【冒頭無料公開】文学フリマ東京40に出店いたします

初めての文学フリマ

5/11(日)開催の文学フリマ東京40にて、友達のあたそさんと共同出店いたします‼️タイトルは『他人からマブダチになるまでの文通』です。

11月にはじめて話したその日に、なんか、往復書簡っていうの?響きがカッケーからやりたくない❓というちょっとダサい理由で始めた文通の記録を本にしました。

恐る恐る自己開示しながらの文通なので、中身も人間特有のダサさが出ているのですが、そのダサさが愛しんだわという温かい本になっているかと思っております。

まあ、社会に対する文句も満載なので温かいというとアレだな、でも共通の社会に対する文句を持っている者同士は仲良くなれます。これは絶対です。んで、そんな文句の先に、安全地帯としての互いの存在への愛が芽生えていくということを知りました。

#文学フリマ東京40 『他人からマブダチになるまでの文通』 苔とあたそ、初対面のふたりがガストで意気投合し、「文通をしよう」と思い立ってから5ヶ月ぶんの文通の記録。 互いの問いかけに応答しながら、旅や好きな本の話から、労働、ジェンダー、セクシュアリティ、セックス、恋愛至上主義などのテーマまで、軽やかに話が広がっていきます。  巡りゆく季節の中で、たがいに恐る恐る自己開示をしたり、しなかったりしながら、次第に親睦を深めていく様子をご覧ください。 苔  会社員。Xやブログで文章を綴る。「今の社会では話せる場所が少ない、けれども私たちにとっては重要なこと」をテーマに話すスペース「ウチらのサイゼ会」を、毎週土曜日の夜中にひらいている。 あたそ 普段は会社員として働きながら、ときどき文章を書いたりトークイベントを開いたりしている。著書に『女を忘れるといいぞ』(KADOKAWA)など。24年11月に『結局、他人の集まりなので』(主婦と生活社)を上梓。  ◾️南3-4ホール | こ-63 (ノンフィクション|エッセイ・随筆・体験記) ◾️書籍|B6 122ページ 1000円

※アクセスできない方もいらっしゃると思うので、通販も予定しています。後日、あたそのXアカウントをご確認ください。

 

互いの一通目を無料公開します

とはいえ、往復書簡って何?て感じだと思うので、今回は互いの最初の1通目を無料公開いたします。

最初はお互いに気取っていてちょっぴりダサいところもあるのですが、ここから先の関係の変化も含めて本書ではお楽しみいただけると幸いです。

 

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苔さんへ|コインゲームと沈黙

本当はお会いした次の日にこの往復書簡を書こうと思っていたのに、どんなことを書くべきか……悩んでいるうちに時間だけが経ってしまった。 

 

先日はありがとうございました。ちゃんとお話をしたのは初めてだったけど、とても楽しい時間を過ごすことができました。

「散歩がしたい」「31行かない?」「コインゲームやらない?」「さっき無印で肌触りのいい毛布を見つけたから、触らせたい」という苔さんの提案のすべてが今までの私にはなかった発想ばかりで、とても愉快に過ごせました。今思い返すと、私って結構受け身なのかも。ゲーセンの店員さんに「秋葉原って、エリア的にコインゲーム置いていないんですよ」と言われたのも、結局苔さんが無印良品で肌触りのいい毛布と敷布団のセットを買っていた両手に大きな紙袋を持っていたのも、ものすごくおかしかった……! 私とはまったく違う世界で生きてきた人なんだなと改めて思ったりもしていました。

 

なので、駅前のガストで「往復書簡やらない?」とお誘いいただいたのもとてもうれしかったです。私も往復書簡に憧れていたので。そもそも私の周りで、文章を書くことや自己開示することについて話せる人が今までいなかったから、こうして今特定の誰かに対して文章を書いているのも不思議な感じ。ちょっと恥ずかしさもあります。

文学フリマ38に出した『喪失と回復』という同人誌に寄稿してもらったのがきっかけだったのだけれど、TwitterのDMでやりとりをしたとき、最後に書いてあった「もっと仲良くなりたい」という一言を頼りに勇気を出して連絡してよかったな、と別れたあと電車に乗りながら考えていました。

 

私は、普段から友だちに「人を信用していない」「知り合って長いのに、未だに壁がある」「人と会っているときに頑張って盛り上げようとする必要はないんだよ」と指摘を受ける機会があまりにも多くて、ここ近年のコンプレックスであり改善したい点だったりします。先週も、ネットを通じて知り合った15年来の友だち4人と神田で飲んでいたんだけど、そのときも「ずっと人に気を遣っている」と言われて、あ~きっと私は私の周りにいる友だちや知り合い全員に同じように思われているんだろうなという事実に気がつきました。

実際に信用していないか? というとまったくそんなことはないはずなのに、他の人たちの関係性を眺めていると私は誰に対しても距離があるというか。なかなか踏み込んでいけないというか……。誰かと一定以上の仲になるのは私にはちょっと難しいのかもしれないな、とふとした時に考えます。それでも友だちはたくさんいて、わざわざ連絡をくれたり遊びに誘ってくれたりするからありがたい限りなんだけど……。やっぱり、こういうところも私は受け身なんだろうな。

 

実は、苔さんと会っていたときに過剰に盛り上げようとか、沈黙が嫌で饒舌になってしまうとか、話題が途切れたとき用に頭のなかでは次の話題の常に考えておくとか、私が想像できる範囲の「信用していない」と他者から思われてしまう言動や習性をできるだけ辞めてみたんです。これから、少しずつ辞めてみるつもり。性格や考え方、癖を直すのは難しいかもしれないけれど、ちょっとでも自分で気になる駄目な部分をマシにしたい……。

こうして往復書簡をはじめたくらいだし、LINEも交換して「本当に楽しかった 仲良くなりたいね」と言ってもらえたから私のなかにあった不安は払しょくされているけれど、話していたときに時折訪れる沈黙が本当はものすごく怖かった。それでも、あとで後悔するとわかったうえで間を埋めるための不必要な発言もできるだけしないよう我慢しつつ、いつもより落ち着いていられて、時間をかけて考えながら自分らしい発言ができた気がしています。別れたあとにいつもあるはずの「あのとき、ああ言えばよかった!」「こんなこと言わなければよかった!」という脳内反省会も比較的短時間で済んだかも。

周りの人が言う、〝素の自分〟とか〝ありのまま〟って一体何なんだろうね? 最近、よく考えています。気を遣うのも、話している相手を楽しませようと努力するのも、本当の自分のはずなのに。

苔さんは、周りの友だちからどんな人だと言われますか? やっと知り合えたばかりだからこそ気になります。それから、人と対話をしているときの癖や気をつけていることはありますか? 苔さんも苔さんで、割と気を遣う方なのかなと思ったので。教えてください。

 

今日は、同僚とランチに行ってインドカレーを食べながら、「人の何に惹かれるのか? どんな基準で『面白い/つまらない』と思うのか?」という話をしていました。最近、人と話をしていて珍しく「この人と話していても面白くないな……。」と思ってしまって、その理由を探していたんですよね。振り返ってみると、私は一次情報をたくさん持っていて、自力で世界を広げていける人が好きなんだろうな。なんか、人との関係に悩んでばかりいるね。

 

お会いしたとき、仕事がとても忙しいと言っていたけれど、そろそろ落ち着いた頃でしょうか? 私は尋常ではないくらいの寒がりで、街中やオフィス内を見渡しても大抵の場合は私が一番厚着……があるあるだったりします。毎年のことながら、冬を乗り越えられるのか心配です。おやすみなさい。

 

2024年11月10日 あたそ

 

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あたそ氏へ|自己分析と敷布団 

先日はこちらこそありがとね。こちらこそすごく楽しかったです。僕は遊びのレパートリーがすごく少ないので、友達と遊ぶときは大体「散歩」「ボーリング」「ゲーセン」「バッティングセンター」の4つのシフトを回しているわけですが、子供みたいなレパートリーゆえに人を選ぶので、あたそ氏が気に入ってくれるか少し不安でした。が、楽しかったと言ってくれたようで何より。子供みたいなレパートリーと言いましたが、大人になってから「遊ぶ=飲みにいく」という暗黙の等式を感じることが増えたので、それに抗っているということでもあります。子供みたいなことを、大人になってからも一緒にやってくれる友達は最高だし、そういう友達と一緒に行く夜のバーは特別魅力的だったりします。いつかバーにも行きましょうね。

 

書いてくれた不安も読みました。人を信用することが大事って風潮あるけど、信用を表す方法も、信用するまでにかかる時間も人それぞれだから、どうか気に病みすぎず。「人に気を遣う」と書くか、「人に心配りができる」と書くかの間に、大きな違いはないように思いますので。

 

沈黙が苦手なのは、僕も一緒です。すぐに間を埋めようとしてしまう。「たくさんおしゃべりできる人ほど仲良し」みたいな指標って心底くだらないと思うけど、それでも脳がその沈黙を「気まずい時間」だと変換して受け取ってしまうみたいです。この気まずさって何なんでしょうね。多分ですけど、沈黙を許容することってただただ自分がそこにいることを肯定することに近い。僕たちは、ただただそこにいる、ということができない。何か話題を提供しないといけない、つまりはなんらかの役割のようなものを果たさないと、自分はここにいてはいけないような気がする。人と人との関係性ってやっぱり、最初は役割から入ることが多いから、何もしなくてもただそこにいてもいいと思える関係を築くまでは時間がかかるんでしょうね。僕は一人でいる時でさえ、何をするわけでもなくスマホを開いてしまうんですが、それも根っこは同じような気がしています。「何もしないでそこにいる」ことは僕にとってはすごく難しい。あたそ氏はどうですか?

 

さて、こうして往復書簡を始めたわけですが、往復書簡って面白いですな。一般的にお手紙を書くときって、相手にしか読まれない前提で書くわけですが、これは人に見られるお手紙でもあるわけで、変なことを書けないなという緊張感もある。外向きの顔をしていると思えば急にあなたの目を見つめてみたり、あなただけを見ているかと思えばどこかで目線を逸らしたり、そういう絶妙なバランス感覚が求められているように感じます。けれども、そういうバランスの中でしか書けない言葉もあるんだろうと思います。就活の自己分析みたいなものですね。外向けのアウトプットを意識しながら自分の内面に入り込んでいく。そういうものを「本物の自己分析ではない」と批判する声もありますが、そういう時しか出会えない自分の一側面もきっとあるはずで。当然、その側面だけを自分の全人格なのだと思い込む心性や、思い込ませてしまう社会は病的なわけですが。

 

この流れで、あたそさんからいただいた「苔さんは、周りの友だちからどんな人だと言われますか?」というご質問についても考えてみました。考えてみて戦慄したのですが、そのとき一緒にいる人やコミュニティによって、自分がどんな人かが違いすぎる。共通点を取ってみるとおそらく、ある程度論理的であるとか、人当たりがいいとか、その辺りなんでしょうけど(多分それが初対面の人に抱かせる印象と一致すると思うのですが)。でもね、大体みんなそうだと思うんです。みんな、誰といるかによってちょっとずつ人格が違う。ただそのこと自体は何も悪くないと思っていて、僕はそれぞれの自分を楽しんでいるというと変ですけど、今日はこの人と会うってことはこういう自分になれるなとか、今日はこの人に会えて久しぶりにこういう自分になれてよかったな、とか思います。結局、誰かとの関係が深まるというのは、「その人と一緒にいる自分」の厚みが増えていくということなんだと思ってしまうし、そんな厚みを持った自分だからこそ、誰かのことを失うたびに、ああ僕はこの人と一緒にいる時の自分に会えなくなったんだなと寂しくなる。

とはいえ一方で、こういう人と一緒にいる時の自分が好き/嫌いという分別はあって、一緒にいて好きだと思う人はたいてい、自分の言葉を持っている人です。特定の言葉を使うことを避けたり、特定の言葉を自分なりの意味合いで使っていたり、そういう人は決まって自分に芯がある人でした。そういう芯がある人と一緒にいると、自分の中の知らない自分が触発されるような感覚がして面白いです。あたそ氏もその一人ですよ。

 

そういえば、あのとき秋葉原無印良品で買ったふわふわの敷布団と毛布は我が家で大活躍中で、ふわふわは正義であるという結論を確認した次第。昔から僕は大のふわふわ好きで、好きだった男の誕生日プレゼントにジェラートピケのパジャマをプレゼントしたことがあります。ただでさえ抱きついた時に最高な気分になるのだから、ジェラートピケを着させた上で抱きついたらもっと最高の気分になるだろうという期待を持ってプレゼントしましたが、プレゼントした次の機会にフラれて絶縁したので結局一度も抱きしめることなく終わってしまいました。あたそ氏は、これまでの人生で、人からもらった中で嬉しかったものやこと(思い出でも構いませんが)は何でしたか? 理由といっしょに教えてください。

 

あっという間に秋も終わってしまいますね。冬支度をしなくては。それではおやすみなさい。

 

2024年11月16日 苔

 

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少しでも先が気になったという方は、ぜひ本書をお手に取りくださいませ。

一通目なのでまだおとなしいですが、次から社会に悪態をつきまくる回が始まります。

例えば:
・親友の結婚式が家父長制すぎて祝えなくて感情終わった
・資本主義真っ盛りの労働環境、いい加減どうにかならない?
Twitterの言論空間って、安心して話せる場所がなさすぎ
・マンハッタンでセックスの誘いを断りました
恋愛至上主義、馬鹿げている

皆様との出会いを楽しみにしております!