノリティ性と、同性を好きになるマイノリティ性が重なり合いながら共感を生み出す要素が多く描かれます。その一つが、マヤが登場当初に太一たちに向けていた態度です。

マヤは、同じ境遇の先輩である航平が太一たちと仲良くしていることを知ったものの、太一のずさんなノートテイクの仕方などを見て警戒心を抱く他、太一たち聴者に対して以下のようなやりとりを繰り広げます。

マヤ(右)が太一(左)に対してノートテイクのずさんさなどを非難するシーン

マヤ「なんの悩みもなさそうで、お気楽でいいですね。どんな風に生きてきたか想像つくっていうか、まあ、なんの苦労もなく育ってきたんでしょうね。」

太一「待てよ。苦労してないなんて勝手に決めつけんなよ。よく知りもしないのに、お前の物差しで勝手に人の人生測んじゃねえよ。」

マヤ「なんであんたにそんなこと言われなきゃなんないの。うっさい。あんたみたいな分かったつもりでいる奴が一番うっとうしい。」

第七話より

 

マヤはこの後、一緒に時間を過ごす中でその考えを改めていくわけですが、出会って早々こういうことを言ってくるので、一視聴者としてかなり面を喰らいます。(マヤを演じる⽩⽯優愛さんの演技力が異常なほど高いので、より凄みがある。)

ただよくよく見ていくとマヤは、航平のことを守りたいという気持ちからこうした言動を取っていることも分かってきます。2人は同じ境遇の苦労をわかり合う関係であり、飲み会で周りの聴者に合わせようとして疲弊した愚痴をこぼし合うなど互いにケアし合う仲であることが描かれていきます。

愚痴をこぼしあうマヤ(左)と航平(右)

(飲み会帰り)

航平「やっぱ人が多いと疲れるね」

マヤ「私なんて全然会話が聞こえないからオフってましたよ。先輩やたら頑張るなあ、って。」

航平「頑張りすぎた。」

 

マヤを見たときの感想としてはまず「あらまあ・・・」という感情がくるわけですが、心のどこかで「わかる・・・」と叫ぶ自分がいることもまた事実なのです。

勝手に共感していいか全くわからないのですが、自分が差別的発言を浴びてヤケクソになっているときにノンケカップルを見て「ノンケたちは幸せでいいよな」と吐き捨てた若かりし頃の記憶が蘇ってくるし、異性愛者前提の恋バナの巻き込まれた飲み会の帰り道に、同じく同性愛者の友人と「途中から適当に喋ってた」と愚痴をこぼした景色が鮮明に思い出せるわけです。勝手に共感していいか全くわからないのですが。

 

その他、第一章で触れた「聴こえる人に合わせて作られたこの社会の中で生活するのは、それが何より難しい事かもしれません」というセリフの「聴こえる人」をあらゆる社会的マジョリティに置き換えると、様々な属性の人が共感しうる表現になっていますし、社会的弱者が付与されがちなステレオタイプについても、他の属性において同じことが言えます。

 

こう考えると、事情は大きく違えど、社会的マジョリティ(聴者/異性愛者)に合わせて作られた社会を生きていく、という意味においては難聴者と同性愛者という二つの社会的マイノリティがある種同列に語られうる余地があり、それゆえに、このドラマにおいて僕のような同性愛者が共感できるシーンがあるのではないかと思えてきます。

現に、第1章で言及した「社会モデル」の考え方も、その発端は障害者の運動でありながら、そのほかの社会的マイノリティにも適用可能な概念であることを松波氏は指摘しています。

マジョリティを前提にした社会であるからこそ、マイノリティの権利をとりもどすために合理的配慮が必要になる。本書では「健常者中心の社会」ゆえのバリアのことを書いてきたが、例えば「日本人中心の社会」であるからこその不利は膨大にある。「異性愛者中心でシスジェンダー中心の社会」であるからこその不利も同様だ。

松波めぐみ『「社会モデルで考える」ためのレッスン』p.156

 

 

第三章「いい加減、自分の気持ちに気づいたらどうなの?」

マヤ「ったく、どこまで鈍感なのよ。いい加減、自分の気持ちに気づいたらどうなの?」

太一「俺の気持ち?」

第十二話より

 

続くこの章では、難聴によるマイノリティ性と、同性を好きになるマイノリティ性の重なりについて、もう1人からの視点、つまり太一からの視点で考えてみます。

このドラマは1話から12話までという大変長い時間をかけて2人が結ばれるまでを描くものであり、太一に至っては12話目で、マヤからの言葉もあってようやく航平への恋愛感情に気づく始末となっています。

太一に自分の恋愛感情に気づくように伝えるマヤ

 

全読者が感じているであろう「なぜこんなに気づくのが遅かったのか」という問いに対して、「航平が聴覚障害を持っていること」「男性同士の恋愛であること」の少なくとも2つがかけ合わさった結果なのではと感じられるシーンが多く見られることをここでは指摘していきます。

 

太一が航平に対する恋愛感情に気づくのに時間がかかった理由として、まず航平を助けたいという気持ちと恋愛感情の境目が曖昧であったことが仮説として挙げられます。

太一が航平について誰かに語るとき、それは常に愛の告白のようなものでありながら、同時に航平が生きづらさを感じるような社会の壁を無くしたいという願いのようなものでもありました。いくつか振り返ってみます。

 

航平の良さについて語る太一

太一「航平はさ、頭いいし、家もデケえし、女の子にもモテるし。でもさアイツ周りと関わろうとしねえで、なんでも自分で抱え込むし、自信とか全然持ってなくてさ。

(中略)

でもそれってさ、耳のせいで嫌な思いしたのが積み重なってさ、それがアイツの自信とかを根こそぎ奪ってんのかなって思ったらさ、なんかすげえもったいないって思ったんだよ。

航平はいいやつなんだよ。無口だし、無愛想だけど、すごい優しいやつでさ。みんな知らないだけなんだ。アイツがどんなに頑張ってるのか。アイツがどんなにいい顔するのか。

そういうの何も知ろうとしねえで、アイツのこと勝手に決めつけて、置いてけぼりにしてたんじゃないのかって。だから、アイツを1人にしちゃダメだと思って。だから俺……。」

第五話より

 

航平への想いについて語る太一

太一「俺ここで働いてみてよくわかった。伝えるって本当に難しいんだなって。研修とかやってるとさ、こっちが言いてえこととかちゃんと相手に伝わってんのかなって思うときあって。

でさ、聞こえてるやつ同士でもそんななのに、聞こえないやつはさ、もっとそういう気持ちになってんだろうなって思って。そりゃストレスも溜まるだろうし、自分の殻にも閉じこもりたくなるよな。航平も最初の頃そうだったし。

けどアイツすげえいい顔して笑うからさ、あの顔見たらもっともっと笑わせてやりてえと思って。1人じゃ無理かもしんねえけど、犀さん(社長)みてえな人たちと一緒だったら、聴こえなくても寂しくないって思えるような場所を増やしていけるんじゃないかなって思って。

それがいつかアイツのところにまで届いて、どこにいたってアイツが笑っていられるような、そんな世界にできたらいいなって思ったんだよ。」

マヤ「何それ。なんでそれ先輩に言わないの!?」

太一「航平にはなんか恥ずかしくて言えねえんだよ。」

第十二話より

 

側から見ると「もうそれ好きじゃん」と思うわけですが、どうやら太一自身は気づいておらず、しびれを切らしたマヤは「いい加減自分の気持ちに気づいたらどうなの?」と視聴者の代弁みたいなセリフを半ギレで繰り出します。

ここにおいて太一の思いは最初から変わらず、航平が笑っていられるような社会にしたい、そのために自分ができることをやりたいというもので、平たくいうと航平のことを助けたいという気持ちに近いものです。

この気持ちは恋愛感情に近いようでいて、けれど社会的に困難を抱える人の状況をどうにかしたいという正義感のようにも見えるため、案外「好き」とは気づきにくい。

 

そこに輪をかけるのが、男性同士の恋愛という側面です。

太一は三話で美穂という女子大学生と連絡先を交換し、友達からの「美穂は太一に気があるのでは」という言葉を真に受けて照れるような仕草をしています。

航平への恋愛感情には1年以上かけて気づくのに対して、美穂への恋愛ムードが出会ってからものの1週間ほどで出来上がっていく展開を見ると、スムーズすぎて意味がわからなくなってきます。(太一は航平との恋愛においては「鈍感」なキャラとして描かれますが、美穂とのシーンはむしろ先走っているのが対比的です。)

太一が美穂のことを本当に好きだったかはさておき、男女であるという設定だけでここまで順調に恋愛の可能性が提示されることは、ひるがえって男性同士の恋愛の可能性が非常に気づきにくいものであったことを示しています。

 

このように、一見個別の事象に見える二つの「イレギュラー」な状況が重なり合ったために、太一は航平に対する自分の気持ちに気づかぬままの時間を長く過ごすことになった可能性が高いのではないか、そう思ってしまうわけです。

 

 

第四章「全部はわかんなくても、こっちはわかりたいって思ってんだよ」

太一「お前は自分の気持ちをちゃんと言わなすぎなんだよ!」

航平「言ったってわかんないよどうせ」

太一「どうせってなんだよ。そりゃ全部はわかんなくても、こっちはわかりたいって思ってんだよ!なのに、お前が黙ってたら何もわかんないままだろ。」

第五話より

 

ここまで長々と「社会モデル」やら、難聴によるマイノリティ性と、同性を好きになるマイノリティ性の重なりやらについて述べてきました。

締めくくりとなるこの章では、それらの議論を踏まえることで太一というキャラクターがこのドラマにおいてどのような存在なのかという輪郭をより浮かび上がらせてみたいと思います。

 

太一のセリフの中に繰り返し登場する考え方があります。それは「決めつけるな」というものです。

「最初から諦めたりなんかすんな」「勝手に決めつけんなよ」、言葉は違えど、太一は他者に対しても自分に対しても、やってみる前に何かを決めつけて諦めたり、可能性を閉ざして欲しくないと思っています。

想いをぶつけ合う太一(左)と航平(右)

ここに、彼の「野生の社会モデリスト」的な思考も大きく関係します。太一は、「この人は耳が聴こえない人だ」と簡単にカテゴリーの中に押し込めたり、「この人は周りの声が聞こえないから」などと腫れ物扱い/特別扱いすることをしません。むしろ難聴者も聴者もひとりの人間であるのに、マジョリティ側が勝手に作った社会のせいで難聴者が生きにくさを抱えている。聴こえにくいからといって寂しく思わないで済む社会にするために、自分を含むマジョリティや社会の側が行動するべきであるという思想に立ちます。

ゆえに航平を「マイノリティ」という枠の中だけに閉じ込めず(当然必要な合理的配慮はしますが)、終始、可能性を持っているひとりの人間として航平と向き合い、自分と航平の間に不要な壁や線引きを置きません。

 

これを示す具体的なエピソードに一つ踏み込みます。(僕が好きなので)

前半における太一はノートテイクの講習を受けておらず、ノートテイクのクオリティはかなり低いものでした。ノートテイクの基本は「圧縮する、削ぎ落とす」ことで短い時間で必要な情報を書き留めることですが、逆に太一は必要な情報の書き留めに間に合っていないうえに、むしろ授業中に教授が口にした冗談を書き留め、周りの生徒が笑っている中で追いつけていない航平に教えて笑わせようとします。

教授の冗談を見せて航平を笑わせようとする太一

 

ノートテイクの基本ができていないので当たり前にマヤから非難されるわけなのですが、一方でこのシーンは太一の航平に対する想いをより鮮明に描いているように見えます。もしも必要な情報を伝えることだけを目的とするなら、授業の寄り道である「教授のギャグ」は削ぎ落とされてしかるべきです。しかしそうなると、内容はわかっても、授業を受けている空間の中で自分一人が笑えないという肩身の狭さを抱えることになります。

内容とギャグ、どちらか一方しか選べないわけではないのですが、そういった削ぎ落とされがちな「余剰」にコミュニケーションの面白さや周りとの共通体験があり、それを何より伝えようとする太一の姿勢は、航平をひとりの人間として、その場にいてもいいと思ってもらえるように試みる愛情を示しているように見えます。

 

現に太一は第九話で、大学を中退して入る会社の社長に対して以下のセリフを口にします。

自分だけ違うって感じたら寂しいって思うし、誰といてもそんなんだったら、一人でいるのと変わんないじゃんか。でも同じことで同じように感じたり笑えたりすりゃ、そんな気持ちになることもないだろ。聴こえるとか聴こえないとかそんなの関係なくて、一緒にいるってそういうことだろ。

第九話より

航平が寂しくないような場所を作るために自分に何ができるのかを考えた太一なりの姿勢がこのシーンに現れていると言えるでしょう(後半で太一はきちんとノートテイクの講習を受けます。)

 

こうした太一の壁を作らない姿勢は、航平が難聴であるということだけでなく、同性を好きになることについても同様です。

航平は一度、第五話で太一に告白をします。それ以降も友達としての付き合いが続くわけですが、航平はどこかで、自分の好意が太一を怖がらせているんじゃないかという不安を抱えています。明言されていませんが、第二章で述べた通り、そこにはおそらく、異性愛者に見える太一に対して恋愛感情を持ってしまったという要素も絡み合っているはずです。

そんな中、第十二話で二度目の告白シーンがやってきます。

 

航平に自分の想いを伝える太一

航平「我慢しようと思ったけど、やっぱりダメだ。友達としてじゃなくて、好きだよ。今でもずっと太一のことが好きだ。いつも太一のことずっと考えてた。またこんなこと言ってごめん。」

太一「何だよ、そうやっていつも先に謝んなよ、俺まだ何も言ってねえだろ。俺だってお前のこと好きなのに。」

ここで太一はいつもと変わらぬ姿勢を見せます。それは勝手に自分が間違っていると決めつけて可能性を閉ざすなという姿勢であり、これがそのまま、恋愛感情を伝えるセリフへとつながっていきます。

ここで太一は、社会が作った枠組に惑わされずに航平を一人の人間として見つめ、そこに引かれた〈二重の境界線〉を同時に、ひょいと飛び越えていく存在として描かれているというわけです。

 

難聴によるマイノリティ性と、同性を好きになるマイノリティ性の中で、時折太一に対して「自分と太一は別の世界の住人であるから」と勝手に壁を作る航平。社会が作ったその壁を壊そうと「こっちは分かりたいって思ってるんだから諦めるな」と伝え続けていく太一の構図が、このドラマでは終始展開されていきます。

そうして最終的に航平は、太一との出会いを通して「向こう側にも居場所がある」と信じられるようになっていくのです。

 

蛇足ですが、この構図を見ると、『おっさんずラブ シーズン1』における牧と春田の関係性が想起されます。

同性愛者と異性愛者の壁を感じて春田を一方的に突き放す牧に対して、「お前はいつもさ、そうやって勝手に決めんなよ!」と叫ぶ春田は、『ひだまりが聴こえる』の太一の像と重ね合って映ってくるのです。

 

 

第五章「あのさ、ハンバーグの話なんだけどさ。」

太一「親(の離婚)のこと気にしてないって言ったけど、あれウソでさ。(中略)
このハンバーグ、あんときと同じくらい美味しいって思ったよ。ありがとな。……おい無視かよぉ。」 

航平「え?なんか言った?」

太一「何でもねえよ」

航平「ごめん聴こえなかったから。」

太一「何でもねえって、大した内容じゃねえから気にすんな。ほら、ノート(写し)終わったなら早く飯食っちまえ」

航平「太一が言ったんだよ。聴こえなかったら何度でも聴き返せって。聴こえないのは俺のせいじゃないって。あのとき嬉しかった。」

太一「……あのさ、ハンバーグの話なんだけどさ……」

第三話より

 

ここまでがこのブログの本題になりますが、太一と航平の関係性をより豊かに理解する上で重要なポイントを最後に付け足します。それは、太一の「(航平に対する)自分の弱さの開示」です。

太一は両親が離婚し、おじいちゃんに育ててもらっているというバックグラウンドがあります。普段はそのことについて気丈に振る舞う太一ですが、航平がハンバーグを作ってくれたとき、離婚当時自分が傷ついて周りに当たっていたこと、そんな中でおじいちゃんが作ってくれた黒焦げのハンバーグが美味しかったことを航平の背中に向けて語ります。

しかしその話を航平は聴き取れず、というところから、冒頭のやりとりが始まっていき、再び太一は、同じ話を同じトーンで航平に話し始めるという流れに移っていきます。ちなみにこの流れは原作にない、ドラマオリジナルのものです(天才?)

弁当を食べながら楽しそうに話す太一(左)と航平(右)

太一は自分の感情を出すことを全く厭わないタイプで、美味しい時も嬉しい時も不機嫌な時も全て表情に出る人間ですが、とりわけ航平に対しては自分の弱さもまた開示するシーンが見られます。特に先に挙げたシーンは、航平自身の難聴に対する考え方の変化と美しく呼応しながら、太一にとってパーソナルな傷を二度同じトーンで開示するという二人の距離の縮め方が非常に胸を震わせるものでした。

太一もまた難聴ではない形、例えば両親がいないことや、金銭的な余裕がなく自分で学費を稼がなければならないことなど、自分の人生における苦労を経験しており、比べられない様々な困難を抱えながら二人は仲を深めていきます。第二章で取り上げたマヤの「聴者は何の苦労もない人生を送っているだろう」という旨のセリフに対する太一の抗議にも、こうした背景があったのかもしれません。

 

太一のこういった感情の開示は他にもいくつか見られ、例えば第二話で航平にわざと無視をされたシーンでは「お前なんだよ、昨日から目合ったのに無視しやがって。傷つくだろうが!」と言ってのけます。

このような弱さの開示は、自分の弱さに向き合わないという「有毒な男らしさ(Toxic Masculinity)」とかけ離れたものであり、そういった観点からもこのドラマは規範性に対する投げかけを行なっていると言えるのではないでしょうか。

当然、このドラマが何らか別の形で、別の規範性を促進している可能性はあるので、その点については議論の余地に開かれています。

 

 

結び 聴者である自分にとっての『ひだまりが聴こえる』

ここまで、長々と論を展開してきたので、一度振り返ります。

まず第一章ではこのドラマが一貫して「社会モデル」の立場から難聴を描いていることを指摘し、ドラマ内で映される社会に対する異議申し立ての例をピックアップしてきました。

第二章では、「社会モデル」を前提としながら、ドラマ内で聴覚障害というマイノリティ性と同性を好きになるというマイノリティ性が重なり合うように描かれている構成について指摘しました。

続く第三章では、その重なり合いの中で、太一が自分の恋愛感情に気づくのに時間がかかってしまったことに言及をしました。

第四章では、ここまでの議論の先に、聴覚障害の有無、そして異性愛/同性愛という2つの重ね合わされる〈境界線〉を飛び越える存在として「太一」が描かれていることを論じました。

最後に第五章では派生して、そうした太一と航平の関係性が、難聴という障害に閉じない形での様々な「マイノリティ性」の開示や捉え直しの中で変化し、深まっていく様子を描いてきました。

ここまでくると、冒頭で僕がお話した「広く社会的マイノリティを取り巻く社会問題に対して非常に示唆を与える作品になっている」という意味合いもなんとなくご理解いただけたのではないかと思います。

 

僕自身聴者として、聴くという観点ではこれまで不自由を感じることなく生きてこれた上で(それはひとえに聴者前提で社会が作られているからなのですが)、いかに自分が無知だったのかを突きつけられるドラマでもありました。

難聴者とろう者の違いも知らなければ、聴覚障害者がみんな手話を使うわけではないこと、中途難聴者ゆえの苦労があること、人によって聴こえにくい角度や話し方があること、補聴器を付けている場合人混みの中だと声が聞こえにくいこと、後ろから急に触って止めようとするのは危険であることなど、このドラマで改めて気づいたことが沢山あります。

またこのドラマから派生する形で本を読むと、例えば聴覚障害者が緊急時にアナウンスが聞こえず例えば避難などが遅れるリスクがあること、かつて手話が禁止されていた時代があったこと、補聴器をイヤホンを間違えられやすいことなどなど多くの困難があるほか、耳マークや車につける聴覚障害者マークなどの印があること、聴覚障害者が暮らしやすいように当事者の運動や企業などのサポートがあってきたことなど、これまで自分が知ろうともしていなかったことが多くあることに気づかされました。またこれは、聴覚以外の障害においても同じことが言えます。
(ちなみに第二話で太一と航平が水を掛け合うシーンがありますが、補聴器が水に弱いということを知るとまた違う見方ができます。)

 

BLや男性同士の恋愛を描いたコンテンツを、異性愛者が安全地帯から楽しんで消費して終わりにして欲しくないと常々思っている自分ですが、聴者が、聴覚障害について描いたコンテンツにキュンキュンして終わりにするのではなく、現に起こっている当事者の困難を知り、日常生活などで自分ができることがないかを振り返る機会を持つためのきっかけに、このドラマがなるといいなと思いました。

いくつか、参考になるサイトも貼っておきます。

 

 

その流れで最後に、「ひだまりが聴こえる」の主題歌になっている川崎鷹也さんの「夕陽の上」のMVについていくつかコメントします。

youtu.be

このMVでは、航平を演じた中沢元紀さんが女性と(おそらく)付き合っているという設定で作られており、一部で批判が起こっていました。

この歌がドラマ書き下ろしではなかったことなど様々な事情があるでしょうし、「男性同士だけでなく広く恋愛を描く歌だから」という考えなどもあるかもしれませんが、一方でBLドラマに主演した俳優が、そのドラマの主題歌のMVで女性と付き合っている姿を見ることは、ファンにとって辛い部分もあるという主張も頷けます。(当初から予定されていたかは不明ですが、ドラマ映像を編集する形でのMVも後日公式から公開されました。)

 

僕はこのMVが男性同士で描かれるべきだった、あるいは今のままでよかったという判断をここでしたいというよりも、もう一つの視点を提起したいと思っています。それは、このMVに対して「なぜどちらも聴者(に見える人)として描かれているのか」という批判がなぜ見られなかったのか、という視点です。

MVを見る限り、二人は口頭で話し、特に補聴器なども付けていないように見えます。ドラマの設定に忠実に描き、当事者の方へのレプリゼンテーションを実現するならば、このような指摘もあってしかるべきなのに、それが見られなかったことに非対称性を感じ取ります。

僕自身、このドラマを見なければこうした視点を得られなかったと思うと、まだ僕に見えていないものが多くあると思うのですが、こうした素晴らしいドラマなどとの出会いを通して、いろんなことを学んでいきたいと思っています。そして少しでも、多くの人にとって「ひだまり」となるような暖かな場所がこの世界に増えていきますように。

 

とにかく、『ひだまりが聴こえる』製作陣の皆さん、キャストの皆さん、素晴らしいきっかけになる作品を誠にありがとうございました!!!!!!!!!!!!1

 

 

 

***

 

Appendix①:障害学とクィアスタディーズの(学問的な)重なりについて

より話を広げて障害者を取り巻く状況とクィアを取り巻く状況の重なりと違いに言及するために、障害学とクィアスタディーズというアカデミックなアプローチがどのように重なり合っているかについて少しだけ言及してみます。(僕はプロの研究者でもなんでもないので、私見の限りですが)

 

大きく二つのアプローチに分けると、まず一つ目に、健常者主義におけるマイノリティ性と異性愛/シスジェンダー規範におけるマイノリティ性がどのように類似し、どのように異なるかについて検討するアプローチが挙げられます。

具体に踏み込んでいる日本語の文献をあまり見つけられなかったのですが、たとえば『クィアスタディーズをひらく第3巻 健康/病、障害、身体』において、飯野由里子氏による「『見えない』障害のカミングアウトはなぜ難しいのか」という論考では、カミングアウトにおける複数の諸相を整理した上で、「見えない」障害のカミングアウトと、同じく「見えない」ジェンダーセクシュアリティのカミングアウトの類似点と相違点を描き出しています。

英語文献に目を向けると、包括的にクィアと障害者の経験の類似性と相違点をまとめていく論文が見つけられます。古い文献ですが、Mark Sherry氏による"Overlaps and contradictions between queer theory and disability studies"(「クィア理論と障害学の共通点と相違点」)などは様々な視点から論じている論文です。 ※この論文は友だちから教えてもらいました。

概要を読むと、かなり包括的に論じられていることがわかります。

This paper begins by exploring similarities in the experiences of queers and disabled people, such as familial isolation, high rates of violence, stereotypes and discrimination, and the difficulties associated with passing and coming out. Rejecting pathologization and politicizing access as well as using humor and parody as political tools have been important for both movements. The paper then considers similarities and differences in Queer Theory and Disability Studies as intellectual disciplines, by examining their debt to feminism, their opposition to hegemonic normalcy, their strategic use of universalist and minority discourses, their deconstruction of essentialist identity categories and their use of concepts such as performativity.

(拙訳)この論文はまず、クィアと障害を持つ人の経験の重なり─家族からの孤立、暴力の危険性、ステレオタイプや差別、パスとカミングアウトにまつわる困難─について検討を進める。脱病理化、アクセスの政治化、政治的な道具としてユーモアやパロディを活用することなどは双方の社会運動において重要であることを見ていく。その後、学問領域としてのクィア理論と障害学の間の類似点と相違点を検討する、例えばフェミニズムからの派生、権威的な規範性に対する異議申し立て、普遍主義やマイノリティの言説の戦略的な活用、本質主義的なアイデンティティ脱構築、パフォーマティビティなどの考え方の活用などである。

 

二つ目に、インターセクショナリティ的なアプローチが挙げられます。近年日本においても少しずつ浸透してきたインターセクショナリティは、大雑把にいうと健常者主義、異性愛/シスジェンダー規範などの差別構造の交差性に着目する考え方を指します。

正確な理解のために、以下の記事をぜひ読んでいただければと思います。

gendai.media

 

 

Appendix②:聴覚障害をもつ人物が登場するBL作品について

こちら数多くあるのですが、例えば詠里氏の『僕らには僕らの言葉がある』は、当事者の困難や聴覚障害に関する社会的な状況、医学的な解説などまで言及されている、特に学び多き漫画だと感じています。